買い物狂いの忘備録

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1965-1966 part2

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1965~1966 Part2 SEALチームベトナムへの派兵

1966年2月に、第一海兵師団第一海兵連隊がベトナムに配備されました。その作戦行動には、UDTなどのフロッグマンによって支援された数多くの上陸作戦任務が含まれました。
また同月、米海軍司令部直轄の作戦のためにサンディエゴのSEAL TEAM 1(3名の将校と15名の下士官兵)の小さなグループが、南ベトナムに送られました。
当初、海軍の作戦立案者はこの小グループを、どうすべきかについてまったく分からず、それに運用する作戦計画もありませんでした。
1964年、歴戦の海軍士官Bucklewによって書かれたレポートにより、メコンデルタ地域でSEALを活用するように勧告されましたが、実際にSEALが派遣されるまでに2年の月日がかかりました。
Captain Phil H Bucklew
Cpt Bucklew

SEALsは、Saigon近郊のランサット特別地区(Rung Sat Special Zone [RSS])で活動するベトコンゲリラを標的としました。
この泥だらけのマングローブ沼の広さは約400平方マイル、そして1mちょっとの水深で4ノットの速い潮流が流れていました。
野生生物の棲家だったこの湿地帯は、Saigon近くで行うゲリラ作戦の避難所として、VCが長い間使用してきました。Saigonに向かう航路はこのVCの巣ともいえる隠れ家を経由するので、一般の商船への頻繁な襲撃や砲撃を可能にしてきました。
*RSSZ(ランサット特別区域)は、以前より共産ゲリラの聖域として知られていた。
別名「暗殺者の森」とも言われている。
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このSEALの小さなグループは、Nha Beの海軍基地から出撃し、最初はD分遣隊という名目で配属されました。
これらの初期のSEALによって蓄積された経験と実績は、ベトナム各地への他の小隊の配備を推し進めました。
彼らの登場は、ベトコンの活動を阻害しました。これは今まで実質的に不可能とされてきた事でした。
VCはもはや、航路の妨害を行う事も逃走することもできなくなりました。
SEALの待ち伏せポイントは、偵察用航空機に設置された「赤いもや」と呼ばれる赤外線装置によって得られた敵の移動を参考にして、それに情報を加味して決定されました。
ベトコンはすぐに、この新しい脅威が彼らの領域で活動を始めた事を察知しましたが、未知の敵の正体が明らかになるまで対抗する事ができませんでした。
この間、RSSZにおけるVCの活動は低下しました。

現時点では、SEALの作戦上の役割は依然として定まっておらず、それによって一般命令の拡大解釈によって大きな柔軟性を得る事ができました。
あるSEAL隊員は、下された作戦の例をこう話しました。
「敵と接触が行われるまでのパトロール。できるだけ多くの敵兵を殺害する事。任務完了後に敵地から脱出する」
SEAL小隊内で、作戦展開地域(AO)や標準的な作戦手順(SOP)を確立する際に問題が発生しましたが、SEALはこれを部隊で実行するために最善を尽くしました。
後に海軍関係者は「SEALパック」と呼ばれるものをまとめました。
このグループは、ボートサポートユニット(Boat Support Units)、機動サポートチーム(Mobile Support Teams)、海軍のシーウルフ武装ヘリコプターなどの支援部隊などで構成されていました。
SEALの典型的な作戦では、これらの支援部隊により敵地に侵入し、そして戻ってくるまで待機する。敵との接触が行われた後、これらの支援部隊はSEALの指示により火力支援を行い、優れた火力で部隊を抽出することがありました。
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ダウンロード (2)
MSTチームワッペン
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そのような任務は、7名の隊員がVCの野営地がある島に潜入した作戦で見る事ができました。SEALは夜明け前、ボートで潜入しましたが、潜入後ボートは約500mほど沖合で待機していました。
SEALは海岸に上陸しましたが、足が深くはまってしまう泥に遭遇しました。彼らは完全に上陸するのに4時間以上かかりました。そこでSEALは安全を確保し、汚れてしまった武器をクリーニングしました。
それからSEALの男達は、8時間にわたり島をパトロールしましたが、何も発見できませんでした。彼らは川に隠してあったボートで合流地点に戻ったが、その時島の乾いた土地に川と並行して新しい小道を発見しました。
SEALは川に沿って潜入、静かに水の流れに沿って移動し川沿いの草木にカモフラージュして隠れました。

SEALのポイントマンは、チームをそこに留め偵察をしました。彼は2つの小屋を発見し、6人のベトナム人が集まり始めました。その近くに積まれたのは6丁のライフルで、そのうちいくつかは共産国製の武器でした。
この発見を報告するために、ポイントマンは密かに後退しました。チームの隊長は、逃走を図るであろうVCを分断するために、隊を2つに分割しました。1つの隊が小屋の方に展開していたので、もう一つの分隊はVCと反対側の運河にある小舟(サンパン)の中に潜みました。

突然、運河方向に展開していた分隊がベトナム人に発見されました。彼が警報を発する前に、SEALは火ぶたを切りました。5名のVCが射殺され、1人が小屋の中に逃げ込みましたが、その後を追うように手榴弾が投げ込まれました。

その地域を確保しながら、SEALは確保した書類をプラスチック製のバックに入れました。その書類は防水が施されたバッグに入れられ、VCのサンパンに載せられました。大柄なアメリカ人が一緒に乗るにはサンパンは小さすぎたので、SEAL隊員は運河を泳ぎサンパンを誘導しました。
彼らが沖合の支援艦艇と接触する前に、チームはVCの大規模な攻撃を受けました。川沿いにいたボートが丁度到着して火力支援を行い、チームを脱出させました。
捕獲された書類は、ほとんどの場合情報担当者にとって重要な収穫物でした。
このようなSEALパトロールは、現場の生の最新情報を安定して提供しました。

典型的なミッションでは、Seawolfヘリコプター隊の武装ヘリコプター(ガンシップ)や、固定翼の飛行機、陸上からの砲撃、軍艦による砲撃などが火力支援に使われました。
SEALは自分達に有利な環境の中でゲリラと戦い、ゲリラ活動地域の裏庭で激しい戦いを起こそうとしておりました。
小隊単位の戦いは、共産主義者の戦術の裏をかく有効な方法である事が判明しました。予期しない場所での待ち伏せや攻撃は、共産ゲリラに心理的なストレスと圧力をかけました。
SEALは反乱軍にとり戦争が高くつくように、色々な革新的な方法を取り入れ利用しました。
伝えられる所によると、SEALsはある任務で、共産党の上級幹部を暗殺したと言われています。
後に情報部は、その殺害した将校の葬儀の場所、日付、時刻を正確に特定する事ができました。
SEALはガンシップ武装ヘリコプターでその場所に強襲をかけ、仲間の葬儀に出席するために来ていた共産党の高級幹部数名を殺害しました。

1966年3月26日から4月7日まで、UDT2とSEALチーム1からの分遣隊がJackstay作戦に参加していました。
この作戦は、海兵隊がサイゴン川河口への上陸作戦も含まれていました。
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*ジャックステイ作戦に参加する、海兵隊Recon

UDTチームC分遣隊とD分遣隊の11名の隊員は、危険な河の浅瀬を迂回して上陸用舟艇を誘導するために、払暁から雨の降る朝8時に目標地点に到着した。彼らはその後監視作業を行い、上陸地点の500~800mに渡る地域の地雷などを処理し掃討しました。
SEALsと海兵隊が地域を徹底的に捜索して待ち伏せ準備をする間、UDTも敵軍の逃亡を阻止する4人組の阻止チームを編成しました。これらの部隊は、18時間にわたり該当地域に留まりました。
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1つのUDT阻止チームが、待ち伏せポイントでベトコンが乗ったジャンク船を攻撃、6名の乗員との激しい戦闘に巻き込まれました。ベトコンは戦闘で5名が戦死し、1名が捕虜となりました。
その後、部隊はベトコンの待機所を破壊するように命令を受けました。
Jackstay作戦は、UDT,SEALs,海兵隊Recon、および海軍からの部隊が参加したベトナムにおける最初の大規模な作戦として記録されました。
更にベトナム軍海兵隊支援のため、L.D.N.N(ベトナム海軍特殊部隊)とその顧問がRSSZに送られました。彼らには、3つの河川偵察作戦が与えられました。
その作戦は、参加部隊の優れた連携により、かなりの数のゲリラ活動を抑止し成功を収めました。

これまでSEALの待ち伏せチームは、NhaBeの基地から地元の民衆から見られやすい時間に、川を舟艇で行動し作戦を行わなければなりませんでした。
このような作戦行動をとるとベトコンに素早く警報が行き、初期の段階の待ち伏せ作戦は上手くいきませんでした。
ベトコンの情報網に対抗するためにとられた方法の1つが、NhaBe基地から武装したボートのみを出撃させ、チームメンバーをサイゴンまで車で送りだして移動させたやり方でした。この欺瞞作戦が4月18日と19日に初めて行われた時、SEALパトロールチームはRSSZ内で移動していたサンパンで、3名のベトコン兵士を射殺しました。
しかしながら、初期のこのような問題は以前として続いていました。
南ベトナム情報機関は情報源を厳重に秘匿していたが、4月13日RSSZにて、その情報提供者が夜間単独で灯りをつけずにサンパンで行動していたのを、SEAL部隊が待ち伏せ攻撃で殺害してしまいました。
米海軍はSEALの待ち伏せ作戦も厳重に秘匿していましたが、その後このような間違いを防ぐために、両国の連絡を強化する必要があるとみなされました。

4月27日に行われたOsage作戦にて、UDT11D分遣隊がDanangから北へ20マイルのPhuの偵察を行いました。そこで完全な水中破壊工作部隊の分遣隊がベトナムで最初に活動した事を祝して、UDT11はD分遣隊とともにC分遣隊を増援しました。
Osage作戦は、驚くべき事に敵兵力の捕獲を計画した、敵支配地域への水陸両用作戦の1つでした。この作戦の後に、夏に始まったDeckhouse作戦が続きました。
6月16日~18日まで行われたDeckhouse作戦の間、UDT11はSongCai川の岸にて、USSクックから出撃し極秘の偵察を行いました。
ベトコンの逃走を阻止するJunk Foce21にもUDTは参加しました。7月16日~18日まで、DeckhouseⅡ作戦の一部隊として行動し、その後Hastings作戦を支援するための作戦行動にも参加しました。
この作戦はDMZ(非武装地帯)から浸透してくる敵兵力の阻止の為に行われたが、北ベトナムは南部の反乱の支援を止めるつもりはありませんでした。
その結果6月にジョンソン大統領は、政治的圧力を高めるため北ベトナムのHanoiとHaiphongの石油基地の爆撃を行い、
戦いは拡大していきました。そして北ベトナムは、和平会談の提案を拒否し続けました。

6月15日早朝、SEALのパトロールはRSSZの東端にあるCo Gia川にて、サンパンを待ち伏せしました。1名のベトコン兵が死亡1名が負傷し、最後乗っていた1名が逃げ出しました。
ベトナムに派遣されたSEALチーム1は増強され、士官と20名の水兵がRSSZへ派遣されました。

7月27日正午、Can Gio村西側の川を、6名単位のSEALチーム3ケ分隊が行動していました。各分隊が静かに巡回していたら、1つの分隊が新しい足跡のついた小道を発見しました。
15時30分、SEALのポイントマンは3名の敵兵と接触しました。彼はM79グレネードランチャーを発射し、1名のベトコン兵を殺害しました。この地域を掃討している間、フロッグマン達は敵小隊を収容していた基地を発見しました。
最大で80名の兵士を収容できる規模の基地でした。
武器、装備品、米200ポンド、書類と共に大量の弾薬が鹵獲されました。
これらの鹵獲品と基地は、この後破壊されました。ここで鹵獲された文章は、Long Thanh半島のベトコンによって設置された防衛網と基地の位置を明らかにしました。

人的資源の増加に伴い、Nha BeからRSSZで行動しているSEAL分遣隊がG分遣隊として任命されました。
G分遣隊のパトロールは、RSSZのベトコンを苦しめ続けました。
8月5日Nha Beの南東16マイルの地点にて、払暁の待ち伏せで3艘のサンパンを鹵獲し(そのうち2艘はモーターを搭載していた)、積まれていた6000ポンドの米も捕獲しました。
サンパンを先導していた敵兵士は危険を察知し、仲間へ警告するために発砲しました。その後3人の敵兵が水に飛び込み、マングローブ沼地に向かって逃走しました。SEALは追跡しましたが、共産主義者は逃げおおせました。
8月7日、6名のSEAL隊員がジャンク船とサンパンを襲撃し、7名のベトコンを殺害しました。
18日の朝、パトロールチームは、306,000ポンド以上の米の備蓄を含む2つの巨大なサイロを発見しました。この地域へ空軍と海軍の砲撃支援要請され、そのサイロを破壊しました。
後にSEALは損害を評価し、徹底的に破壊するために再度派遣されました。
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