買い物狂いの忘備録

40代の物欲にまみれたオッサンの忘備録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など忘備録的に書いてます。

フェニックス 1697-1971

 先日こちらで書きました「テト 1968」にて、翻訳している最中に疑問点が色々と湧いてきました。
SEALの作戦行動にいつも参加しているPRU(省偵察隊)の存在と、一般人を標的にした「フェニックス計画」についてです。
日本ではPRUをフェニックス計画のために設立された暗殺部隊という表現が多いのですが、ならば何故その暗殺部隊がSEALと共に戦っているのでしょう?
まるでCIDG(簡単にいえば民兵)みたいな部隊ではないのか?あとフェニックス計画とは、何なのだろうか?
そう思い色々とネットの海を漂っていたら、よく纏められた資料を発見しました。
凄惨な歴史であり、極秘事項の事柄ですので、40年過ぎた今でも全容は分からないかと思います。
ですが、読んでみて今までの認識が改まりました。
色々な方からご意見を頂き、纏めさせて頂きました。また新たな資料を発見したら付け加えさせて頂きます。
では、本編の始まり~

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ph[1]

 1967年、CIA(アメリカ中央情報局)極東支部内の極秘セクション内にて、後に秘匿名「フェニックス」として知られる計画が開始されました。
MACV(ベトナム援助軍司令部)は、民間計画革命開発サポート”CORDS"を通じ、CIAがスポンサーとなった"Phung Hoang (すべてを見渡す鳥 の意)”もしくは”Phenix"と呼ばれた計画を支援し、ベトコンの上級幹部の除去を計りました。
CORDS Phoenix

後にこれらは暗殺計画と批判されましたが、"Phung Hoang"の目的は「破壊的分子を特定しそれを無効化するために、地方の警察と民兵組織グループの協力を得て行動を調性する」ことにありました。

 計画は、すべての南ベトナム人とアメリカ軍、ベトコンのインフラに対抗する警察と情報組織による協調攻撃を伴いました。CIAの資金は、計画のための触媒となり、ウィリアム・E・コルビーはその資金運用の監督に重要な役割を果たしました。

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ウイリアム・コルビー

 新しく創設された地区作戦情報コーディネーター委員会の勧告に基づき、警察と村落の職員からなる当局は、ベトコン幹部に名前と重要度を計るランクを付け、必要に応じて軍を使い逮捕する事でした。
様々なベトナム共和国の政府機関は、国家警察、軍のセキュリティチーム、武装した軍の宣伝チーム、国勢調査を行う幹部、そして特にCIAから訓練を受けた省偵察隊(PRU)などが計画を実行しました。
フェニックス計画は、おそらくベトナム戦争の間、アメリカ合衆国とベトナム共和国政府によって着手された最も誤解され論争の的となった計画といえます。
ベトナムにて、Lao Dong党(ベトコンの基盤でもある組織)の政治基盤を迅速かつ簡単に破壊したのは、この一連の計画でした。
 フェニックス計画は、報道やその他の伝聞情報で得られる話が逸話的であったり、証拠が得られなく間違っていた為、誤解されました。
アメリカ合衆国の反戦活動家や学者などの知識人が、それを一般人を対象とした不法で不道徳な暗殺プログラムのように伝えたので、計画は常に論争の的となりました。
 フェニックス計画は、いくつかの宣撫工作の1つとして、CIAが1960年代の間に南ベトナムで行った地方のセキュリティ・プログラムでした。
その内容は、南ベトナム政府とアメリカ合衆国政府が地元の農民をベトコンから保護するために、彼らの身を守るために軍事訓練するよう農民を説き伏せられるならば、南ベトナムの田園地方の広域が守られることができ、米軍によって事前の取り決めなしで敵から土地を取り戻す事ができるということででした。

 1967年までにベトナム米国軍事援助司令部(MACV)は、1つの組織に軍と民間の宣撫活動を一体化し、それは「民間計画革命開発サポート」”CORDS"と呼ばれました。
CIAとMACV、そしてサイゴン政府は、CORDSに強く関わっていきます。

 ロバート”トーチランプ”コマーが、ベトナムでの彼の点数稼ぎのためにフェニックス計画に飛びつくのに長くはかかりませんでした。
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ロバート(ト-チランプ)コマー 横にいるのはジョンソン大統領 

彼はリンドン・B・ジョンソン大統領の耳として活動しており、そしてこれは彼を政治的に強い立場にしていました。
彼を邪魔する人間は、ブルトーザーで轢かれるように排除されました。
もし誰かがこの計画を始めるとするならば、この横柄で尊大な元CIAアナリストでした。
コマーはベトコン組織への「散弾銃」のような広範囲なアプローチよりも、「ライフル弾」のように範囲を限定した捕えるような働きをしました。
CORDSの先頭にコマーは立ち、ウィリアム・E・コルビーの下で活動し成功を収めました。後の1968年、フェニックス計画はウィリアム・E・コルビーが引き継ぎました。

 ウィリアム・E・コルビーは、1959年から1962年の間、サイゴン支局のチーフとして、そしてCIAの極東課の部長として知られていました。
コルビーは、アメリカ合衆国が南ベトナムの村々から共産主義政治勢力を排除しなければならず、農村地方でのベトコン組織基盤を根絶しなければならないと考えていました。
また、CORDS「民間計画革命開発サポート」に取り組み、土地のインフラ整備や経済発展、それにベトコン組織基盤の根絶にかなりの資源を投入しました。

 CORDSのもう一つの構成要素が、フェニックス計画でした。
フェニックスがサイゴン政府によって動き表面上管轄されましたが、CIAがその計画に資金を提供し管理しました。
フェニックスは、野戦警察と地方の民兵組織の単位でベトコン組織に関する情報を収集し、その情報が南ベトナム全土の100以上の州や地区の、CIAによって組織化された情報委員会によりネットワーク化されたものを基盤としていました。

 基本的にこれらの情報委員会は、その地区で名の知られたベトコン組織の構成員のリストを作成しました。
個々の構成員の名前、階級と所在地が明らかとなったら、CIA準軍事組織のメンバーまたは南ベトナム野戦警察、または軍隊がこれらの構成員に対し、共産主義組織の実態と行動に関して情報収集の為尋問しました。
作成されたリストは、Tay Ninhや色々な所で行動するフェニックス野戦軍(南ベトナム国家警察、米海軍SEALs 米陸軍特殊部隊を含んだ)と地方の情報委員会に送られました。

 これらの軍事組織は村落に行き、名前を挙げられた個人を特定し、彼らを「無効化」しようとしました。
*活動できないようにする事。捕虜や拉致、対象者の殺害など広範囲の意味がある。
リストに書かれた人々は、尋問のために逮捕されたか捕えられました。また抵抗する者は殺害されました。
まず初めに、CIAはベトナム政府の援助で、地方または地区レベルで尋問を開始しました。
後に計画がサイゴン政府に渡された時、情報委員会だけが情報を取扱いました。
結局、約600名のアメリカ人(CIAと米軍関係者含む)がベトコン容疑者への尋問に直接関与していました。
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PRUのアドバイサーとして参加したアメリカ人


 ベトナム戦争のさ中、勇敢なベトナムの特別な警察組織(米軍とCIAによって指揮されていた)の小さなチームは、共産党員が主導する政治的な活動に対して、主に秘密戦争を仕掛けていました。
これらの警察隊は地方偵察隊”PRU"と呼ばれていました。そして彼らPRUは、ベトナム戦争において危険で難しい作戦を行いました。
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PRUの部隊章

 彼らは当初南ベトナム政府とCIAによって、1964年に作られた特別な準軍事組織でした。まず最初に、彼らは対テロチームとして知られていました。
 結局、PRUは南ベトナムの44の行政区において4000回以上の作戦行動を行い、1969年11月まで米陸軍将校と下士官の指揮下で行動し、後にCIAのアドバイザーの指揮下におかれました。
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PRUを指揮するSEALチーム2の兵士
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PRUは、フェニックス計画において最も論争の的となった存在でした。
これらの組織がCIAによって創設され、訓練され管理下に置かれたので、PRUは秘密裡に行動しました。
そのような行動が、彼らの活動に神話的な要素と嘘の話を付け加えてしまいました。
PRUのこれらの神話と嘘はベトナム戦争に於いて、多くの歴史家が詳細な調査をせずに額面通りに受け取ってしまいました。
 この認識不足は、ベトナム戦争中のアメリカの政治的な対立の為更に複雑になっていきます。
そしてそれは米国内の反戦論者に、アメリカおよび南ベトナム政府によって行われる共産軍への全非聖域化に対して、悪質な間違った請求を出させ政府に受け入れさせました。

 PRU隊員の補充は、地元行政区にて行われました。
多くのPRU隊員は、以前ベトコン兵士であったりARVN(ベトナム共和国軍)兵士でした。
幾人かが、正規のARVNに加わるのを嫌い、彼ら自身の出身地の行政区にて志願するのを希望した地元の若者であったり、また南ベトナム軍の特殊部隊兵士であったり、または民間不正規戦グループ"CIDG"のメンバーでした。
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2・3の行政区では、一部の仮釈放された囚人がPRUに加わる事が許されましたが、そのようなメンバーの数は僅かで、1968年以降は大いに減りました。
PRUは、カトリック教やカオダイ、モンタニヤード部族民などに対し強い宗教的コミュニティを提供し、共産党の天敵を作りました。
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 ベトナム戦争へ米軍が関与するのを批判する者たちは、PRUが暗殺チーム以外の何物でもないと主張しました。
しかしフェニックス計画にて殺害されたベトコン構成員のうち、PRUが殺害したのはわずか14%でした。
残りの大部分は、南ベトナム軍兵士と警察、米軍が行った衝突と急襲で死亡しました。

 1971年コルビーは、1968年から1971年5月までの間でフェニックス計画がベトナムにて20587名を死に至らしめたと明らかにしました。
例えば1969年、CIAの命令で南ベトナムの特殊部隊チームが、タイのKhac Chuyenという人物を2重スパイという理由で標的にしました。
結果特殊部隊により、男は「無効化」されました。

 フェニックス計画のは後に成功と評価されました。
スタンレー・カロウは数名のベトナム共産党幹部にインタビューし、フェニックス計画を以下のように評価しました。
約6万のベトコンのスパイと支援者を排除し、共産党の幹部数千名を犠牲にする、邪悪で容赦のない活動だったと。
グェン・コ・タク(1976年以降のベトナムの外務相)は、フェニックス計画が北ベトナム軍とベトコンを容赦なく一掃し、カンボジアの聖域までの撤退を強いた事を認めました。

W・R・コーソン中佐によると、フェニックスに関わった海兵隊のパトロールの経験はいくらか異なりました。
「第一軍の進軍の後にフェニックス計画の分隊が加わり、村落の人々と海兵隊の関係は冷え切ったものでした。
村の調査を始めると同時に我々は、村の住人が「フェニックス・チンピラ」が来て連行されるのを酷く怖れていたのに気が付きました。
フェニックスの遂行は何ももたらしませんでした。または恩恵はより少なく、アメリカのドル紙幣で雇われた山岳民族ヌン族を雇い、フェニックス計画は無実かまったく無関係の人々を殺害していきました。」

 評論家は、CIAが政治的な暗殺を武器としていた事を非難しました。
ベトナムでの行動の多くは、ベトコン組織の基盤を破壊する過程において、一般人の共産党員を暗殺しました。
CIAが行うフェニックス計画は主に、誘拐や暗殺を含むベトコンのテロ行為戦術に対応し、ベトナムにてアメリカが行う政治的な暗殺のために数多く行われました。

 1972年、コルビーは「米国援助軍司令部とCORDSの支持で、フェニックス計画はCIAでなくベトナム政府によって行われた」と書きました。
フェニックス計画は暗殺プログラムではありませんでした。
それは、政府転覆を狙うベトコン組織に対処し、その指導者を標的にしたプログラムでした。
いくつものケースでは、ベトコン組織からの離脱や寝返る説得し勧誘していましたが、しかし相当な数のベトコンメンバーが軍事行動にて殺されたか捕虜になるのを抵抗していました。
戦闘犠牲者の間で、ベトコンの組織的なテロリズムによる犠牲者とフェニックスで失われた犠牲者の間で膨大な差がありました。

 1972年にCORDSは、1968年のテト攻勢からフェニックスが行動し、5000名以上のベトコン要員を除去したと報告しました。そして従来型の軍事行動(フェニックスにより支援される)より、20000名以上無効化されました。
MACVは、フェニックスとテト攻勢への米軍の反撃が、他の地方の警察やCIDGプログラムとともに離反や寝返りを防ぎ、少なくとも80000名のベトコン要員を排除したと主張しました。

 その掲げた数字は予想の値よりも高いものでした。そしてその数字の根拠は、信頼性の低い統計に依存していました。
しかし、多くの活動によって、フェニックス(1971年に終了)と他の非聖域化プログラムは、ベトコン組織の効果的な活動を阻害し地下に追いやりました。
1972年の北ベトナム軍によるイースター攻勢と1975年のベトナム戦争終結時の攻勢の際、フェニックス計画はベトコン組織に壊滅的ダメージを与えていたので、ベトコンによる組織的な攻撃は2度と行われませんでした。






追記

暗黙裡に決められた入隊資格は、軍事、経済、社会事情など、ベトナムの表と裏も知り尽くした者で、ベトナム戦参加2回以上のベテランということになり、必然的にグリーンベレーを主体に、PRUはできあがったのである。
(並木書房 特殊部隊ーフェニックス作戦ー エリック・ヘルム著 北島護訳 監修 三島瑞穂 より抜粋)

フェニックス軍に参加した兵士は、カンボジアや山岳民族出身の傭兵も含まれていたという話も存在する。
対象を無効化する際、近隣の基地から適当に兵士をスカウトして狙撃をさせたという話もあるし、サイゴンで休暇中であった三島瑞穂氏も暗殺の依頼を受けたと、著書「グリーンベレーD446」にて記している。

ベトコン容疑者となった者達は収容所に収容されるのだが、その収容所内ではおぞましい拷問が行われていた。
女性に対しては暴力的なレイプや輪姦、ウナギやヘビなどを性器に挿入する、身体の中で敏感な部位(たとえば舌)や性器に電極をつけて電流を流す、水道のゴムホースなどで体を殴打する、など行われていたとの目撃例もある。
ある対象者の耳に棒を垂直に差し込み死ぬまで打ち込む、その地域の政治的な中核メンバーであると疑われた女性を監禁し餓死させた、睾丸や膣などに電気を流しショックを与えたなどの凄惨な行為も行われたようである。

国家野戦警察などがリストを元に対象者の自宅に行った際、玄関にて対象者の名前を2度呼び出てこなかったら、手りゅう弾を家に投げ込み爆殺したとの目撃例もあった。
ベトナム戦争終結後、ベトコン狩りで怨嗟の的であった国家野戦警察のメンバーは共産軍に捕えられ、収容所で強制労働に就かされ生きて帰ってくる者はいなかったとの事である。

フェニックス計画も官僚機構の腐敗により、しばしば間違った無実の人間が逮捕されていた。
場合によっては、地区当局はベトコンから賄賂を受けわざと取り逃がしていたとの話もある。

このような悲劇的な事例もあったが、フェニックス計画はベトコン組織の壊滅に最大限の効果を発揮したともいえよう。


*翻訳間違いや何かのミスは、極秘裏に無効化し処理していきますw
あと伝聞情報ばかりの掲載で本当に申し訳ありません。
読んで頂き、ありがとうございました。

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