買い物狂いの忘備録

40代の物欲にまみれたオッサンの忘備録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など忘備録的に書いてます。

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テト(1968) part6 

前回まではこちらをどうぞ
テト(1968) part1
テト(1968) part2
テト(1968) part3
テト(1968) part4
テト(1968) part5


Part 6  最終回  Man Hunters


 とある晩、18名のPRU(省偵察隊)を指揮していたSEALチームは、地区レベルのベトコン幹部と3人の村長が集まる会議を急襲するために攻撃準備をします。
PRUは地区をSEALの攻撃のために封鎖しました。
 突然ベトコンの分隊は、接近するSEALの後方部隊に銃撃を開始、SEALが応射し銃撃戦が始まります。
PRU部隊はすぐにターゲットの村長と幹部を発見しますが、突発的な戦闘で奇襲の要素は失われてしまいました。
この銃撃戦で、4名の敵兵を射殺しました。

 8月の最後の週、ST-2から第4小隊が第9小隊の救援のためデルタ地帯へ移動しました。1968年のこの時点で、ベトナムツアー(従軍)を行っていなかったSEALをみつける事は稀な事でした。
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 9月9日、他の2個分隊のチームはお互いの連絡を取りながら、待ち伏せ攻撃で2名の敵兵を射殺しました。
9月14日、L.D.N.N(南ベトナム海軍特殊部隊)パトロールチームを率いている時、ST-2のフレドリック・トレイン大尉がブービートラップにかかり戦死しました。
内偵中ベトコンに捕えられたが脱走し、ベトコン支配下の村に潜伏しているPRU工作員からの救助要請が第3小隊にありました。隠れているPRU工作員は、今か今かと救助を待ちわびていました。
 9月15日、SEALsはその村まで移動し工作員の救助に成功、その救出作戦中3名の敵兵士を射殺し3名のベトコン幹部を捕えました。
この時捕えたベトコン幹部が武器貯蔵庫の位置を自白し、数日後PRUとSEALは武器弾薬庫へ向かいました。
鹵獲した武器は以下の通り。
82mm迫撃砲 1基
60mm迫撃砲 1基
ロケットランチャー 2基
機関銃   3丁
AK小銃   4丁
対戦車手榴弾 40個
小銃弾   5800発
 2日後の晩、第3小隊から分派された1個分隊のチームが、Long Tau運河で発生した商船へのロケット攻撃に対応します。
SEALはRSSZ(ランサット特別地区)で夜間待ち伏せを実行、ベトコンのロケット攻撃チーム員6名を全員殺害し武器を鹵獲しました。
 
2週間にわたり第二軍の指揮下にて、Qhi Nhon半島でSEALは有益な活動を行いました。
1 クイニョン
 19日にはSEALチームは、都市部への攻撃を準備していたベトコンの迫撃砲チームの待ち伏せをQui Nhonで行います。
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待ち伏せ攻撃は、敵の活動を効果的に妨害していました。
地元のベトコン組織構成員リストが記された、重要な文章10ポンド分も鹵獲する事に成功します。
 10月3日My Thoから南西に6マイルの地点にて、5名のSEAL隊員と2名のL.D.N.N隊員がパトロール中小規模の敵と接敵、増援として35名のPRU隊員の支援を受けました。
この戦いで7名のベトコン兵士を射殺し、武器と機密文章を鹵獲しました。
 これらのいろいろな活動は、SEALチームが行った作戦行動が上手くいっている事を示していました。
このようなSEALの行動は、SEALが確立していた地元の情報ネットワークからの情報に基づいて行われました。
大部分の地域でSEALは地元住民の信頼を得ていて、しばしば重要な情報を地元から得る事ができました。
 
 10月上旬地元のベトナム人女性から、彼女の夫が捕えられていた捕虜収容所に関して情報を得ました。
Con Coc島(サイゴンから南西に77マイル、Bassac河上)に存在する捕虜収容所への急襲を行うため、10月6日払暁にSEALとPRUの合同部隊が送りこまれます。
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合同部隊は収容所に突入、2名のベトコン衛兵を捕え大量の機密文章と金銭を鹵獲します。
後に捕虜収容所キャンプと、併設していたベトコン徴税吏施設を破壊しました。
44名のベトナム人囚人(1968年初頭のテト攻勢時に捕えられた数名の捕虜を含む)は、無事救出されました。
 同日、My Thoから12マイル北の地点にて、SEALの別のチームと(SEALの指揮下にある)PRUとの合同チームは、捕虜収容所に捕えられた囚人の妻に案内され、もう一つの捕虜収容所へ侵入します。
一行はBassac河を3時間かけて、高速舟艇にて目標地点まで移動しました。
SEALチームは、衛兵から捕えられた囚人を素早く引き離すために、最終的な攻撃を誘導します。
収容施設での攻撃を避け、ベトコン兵士が囚人の檻への発砲を妨げる事により、交戦の間捕虜を安全に保護する事ができました。
 SEALは最初の攻撃時、偶然に捕虜を撃たないよう高精度の銃(狙撃銃)で敵を狙い攻撃の火ぶたを切りました。
こうして攻撃が始まり、7名のベトコン兵が死亡し2名の衛兵を捕え大量の文章を鹵獲、26名のベトナム人囚人が解放されました。
 
 10月から11月にかけ、作戦名「ボールド・ドラゴン」と名付けられた大胆な作戦が行われました。
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この作戦はベトナムにおける海軍作戦部長が直接統括し、部隊の調整を行いました。
作戦部隊は、沖合で行動する米軍の艦艇と陸軍と海軍の武装ヘリコプター(ガンシップ)に支援されるSEAL2個小隊を含みます。
作戦は2段階で行われ、フェーズⅠはLong TauとBa Xuyenから開始され、フェーズⅡはPhu Quc島で作戦が実行されます。
3 ロンタウ
*フェーズⅠ Long Tau
2 フーコック島
*フェーズⅡ Phu Quc島
 また、10月から11月を通してベトコン部隊に対し多数の待ち伏せ作戦を行い、牽制しベトコン部隊をその場に留めさせました。
SEALチームB分遣隊(PRUアドバイザー)は1名の所属士官から12~13名の士官に増員され、10月4日には21名の隊員が増援されました。
 10月から11月の作戦期間中、ゲイリー・ギャラガー伍長はメコンデルタで活動するPRU部隊のアドバイザーの一人として行動していました。
部隊の目的は、情報収集のため敵の捕虜を捕える事でした。PRUはパトロールを行い、数名の敵の捕虜を捕え拘留しました。
部隊は2つに分かれ、運河のそれぞれの土手に沿って前進しました。ベトコンはすぐ近くに潜伏していると考えられていましたが、その時捕えた捕虜の一人が大声で仲間に警告を叫んでしまいました。
ギャラガーの位置から向こう岸のパトロール隊は、すぐに数的にも優位な敵から、猛烈な十字砲火を浴びてしまいます。
ギャラガーは、安全にこの場所から後退するには、即座に部隊間の連絡を取らなければならないと決断しました。彼は捕虜を引き立てながら運河の反対岸にチームを移動させます。
向こう岸でギャラガーは部隊を再編制し、部隊の火力を敵に向け正確に指向させました。
ギャラガーの正確で猛烈な十字砲火は敵を一時的に制圧し、部隊を無事に撤退させる事ができました。
脱出する前に、彼は重傷を負った隊員の応急処置をして、8km徒歩で後退し無事に脱出しました。
後にこの戦闘の功績で、ギャラガーは海軍殊勲章を授与されました。
 10月21日、Saigonの南10マイルで同時に行われた3つの作戦行動は、4名のベトコン兵士を射殺し4艘のサンパンを破壊しました。
 その月の終わり10月29日SEALとPRUの合同作戦中、ST-2第4小隊のロベルト・ラモス2等曹長が戦死し、不運な月末となってしまいました。
ラモスは100名規模のPRUを指揮しているSEAL隊員の一人として、ベトコン大隊と接敵していました。
彼はLong Xuyenから12マイル南方で交戦中、敵の小銃弾に斃れました。
固定翼機とコブラ武装ヘリコプターが部隊の支援にあたり、PRUの後退を助けました。
 ST-2第5小隊は10月下旬、My Thoに10回目の支援派遣を行いました。
ベトナムに派遣されて6か月となる第5小隊ですが、分隊規模の作戦にて平均的なSEAL分隊の成果を上回る戦果を上げる事となります。
 敵地への潜入の際、地元住民が使用しているサンパン(定期的に外観の偽装を変えている)を使用し大いに成果を上げました。
第5小隊は他の小隊からみると、まるで敵兵士と同じような格好の現地生産の黒パジャマを着用してソビエト製の武器を携行し、敵支配地域内の住民からベトコンの活動に関する情報を得ました。
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 ベトコン部隊が場所を頻繁に移動したので、11月15日My Thoの南西4マイルの地域で行われたSEALの待ち伏せ作戦は、10名のベトコン部隊を捕捉して行われました。そして突発的な銃撃戦は、敵兵5名を射殺して終わりました。
SEALがヘリコプターで作戦地域から抽出された後、迫撃砲による制圧射撃がその地域に加えられました。
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 6名のベトナム人と数名のSEAL隊員から成るSOGチームは、報告された敵村落を捜索するため、11月21日Le Hong Phongのジャングルに14km侵入しました。
レポンゴン地域を望む
*Le Hong Phongを望む
 他の作戦にてSOGチームは捕虜を捕え、尋問により今まで知られていなかった村落の存在が明らかとなっていました。
その地域は砲兵の支援区域から外れており、今まで米軍や南ベトナム軍はジャングルの中に危険を冒してまで入りませんでした。
夜間に侵入したチームは報告にあった村落を発見、数名のベトコンを殺害しベトコン村に関する完璧な資料を鹵獲しました。
11月22日Saigonにて、ST-1に所属するジェームズ・サンダース伍長は戦闘任務以外の事故で死亡しました。
それから2日後、ST-2第4小隊から成るアルファ・チームがカンボジア国境近辺に夜間侵入をしました。
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*Da Dung山遠景
 その任務は敵ベースキャンプを発見し、情報収集の為監視下に置く事でした。チームは事前に定めた監視地点に遮蔽物の無い野原を移動中、夜明け前の瞬間一人で行動していた敵兵を発見しました。
2名のSEAL隊員が敵兵の跡を追跡し、捕虜にするために送り出されます。
ベトコン兵士は追跡に気が付き発砲、短い銃撃戦は敵兵の死で終わりました。
この銃撃戦の後、Da Dung山の敵ベースキャンプは完全に攻撃態勢となり追撃を始めました。
50口径機関銃、迫撃砲、40mmグレネード、それに自動小銃による猛烈な制圧射撃が彼ら2人を襲います。
SEAL偵察チームの本隊は、分派された潜入チームの後退を援護するために応戦しました。
 チームは撤退しましたが、大規模なベトコン部隊の追撃が始まりました。
武装ヘリコプターを航空支援で呼びました。ヘリコプターによる支援の間、SEAL偵察チームリーダーともう一人のメンバーは本隊から離れ、2名の潜入チームの位置を把握し呼び寄せ、本隊と合流させました。
それから無事に、偵察チームは脱出しました。
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敵の激しい抵抗は、そのキャンプの重要性をSEALに確信させるものでした。
 12月7日、SEALはもう一度ベースキャンプに戻り、気が付かれずに監視所を準備しました。
武装ヘリコプターが、キャンプ地の敵兵の気を引くために呼ばれました。
それから1時間後、SEALsが自動小銃と迫撃砲で攻撃する際にも武装ヘリコプターの支援を受けました。
敵は重火力による反撃を開始、SEALsは敵の包囲を避けるために後退し、即座に脱出しました。
後に15名のベトコン兵士の死亡と29名が負傷したと確認されました。

 12月16日~23日まで、UDT-11 Bravo、Golf、India分遣隊の合同チームは、Silver Mace作戦の支援にあたりました。
UDTは初の内陸作戦を実行し敵施設への破壊工作と襲撃を実行、12月11日には分遣隊により水路調査が行われ、その後D分遣隊は14マイルにわたり敵に支配された水路を解放しました。
1968年の終わりごろ、ST-2第6小隊は、Binh Thuyの第3小隊の支援を行いました。
 
1968年の間を通し海軍特殊作戦部隊の実力は、それらの作戦行動能力の最高点にありました。
敵へのランダムな攻撃と失敗、ベトナム派兵初期からの待ち伏せ作戦やパトロールのやり方は、情報や経験を経て改められました。
そのような情報の多くは、作戦地域でSEAL小隊が作り上げた情報ネットワークから得られました。
 待ち伏せ攻撃が多く行われましたが、より多くの急襲作戦が特定の攻撃目標を叩くために実行されました。
ベトコンは、より洗練された攻撃やSEAL・PRU・L.D.N.Nの合同作戦などにより、重要な武器貯蔵庫や大量の武器、医薬品や施設を失いました。
小部隊単位の活動は敵支配地域の深部で行動し、敵を容赦なく狩りたて高い代償を払わせました。
 1968年のSEALチーム内の戦闘経験は、極めて効率の高い小部隊を生み出しました。
テト攻勢の間、ベトコンと共産主義者はSEALsと激しく戦い、しばしばSEALsに重い損害を与えました。
しかしSEALsは全期間を通じ共産主義者に強烈なしっぺ返しを与えました。
 ST-1からは9名、ST-2から6名の戦死者、UDT-12は指揮官を失いました。
すぐに終わるはずであった戦争は、多くの犠牲者を生みながら更に激化の一途を辿っていきます。


テト (1968) 終
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