買い物狂いの忘備録

40代の物欲にまみれたオッサンの忘備録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など忘備録的に書いてます。

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テト(1968) part5

前回まではこちらをどうぞ
テト(1968) part1
テト(1968) part2
テト(1968) part3
テト(1968) part4

Part5 捕虜収容所強襲

 6月6日、ST-1(SEALチーム1)J小隊はNha BeにてB小隊を救援しました。
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 21日Phu Vinhの北西4マイルCo Chen川にて、敵の武器工場を7時間に渡り捜索する作戦行動中、M小隊は9名のベトコンを射殺しました。
 D小隊はNha Beヘリコプター発着場に呼ばれ、Long Tau川に墜落した味方ヘリコプターの捜索に向かうよう命令され、4名のアメリカ兵の遺体を回収しました。
 6月26日、J小隊はPhu Vinthから北に5マイルの地点の川にて待ち伏せを行い、2艘のサンパン(小舟)に乗った8名のベトコンを射殺しました。
 それから3日後、J小隊のパトロールから逃げ出そうとした8名の敵兵を捕えました。
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3時間のパトロールの間、敵軍とCo Chen河(Phu Vinhから北西7マイル)の島で遭遇しました。その戦いで、すべてのベトコンは戦闘で斃されました。
 M小隊は6月29日から30日にかけての待ち伏せ作戦を行い、敵4名を射殺、2名の捕虜を得ました。
UDT12から分派されたB分遣隊は、USS Diachenkoを拠点にして行動していました。
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*USS Diachenko
 その頃、ベトコンの活動が報告された海岸の調査をUDTは命じられました。その海岸へUDT潜水夫は2回偵察を試みましたが、そのつどベトコンからの攻撃を受け調査を断念せざる負えませんでした。
今度は最小限ながらも武装して調査に赴き、隊員の側面警戒を行いながら行動したのだが、再び潜水夫へ攻撃が加えられました。
敵砲火は近くのジャングルから放たれ、3名のベトコン兵士がUDT隊員達に突撃してきました。
側面警戒に当たっていた若い隊員は、ベトコンに向け40mmグレネードランチャーを発射し、3名のベトコン兵士を一掃しました。
待機していた潜水夫達は水中に退避し、銃撃戦が始まりました。沖合でチームを支援していた舟艇は援護射撃を加え、チームの抽出を助けます。
すべてのUDT隊員が間一髪の状況で助けだされました。
 UDT12D分遣隊は、Danangの米海軍の活動を支援する任務を行っていました。
共産主義者が橋を破壊したり、運河や川にボートを沈め河川交通の妨害をした時に、D分遣隊はダムや障害物の破壊任務をしばしば命じられました。
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他には、Danangの軍港にて水中で不審物が発見された時、UDTは保安チームの支援を行いしました。
 ベトコンと北ベトナム軍工兵は非常に優秀で、多くは水上の攻撃(水面を爆発物を曳航して泳いで行う)をするよう訓練されました。少数の兵士は、スキューバを使用した水中攻撃の訓練さえ受けたと言われます。
 UDT11は1968年8月と1969年3月の期間、敵兵器処分と引き揚げ作業の活動を称えられ、海軍部隊賞を授与されました。
いくつかの作戦の間、爆発物を海に放りこみハタや色々な魚を採る”デュポン釣り”をUDT隊員は行い、地元のベトナム人にしばしば魚が供給されました。
*当時デュポン社製の爆薬が多く戦場で使われたのだが、それをもじった命名であると考えられる。日本人唯一の米陸軍特殊部隊隊員である三島瑞穂軍曹も、川に手榴弾やダイナマイトを放りこみ漁を行ったと記述している
 メコンデルタ地帯では、D分遣隊は河川海軍と共にパトロールを行いました。
ベトコンの掩蔽壕などが発見されそれを破壊する為に、敵の支配領域にUDT隊員が送りこまれました。
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 UDT隊員は、アメリカ人の遺体捜索に狩りだされる事もありました。一つの例として、7月、UDT12G分遣隊は米陸軍大佐の遺体捜索任務を行いました。
その陸軍大佐は搭乗していたヘリコプターが川に墜落し、行方不明となっていました。
軍上層部は彼が行方不明となった時、敵に捕らえられた可能性がある事を恐れていました。
捜索任務は、敵の銃火の下で行われました。
 UDTのメコンデルタ地帯での活動は、SEALが戦闘任務のみに専念するのを可能にしました。
ベトナム戦争の初期、SEALはしばしば破壊任務と捜索任務に駆り出されました。
1968年半ばまでこのような任務にSEALは付いていましたが、その仕事は通常UDTの担当任務でした。
 UDT隊員はしばしば敵軍のライフル射撃による攻撃を受け、ベトコン兵士の待ち伏せ攻撃を受ける可能性が絶えずありました。
最も困難な任務は、ベトコン兵士の仕掛けたブービートラップを無力化する事でした。
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米軍による大規模な爆撃の後、不発となった大型爆弾や砲弾はしばしば共産ゲリラに鹵獲されました。
ベトコン兵士は,アメリカに対して使える資材をすべて利用してブービートラップを作り仕掛け、それに対抗する為に米軍とARVN(ベトナム共和国陸軍)はパトロールを強化しました。
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*アメリカ軍の空爆や砲撃で生じた不発弾はしばしばベトコン組織が回収し、非常に危険なブービートラップとして再利用された。
 7月、メコンデルタ地帯に展開した2番目のUDT分遣隊は、CTF117(機動河川部隊)を支援するために派遣されました。
H分遣隊はUSS Windham Co(LST1171)を拠点として作戦行動を行いました。
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西海岸のUDTに対して作業量が増加してしまいましたが、東海岸サンディエゴ(UDT13)などから派遣された第3のチームが加わり作業分担が円滑に行われました。
PRU(省偵察隊)と行動を共にするSEALsは、ベトコンのインフラ破壊任務に貢献しました。
 7月、フランク・ボマー(190cm超えで110kgの大男でもある)は、有名なベトコン村の村長を捕えるための襲撃チームを指揮しました。ですが襲撃チームは三方向からの待ち伏せ攻撃を受けてしまいます。
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ボマーは直接航空支援を要請し、負傷した南ベトナム軍の兵士を安全地帯に移動させるために、250ヤードの距離を急いで後退しました。
それからボマーは村への攻撃を指揮してベトナム軍を率いました。後に村に入ると、ベトコンの隊長と8名の兵士の遺体を発見しました。willitsBOMAR.jpg
後にボマーはシルバースター勲章を授与されました。1969年12月まで、彼はベトナムにおけるSEAL隊員として最多となる5回ベトナムツアー(従軍)を行いました。
 7月には、新型のアルミ製ボートであるSEAL支援用舟艇(LSSC)がベトナムに到着しました。
海上から特殊作戦を行うコマンド部隊を支援できるようになっており、ボートはV字型の船底を持ち、2台の427キュービックのガソリンエンジンを搭載し、ジェットポンプで水を吹きだし推進しました。
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 間もなく、そのLSSCはSEAL分隊の色々な作戦に使われるようになり、ゲリラ活動の阻止にも役立ちました。
SEAL分隊は適切な場所と時間に待ち伏せ攻撃を行い、共産主義者に対し重要な成功を収めました。
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 7月2日SEALの待ち伏せ攻撃で3名のベトコンを殺害、Saigonの東部9マイルの地点で行われた襲撃では2名を射殺しました。
その死者のうちの一人は、敵の砲兵大隊指揮官と後に特定されました。もう一人の遺体は、Saigonへの122mmロケット砲による攻撃に関与していた、砲兵の参謀将校であると考えられました。
SEALが禁止した夜間移動をしていて、ロケット弾を運んでいたところを捕捉した結果でした。
 16日、Saigonから東へ6マイルの地点で行われた待ち伏せでは、2名のベトコンを射殺しました。
翌日ダイバーは、待ち伏せ地点から何丁かのアサルトライフルと400発以上の弾薬を回収しました。
 20日SEALのパトロールは、作戦区域内で知られているベトコンの徴税吏を待ち伏せするために、My Thoから28マイル西の地域に潜入しました。
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 真夜中すぎに3名の武装したベトコンと共にその幹部は行動し、SEALが早朝に仕掛けた待ち伏せポイントから数百メートル離れた場所に潜伏したのを確認しました。
運河の対岸で離れすぎていたのでSEALの小火器では確実に仕留める事が難しく、敵の位置を武装ヘリコプターに連絡し
攻撃を加えましたが、その幹部の生死を確認する事ができませんでした。
 同日、My Thoの南東12マイルの地点にて夜明け前の時、5名のSEAL隊員と7名のPRU隊員は待ち伏せ攻撃で1名のベトコン兵士を射殺しました。
 ベトナム海軍特殊部隊L.D.N.Nの訓練クラスⅢは6月22日に卒業研修を受けました。クラスには、2名の士官と38名の兵士が参加していました。
彼らは卒業後、すぐにVung Tauでの4週間の高度な戦闘訓練が行われました。
テト攻勢中に戦闘に参加したベテラン隊員のいるクラスは、そのまま大規模な待ち伏せ作戦に出撃しました。
7月19日~20日、Phuoc Tuy省(Saigonから南東に30マイル)で任務が行われ、待ち伏せポイントが川であったのでSEALの軍事顧問が同伴しました。
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ちょうど真夜中すぎ、3個L.D.N.N分隊は待ち伏せポイントに移動し、無灯火で進むサンパン(小舟)4艘に向け発砲しました。
2艘のサンパンが沈没し、2名のベトコン兵士を射殺しました。
手早く3名のベトコンを射殺し、残り2艘のサンパンは射撃区域に入ったので破壊、他に2名の敵兵を捕えました。
2人の敵兵がL.D.N.Nチームの拠点近くの川を渡っているのが発見され、素早く射殺されました。
3番目のL.D.N.Nチームは、他に2艘のサンパンを破壊し、さらに敵に損害を与えるために2個のクレイモア対人地雷を使いました。
共産主義者の軍隊にヒットアンドランの攻撃を仕掛け成功裏に終わり、その後午前3時45分に部隊は引き揚げました。
 H小隊はG分遣隊のD小隊の増援として、30日に送られました。
SEALパトロールチームはデルタ地帯で敵を捜索し圧力をかけ続けましたが、敵の手痛いしっぺ返しにも遭いました。
 8月2日、カンボジア国境近くの山岳地帯近辺にて、ST-2 第9小隊はPRUと3日間にわたり作戦行動をとっていましたが、ジョセフ・アルバート3等曹長が手りゅう弾を使用したブービートラップで戦死しました。
第9小隊は作戦を続行しようとしますが、敵軍の勢力が非常に強力である事が明らかとなり、その地域からの撤退を決断しました。その地域では、ブービートラップがいたる所で仕掛けられていました。
他のSEAL隊員は別の作戦行動で負傷しました。
 8月11日、ST-2の分隊はよく敵が行動する抜け道に沿って待ち伏せ攻撃の準備をしました。
深夜、15名のベトコン兵士が西から接近し、待ち伏せの必殺地帯(キルゾーン)に入りました。
一斉射撃で4名を射殺するも、他の場所から逆にベトコンの攻撃が始まりました。
SEAL隊員は支援舟艇からの迫撃砲攻撃を要請し南方向への脱出を開始、1時間後に無事脱出しました。
 8月15日、ST-2の2個小隊とPRUの合同部隊は、Go Congの南東7マイルの地点にあるベトコンの政治教育学校を攻撃しました。
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短時間の銃撃戦の後、捕虜を1名捕え6名の敵兵を射殺しました。
後日情報員からの報告では、この戦闘で17名の敵兵が死亡した事を確認しました。
 同日、Vinh Binh省Ben Treから南東12マイル地点にて、作戦行動中だったST-1のロバート・ワグナー三等曹長が戦死しました。
彼はPRU部隊の顧問として偵察パトロールに従事していたが、PRU偵察員が逃げ出したベトナム人を追跡していた時に、ブービートラップによって致命傷を負いました。
ワグナーは頭部と体に破片を受け、救急ヘリでDong Tamに運ばれるも死亡しました。
 5日後、Vinh Long省Mo Cayから北西9マイルの地点にてJ小隊はPBR(パトロールボート)で敵地に侵入、報告されたベトコン基地を調査する任務を与えられましたが、その任務中、ユージーン・ティニー下級准尉が悲劇的な事故で死亡しました。
 4名のSEAL隊員は仏塔を発見し、その地域を監視するため夜明け前に待ち伏せポイントに潜入しました。
ティニーと5名の隊員は、第二の報告された建造物を捜索するため、更に奥地に向かいパトロールを続けました。
彼らは暗闇の中で進路を見失い、待ち伏せしているチームのキリングゾーンの中に誤って入ってしまいました。
お互いのチーム間で無線交信をしていて、待ち伏せポイントから離れていると誤認していました。
誤認による戦闘が始まり、ティニーのチームはベトコンの待ち伏せだと思い反撃しました。
ティニーは射殺され、残り4名の隊員もこの味方撃ちで負傷しました。このパトロールチームに同行していたL.D.N.N隊員も負傷し、大惨事となってしまいました。
 17日に行われた別の襲撃では、SEALチームの2個パトロールチームが地元のベトコン中隊と接敵しました。
隊員はなんとか敵の一人を撃ち倒しましたが、その斃した敵はベトコン中隊長である事が判明しました。
 24日PRUとST-2の共同部隊は、My Tho河の河口近辺Go Congから南東に8マイルの地点にて、敵の病院を破壊し手榴弾の製造工場を占拠しました。
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チームが当初の攻撃目標へ向けて攻撃すると、40名のベトコン兵士が潰走していきました。
40個のタコツボが病院区域で発見され、破壊されました。
25名のベトコン兵士が工場にいましたが、彼らも撃ち斃されるよりも逃げる方を選びました。
以下、鹵獲した武器のリスト
82mm迫撃砲弾   6発
61mm迫撃砲弾   9発
105mm無反動砲弾  25発
手榴弾      21発
機密書類     3kg
それに加え、手りゅう弾の鋳型と製造工具が鹵獲され、32名のベトコン兵士がこの戦いで射殺されました。
チームの抽出の際、敵の間接的な防御砲火を受け、ヘリコプターガンシップとLCMからの支援を要請しなければいけませんでした。
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8月28日軍は、デルタ地帯のCan Thoにあるベトコンの捕虜収容所から2名のベトナム人が脱走したという情報を入手します。
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ベトナム人は、前夜の晩に捕虜収容所がら脱走していました。捕虜の手当をし、詳細を聞くために調査官を送り込みました。
脱走した捕虜によると、キャンプに収容されている捕虜はおよそ35名のベトナム人と8名のアメリカ人が存在するとの事でした。
急襲部隊が招集され、地元PRU部隊(SEALによって指揮されている)に任務が割り当てられました。
捕虜収容所は8名のベトコン兵士によって防衛されていると報告されました。
 軍は急襲部隊に特別な器材を用意します。無線機、赤外線ストロボ、救命いかだ、スターライトスコープ暗視鏡が用意され、スターライトスコープは暗闇でも昼間のように見える新型の暗視装置でした。
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 8月30日夜、SEAL隊員は9名のPRU隊員を伴い、敵地に侵入しました。
強襲グループはそこに拠点を作り、活動を開始しました。
強襲グループからの要請で、60名のPRU隊員がヘリコプターで捕虜収容所を襲撃する準備も整いました。
侵入チームは上空を飛ぶ観測機に誘導され、暗闇の中で静かに目標に近づいていきました。
夜明けとなり襲撃チームは衛兵に発見されてしまいますが、即座に強力な攻撃を開始しました。
60名のPRU隊員はヘリコプターで展開すると、周辺地域をヘリボーンで制圧しキャンプを包囲しました。
2名の敵衛兵が射殺され、残りの敵兵は逃走しました。
49名のベトナム人捕虜が救出されましたが、8名のアメリカ人捕虜は8月28日以前に移動させられた事が判明しました。
 これは、SEALが実行するようにデザインされた典型的な作戦でした。
この作戦は巧みに行われましたが、アメリカ軍の作戦立案者は、正確でタイムリーな情報が任務成功の絶対要件である事を理解していました。

続く
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