買い物狂いの忘備録

40代の物欲にまみれたオッサンの忘備録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など忘備録的に書いてます。

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テト(1968) part4

前回まではこちらをどうぞ
テト(1968) part1
テト(1968) part2
テト(1968) part3


Part4 狩りの季節

 3月20日、ST-1(SEALチーム1)D小隊はCan Thoの南東7マイルの地区にて、海軍の武装ヘリコプターとチームを組みQuick-Kill作戦を実施しました。
敵軍が河川哨戒をする友軍に攻撃したのを確認後、即応部隊が該当する地域に出撃し、バサック河の中央にあるMay島にて敵軍を捕捉、3時間にわたり銃撃戦を展開しました。
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河川艦艇とヘリコプターガンシップ、それにSEALsが共同で27名のベトコンを殺害しました。
 3月の間、L.D.N.N(南ベトナム海軍特殊部隊)はSEALsと共に26回の作戦に参加、34名のベトコンを斃し、2名の捕虜と28名のベトコン容疑者を逮捕しました。
SEALとL.D.N.Nの合同部隊の活動は、1968年春までに素晴らしい成果をあげていました。
その上、L.D.N.Nはサイゴン港にて敵工兵による攻撃を防ぐ為、港のパトロールを続けました。
 3月29日、ST-1D小隊とST-2第7小隊が合同で、Ben Treから南方10マイルの地点を急襲する任務を行いました。チューホイと呼ばれる転向(寝返った)したベトコンに案内され、目標地点の4棟の建物まで音を立てずに潜入しました。
攻撃寸前、2名の武装したベトコンがSEALの援護斑の前に歩いてきました。
2名の敵兵が警告を発する前に、援護斑は2名のベトコンを銃を使わず静かに斃しました。
 SEALは敵基地への攻撃後占拠し、2名のベトコンが逃げようとしたので即座に射殺しました。
チューホイは、建造物の中に隠された武器集積所を発見しました。
この場所には別に、敵の大規模な手榴弾工場がありました。チューホイは別の隠し場所へチームを案内しました。
鹵獲した武器と装備はPBR(河川艦艇)に積み込まれましたが、持ち帰るのが不可能なのでそこにある大部分の兵器を破壊せざるおえませんでした。
 この隠匿された武器集積所は、今までメコンデルタ地帯で発見された集積所の中で一番大規模なものでした。
28基 クレイモア対人地雷
30基 機雷
2丁 ドイツ製短機関銃
2丁 M1カービン銃
2丁 75mm無反動砲
5基 120mm地下工場製ロケットランチャー
19個 催涙ガス手榴弾
25個 中国製手榴弾
50個 電気信管
8ケース 中国製弾薬箱
1丁 中国製SKSカービン銃と医薬品
武器資料 20ポンド分
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ダウンロード
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*画像は当時鹵獲された共産軍の兵器。ドイツ製SMGとあったが、MP40だと思われる。
以上発見されたものに加え、多数のヒューズと未使用の雷管が発見されました。
ウエストモーランド将軍は個人的な祝福メッセージを贈り、チームの活動を称えました。
 SEALsは日常的なパトロールにて一定の成功を収め、しばしばPRUやL.D.N.N,他のSEAL小隊と協力しながら任務を遂行しました。
4月7日、ST-2第7小隊とST-1D小隊はVinh Long北東4マイルの地域にて、ベトコン部隊と激しく交戦しました。
2つの部隊はお互いと1マイルほど離れながら行動し、別々の場所から出撃しました。
夜が明けてからすぐ、第7小隊はベトコンの別の部隊に発砲し、猛烈な応射を受けました。SEALsは即座に退却し、ヘリコプターが彼らを迎えに行きます。
D小隊は第7小隊の援護に向かい移動した後、ボートで離脱するために河に戻りました。
第7小隊とD小隊の攻撃で、5名のベトコンが射殺されました。
 その翌日、Vung Tauで捕えられた5名のベトコン容疑者を、L.D.N.NトレーニングクラスⅢが尋問のために連れて行きました。
L.D.N.Nの訓練の激しさは、アメリカのBUD/S(基礎水中爆破訓練 Basic Underwater Demolition/SEAL)に相当するものでした。
L.D.N.NトレーニングクラスⅢは、4月末までには38名の訓練生を養成しました。
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ベトナム版SEALであるL.D.N.Nだが、教育はSEALから教官が派遣され行われた。
 4月22日、ST-2第10小隊は7番目の交代部隊としてMy Thoに来ました。
ベトナムにて第10小隊最初の任務は、ベトコン転向者の案内でベトコンの集会所に密かに向かう任務でした。
SEALsがその地域を制圧した後、ベトコン転向者は集まっていた人の中からベトコン地区幹部6人を指で差し示しました。後に6人の幹部は拘留され、地元警察に引き渡されました。
 これらの幹部を尋問すると、My Tho地区の100以上の他のベトコン逮捕につながる情報を得る事ができました。
これらのベトコンは、MyTho地区の米軍や南ベトナム軍や政府組織などに深くスパイとして浸透していました。
容疑者の逮捕は、ベトコンのゲリラ攻撃において利用される情報を断ち切る効果がありました。
それは、ベトコンと北ベトナムがどれほど深く南ベトナム政府組織に浸透しているかという恐るべき指標でもありました。
 4月26日、B小隊は後退を待っている間、偶然ベトコンの偽無電を傍受しました。
地元の敵は河川海軍のクルーに、SEALチームが緊急脱出要請を出したと思わせ、河川艦艇を罠に誘い込もうとしていました。
ボートサポートユニット(BSUs)は、常に敵と交戦しながらSEALパトロールチームを抽出するので、もし戦いに巻き込まれていても立ち向かう準備はできていました。
 ですがこのような偽の無線は、未熟な乗組員を簡単に罠に落とさせる事ができ、ベトコンは油断のできぬ容赦のない敵という事を改めて認識させました。
*BSUsは強力な武装を備え、SEALに強力な火力支援を行う事ができた。
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こちらの過去記事を参照。
4月25日、RSSZ(ランサット特別地区)で行動していたST-1の3小隊の1つが、メコンデルタで活動する為に第Ⅳ軍管区に移動しました。
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 ST-1の分遣隊が立て続けに5名の戦死者を出したのは、その後3週間の間の事でした。
4月29日敵支配地域で行動中、甲板長ウォルター・ポープが敵機関銃掃射で戦死しました。
5月6日、デイビット・デビー軍曹は、Kien川のHam Lung地区にてに海岸から敵地に潜入中、誤って溺れてしまい戦死。

 5月12日、Vinh Binh省にて53名のPRU隊員を率いて行動中、ドナルド軍曹が銃撃戦にて戦死しました。チームはGiang Lon(Phu Vinhの北西3マイル)の村落を制圧したベトコン部隊に反撃するために送られていました。
正午ごろにヘリコプターで村の南部に着陸した後、PRU部隊は水田にてベトコンからの激しい銃砲火を受け、圧倒されそうになっていました。
 ドナルドは部隊を展開し、ベトコン部隊に対しての攻撃を指揮しました。2回目の総攻撃の時、彼は致命傷を負ってしまいました。
彼が指揮したPRU部隊は攻撃を続行、そしてベトコン部隊を村の外に追い出し、17名の共産主義者を射殺しました。
 3日後、M小隊のドニー・パトリック三等曹長は、地雷と思われる爆発によりVinh Long地区にて戦死しました。
小隊がCho Lochの南東からPBRで侵入している最中に爆発が起こりました。
M小隊はこの爆発で他に7名の隊員が負傷し、その後一か月は部隊として行動不能となってしまいました。
 最後の犠牲者は5月19日、ゴードン・ブラウン曹長はKien Giang省にてPRU部隊を率いて行動中、ベトコンのブービートラップで戦死しました。
彼はPRUのパトロールが発見した木箱を調査している時に、突如装置が爆発しました。その爆発に巻き込まれ、PRU隊員も6名が重傷を負いました。
 死亡したメンバーは、ほとんどが共産主義者の支配領域内で戦死しており、フロッグマン達は厳しい任務を行っている事を改めて認識するのでした。
 5月11日早朝ST-2第3小隊は、大規模なベトコン部隊への待ち伏せを開始しました。
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敵は逆にアメリカ軍をほぼ圧倒してしまい、SEALの指揮官に重傷を負わせます。
指揮官は傷つきながらも味方の航空支援を要請、ベトコン部隊への激しい空爆を誘導し、ベトコンを後退させる事に成功しました。
 その結果5月14日、ST-2第8小隊はChou Docの南方12マイルのカンボジア国境近くにて、良く装備された82名の兵士と共に敵勢力に備え、待ち伏せ攻撃を仕掛ける事ができました。
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SEALは情報として得られたベトコンの侵入ルートに沿って待ち伏せ作戦を開始し、すぐにその情報が極めて正確だったという事を知りました。
 4時間に及ぶ戦闘でSEALは猛烈な制圧射撃を加え、ベトコンにとってSEALは鬼門であるとはっきりさせました。
共産主義者はたびたびカンボジアから越境してSEALsを圧倒しようとしますが、その度に撃退されました。
 アメリカ軍がベトコンと接敵する度に、海軍シーウルフ武装ヘリコプターが支援として到着し、砲兵による強力な制圧射も加え、国境の向こうに敵を追い返しました。
ただ一人の犠牲者も出さずに基地に戻ったSEALsの司令官は、彼の小隊と支援部隊のいる場所が(共産主義者が侵入する)道路の終末点だと断言しました。
この戦闘で24名の敵兵を殺害、40名を負傷させました。
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*海軍シーウルフヘリコプター部隊は、SEALの任務に的確な支援を行っていた。
 5月16日、SEALとPRUの合同部隊は、Chau Docに迫撃砲攻撃を加えたベトコンを捜索するため、敵の支配区域に前進しました。
部隊は敵の迫撃砲やRPG-7ロケット砲、小火器の攻撃を受けましたが、武装ヘリコプターの火力支援を受けていました。
部隊は小さな塔の近く1500mをパトロールし、そこで大規模な銃撃戦が発生しました。
その後掃討し、夜9時に撤収しました。
 翌日、ARVN(ベトナム共和国陸軍)の捜索で、月末以降の戦いによって死亡した36名のゲリラの遺体を発見しました。D小隊は最近発見されたベトコン基地にて発見された750ポンド爆弾を処理するため、EOD(爆破物処理班)の数名の隊員と行動しました。
その時アメリカ本土では戦争反対の抗議のため、20万人の民衆がニューヨークでデモ行進をしていました。
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 マーティン・ルーサー・キング牧師とロバート・ケネディが暗殺され、1968年の夏は黒人社会に都市暴動を引き起こさせました。
アメリカの各家庭に不安をもたらしましたが、ベトナム戦争は変わらず続いていきました。
 1968年の春にSEALsが享受した大きな成功は、前年までの戦果を上回りました。攻撃により犠牲者は出ていましたが、各部隊の行動はより大胆かつ攻撃的となりました。
 SEAL小隊が自分の部隊よりも大規模な敵部隊を攻撃することは、珍しい事ではありませんでした。
ある作戦で小隊は、河川艦艇にてパトロール中2個ベトコン大隊と遭遇しますが、見過ごすと後方地域をおびやかすため攻撃をかけました。
分散した攻撃をかけるよりも、SEALは大火力の攻撃を開始して敵を圧倒する方法をとりました。
15分間の短くも激しい銃撃戦の後、共産軍は圧倒され敗走しました。
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 更に他の作戦では、雨の降る夜間に6名のSEAL隊員は、敵の支配地域で3つの小屋を発見しました。
1番目の小屋に静かに忍びより偵察した隊員は、何名かの眠っている男たちとその横に6~8丁の武器を見たと報告しました。
隊長はこれを聞き、3つの小屋の中に18~20名の兵士が眠っていると推測しました。
SEALs達にはまだ不確定要素があると考えていましたが、勝算も感じていました。隊員達は分かれ、小屋に向けてクレイモア対人地雷をセットし爆発させました。
こうして銃撃戦をする事もなく、19名の敵兵を殺害しました。
 一方UDTは、ベトナムの数百マイルにおよぶ海岸線を調査し続けました。6月には、UDT12のB分遣隊はNha Trangの北10マイル、Hon Heo島を調査しました。このような調査の多くを日常的に彼らはこなしていきました。

 多数の活動に関して、軽武装のUDT隊員は敵スナイパーから頻繁な攻撃を受けました。
ほとんど隠れる場所もない海岸や海上にて任務を行い、いくつかの死傷者を出してしまいました。
UDTは敵と戦っていない時には、他の任務に立ち向かっていました。
彼らはサルベージ活動や海難救助活動も行っていました。
 翌月ST-2第9小隊は、南ベトナムの民衆にゲリラ闘争を支持する事を強制する試みで、村々を回っていた共産主義者の宣伝チームを殺害しました。
8名のベトコンが捕えられ、他に逮捕された3名の容疑者は、ベトコンの活動を助けるために共産主義者によって連れて来られたカンボジア人である事がわかりました。
彼らはベトナムに連れて来られる前に、政治的な教化を受けていました。

続く
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