買い物狂いの忘備録

40代の物欲にまみれたオッサンの忘備録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など忘備録的に書いてます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

テト(1968)  part2

テト(1968)  part1はこちらから

Part2 大攻勢

 1968年1月23日、朝鮮半島の情報収集の任務を負ったプエブロ号が北朝鮮の攻撃に遭い拿捕され、高度に機密化された電子機器が奪われました。
アメリカの情報関係者にとって大打撃でした。
s-USS_Pueblo_(AGER-2).jpg
 外洋にあるプエブロ号が移動し機材が分解される前に、プエブロ号を破壊する計画が立てられました。
USSタニーを使い北朝鮮の元山港へ侵入するために、海軍のUDTチームに呼集をかけましたが、北朝鮮は港に船を固定してしまいました。
*USSタニーに関しては、こちらを参照
結局、捕えられた米軍の捕虜への処遇や解放へ障害が出る事が考慮され計画は中止となりました。
*プエブロ号事件に関しては、こちらを参照(リンク先wikiです)
最終的に乗組員は北朝鮮から解放されましたが、プエブロ号は現在も北朝鮮の港にあり、反米宣伝の為展示されています。
s-USS_Pueblo_(AGER-2)_02.jpg
 15個のSOGチームも、1月中は南ベトナムの非友好的な地域で活動を開始しました。
これらの作戦行動には、SEALsが南ベトナム軍特殊部隊を伴い北ベトナムの海岸線を急襲するように、現地の特殊部隊の兵士も同行していきました。
 チームは日中の作戦だけでなく、夜間パトロールやベトコンに偽装するなど、バラエティに富んだ戦術をとりました。
約1年このような戦術で戦い、友軍には7名の犠牲者を出しましたが、戦果は92名のベトコン幹部を捕え他に90名を殺害というものでした。
 Wind Song作戦は1月25日,Kien Hoa省のベトコンの支配区域であるThomとMo Cay運河に沿った地域で行われました。

第6・第7小隊は河川海軍と共同で岸辺で行動し、運河を掃討しました。
11154854_10152974491329900_716356871753971475_o_201606091455583d4.jpg
5名の敵兵を殺害、散発的な戦闘の後51名のベトコン容疑者を捕えますが、その中の一人がベトコンの徴税吏である事が判明しました。
それに加え30の掩蔽壕、5トンの米を破壊、SEALは各小隊をローテーションさせながら行動し、1月28日にはNha BeにてD小隊はF小隊を救援しました。
********************************************************************************************
 ベトナム戦争のこの時点で共産主義者は、南ベトナムの人々が腐敗したベトナム共和国政府に対し蜂起するという見込みを立てて、非常に危険な賭けでしたが全面的な攻勢をかける決断をします。この決断は、後に共産主義者に甚大な被害をもたらしました。
 ラオス国境に近いKhe Sanhの海兵隊陣地を包囲攻撃し、この包囲戦は77日間続きました。
image (1)
image (2)
image.jpg
この戦いはフランス軍との戦いであるDien Bien Phuの戦いに例えられましたが、アメリカの凄惨な敗北に繋がる事はありませんでした。
 ベトナムの休日であるテト(旧正月)が、政府攻撃の日時に選ばれました。
休日であるテトはアメリカ軍とARVN(ベトナム共和国陸軍)の警戒を緩めてしまい、この攻撃計画自体はかなりの成功を収めます。
 1月31日、共産軍の激しい攻勢が開始されました。
1968-Tet-Offensive-3.jpg
71986905.jpg
彼らの目標は、南ベトナムの主要都市と軍事施設でした。共産軍の調整された攻撃は油断していた連合軍を捕えますが、ARVNとアメリカ軍は不利な状況で反撃を開始しました。
 北ベトナム軍は、多くの町や村へ攻撃の尖兵として地元のベトコンゲリラを送り込んだため、建物一軒一軒を奪いあうような激しい戦いとなりました。
vc-ak4701s.jpg
奇襲を受けた最初のショックの後、連合国は敵の攻撃の規模を把握し状況を掌握します。
 問題は、テト攻勢が主に南ベトナムの一般市民が住む区域を中心に戦われていたという事でした。
国中に分散したSEAL分遣隊は、彼らが派遣された基地と町を防衛するために行動を開始します。
 My Thoでは、SEAL隊員とPBR(河川哨戒艇)のクルーが基地と施設の防衛を手伝いました。
e20059cf31c965b77f37297c5421c53b.jpg
022684e74d5c135e24c71525592c19eb.jpg
3つの敵部隊は都市部を攻撃し市内に侵攻、交通の要衝であるすべての橋を占拠しようとしました。
 戦いの1つの局面では、ベトコンは武装したサンパンを使い、河を下りながら政府軍へ砲火を浴びせました。
SEALの2個反撃部隊が66mmロケットランチャー(LAW)でサンパンに反撃し、敵部隊を行動不能にします。
s-名称未設定 5
*M72LAWロケット砲を構えるSEAL隊員
 Vung TauのL.D.N.N(ベトナム海軍特殊部隊)スクールでは、一時的に教育が中止されました。スクールの学生と幹部は、海軍本部の防衛の為首都サイゴンへ送られました。
 SEALチーム2第8小隊はカンボジア国境沿いの河川パトロールの為PBRに乗り、1月31日の夜明け前にメコンデルタ沿いの都市Chau Docに移動しました。

b152da52638fdb5bcde714054a9d2db8.jpg
 深夜2時、カンボジアの国境近くで偵察行動中、第8小隊はChau Docの近くに敵の大軍が集結しているのを発見し驚愕しました。SEALチームはできるだけ早くこの情報を司令部に報告する為に後退します。
だが、深夜3時に1400名のベトコン兵士によるChau Doc攻撃が始まりました。
敵の狙いは、組織的に街を攻撃し、政府軍を各個撃破する事でした。
政府軍は必死に抵抗しますが多数のベトコン兵士に圧倒され、各個包囲されてしまいました。
*SEALチーム2第8小隊の指揮官、リチャード・マーチンコ。
後のSEALチーム6 DEVGRUの初代司令官となる。
76244479d1867b378f555344619137b9_201606091851246f6.jpg
 ここでSEALの面々は、陸軍特殊部隊や幾つかのアメリカ軍部隊と連絡を取り合い、現状で何が可能かを協議しました。
SEALを含むこの連合部隊は、大規模な共産軍の攻撃の前にはあまりにも小規模でした。
陸軍の兵士がいた指揮所で、一同は残っていた武器をかき集めます。
 この時SEALは、河の1マイル下流にアメリカの援助物資備蓄倉庫と兵器工廠がある事を聞きました。武器を奪取するために、小隊の半分をPBRに乗せ下流へ向かわせます。
この小部隊はそこで2台のジープを発見し、50口径のM2重機関銃をジープの一台に取り付けました。
それからこの小部隊は、ベトコンの部隊の中を陸軍の指揮所まで猛スピードで運転して突破します。
ベトコンにより占拠され要塞となった病院の前を走っていた時、猛烈な砲火でジープは損傷してしまいますが、SEALの面々は無事無傷で指揮所に帰還しました。
 命からがら帰還したSEALチームの面々に、10人のアメリカ市民(教師や宣教師、軍属の看護婦など)が行方不明となっていると悪い知らせがありました。
アメリカ陸軍特殊部隊隊員ドリュー・デイックスは、救助に向かうSEALチームの面々にアメリカ人が隠れているかもしれない場所への案内役を志願しました。
時間は限られていました。ジープでベトコンが占拠した街の通りをレースのように飛ばし、道路沿いのベトコンと銃撃戦となりました。
 ジープは24歳のアメリカ人看護婦マギー・フランコットのアパートの前で急停車します。
71ed04fb1c2f5d63dc4806c946c393a1.jpg
ベトコンは既に彼女の家に侵入し、金目の物を略奪しようと家を荒していました。
マギーはリビングルームのドレッサーの中に隠れていました。
ベトコンが最上階の部屋に入る音がし、耐え切れずパニックになった彼女は勝手口に駆け出しました。
勝手口のドアを開け飛び出すと、彼女はそこにいたベトコンと鉢合わせしてしまいました。
その瞬間2名のSEAL隊員がドアを蹴破り部屋に突入、彼女はベトコンから逃げるために体を捻り走り出そうとしましたがつまづいて転んでしまいました。
期せずして彼女が転んで射線が確保されたので、SEAL隊員はマギーの頭上越しに勝手口に猛烈な射撃を加え、勝手口のドアのベトコンを撃ち倒しました。
SEAL隊員とドリュー・ディックはマギーを救い上げてジープに向けて全力疾走しました。
ジープに飛び乗り猛スピードで離れた彼らに、アパートにいたベトコンは道路際の窓に取りつき一斉射撃を浴びせました。
残りのアメリカ市民(教師や宣教師)は別の場所で無事救助されましたが、SEALの仕事はまだ終わっていませんでした。
 アメリカ軍は、それから2日間にわたり敵軍と戦いました。
増援の南ベトナム軍は北部から町に進もうとしましたが、ベトコンとの激しい交戦により前進が遅れました。
 南ベトナム軍はようやっと町の市場まで前進しましたが、敵の激しい抵抗で動けなくなってしまいました。
SEAL第8小隊は2つの分隊に分かれ、ベトコンの背後から攻撃しました。間もなく彼らは市場の近くに前進します。
一軒一軒を奪い合う激しい市街戦となりましたが、SEALsは57mmの無反動砲も含むあらゆる火器を使い戦い続けます。
Soldier-firing-M18A1-recoilless-rifle-korea.jpg
*ここでいう57mm無反動砲だが、M18の事かと思われる。第二次世界大戦時に登場したが、戦車の進歩により威力不足が指摘されてしまうが、歩兵が携行できる大火力の直射兵器として活用された。
 ベトコンは町の劇場を自分たちの司令部として使っていました。
SEALは見晴の良い3階建てのビルを敵司令部への監視所として活用します。
包囲されたベトコン部隊は、市場の後方から撤退しようとしますが、SEALとL.D.N.Nは制圧射撃を加えます。
 テッド・ライシャー伍長はドアの内側に立って応戦していましたが、その時一発の弾丸がドアを破り弾丸がライシャーの頭部を傷つけました。
仲間の隊員が古いステーションワゴンを見つけ、ライシャーをそれに乗せPBRまで急いで連れて行きました。
SEAL隊員が街の中で敵と戦う間、河川海軍は運河や水路を武装したボートで行ったり来たりしながら、目視できるあらゆる敵に向けて発砲していました。
SEALsは、救出した看護婦マギー・フランコットと一緒に、致命傷を負ったライシャーに救急治療を施しましたが、手当の甲斐も無くライシャーは死亡してしまいました。
 民間人救出作戦でSEALを導いた陸軍特殊部隊員ドリュー・ディックは、市街戦の指揮を執りました。
地元のPRU(省偵察隊)のアドバイザーとして、彼は街から敵を追い出すのを手伝いました。
彼はこの一連の勇敢な行動を評価され名誉勲章を授与されました。
 テトの戦いは、共産軍にもたらされた災厄のようなものでした。
合衆国海兵隊はベトコンや北ベトナム兵相手に、血で血を洗うような市街戦を展開しました。
s-Marines_in_DaiDo_Vietnam_during_Tet_Offensive_1968.jpg
 ベトコンゲリラ部隊はテト攻勢の結果組織は壊滅してしまい、ベトコンゲリラは攻勢前の部隊規模には結局回復しませんでした。
北ベトナム側が将来南ベトナムを占領した時に、政治的に障害となるベトコンゲリラの勢力の減退を狙い、攻勢の主力にしたという話もありました。
続く
関連記事
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://slaphead.blog.fc2.com/tb.php/175-34799254
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

まとめ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。