買い物狂いの忘備録

40代の物欲にまみれたオッサンの忘備録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など忘備録的に書いてます。

干し芋パスタを作ってみよう!

今回の更新、クッソつまんなくてどこに需要があるか分からない翻訳シリーズだと思ったでしょ?

残念、もっと需要の無い食レポだよ!
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はい、そういう事で(どういう事だよ)、6月25~26日の二日間、夫婦で茨城は大洗まで泊りがけで遊びに行ってきました。
本当は大洗旅行記を書くべきなのですが、月末進行で会社が忙しいので、

ちゃっちゃと写真を撮りざーっと文を練り、どかーんと書ける食レポ

を書こうと思いますw

干し芋パスタって皆さん聞いた事はありますか?
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ガールズ&パンツァー劇場版の中で、会長がアンチョビに作ると約束したアレです。

劇場版が公開された後、色々な方が模索されて干し芋パスタを作っておりますが、我が家なりの見解を披露したいと思います。

材料

干し芋
鶏肉
ベーコン
たまねぎ
しめじ
にんにく
塩 コショウ
バター
オリーブオイル
生クリーム
パスタ

あ、料理ブログじゃないから材料は適当だよw 分量も適当ですよ

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今回の大洗ツアーで買ってきたこれ。やはり茨城の干し芋が最良ですね。だって美味しいし。
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僕がお金を渡すと、わざわざ高い食材を選んで買ってくる我が妻。という事で、鶏肉とベーコン。。こんな高そうなベーコンでなくても十分美味しいですから('A`)
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たまねぎとしめじは適当に切り分け
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フライパンに刻んだニンニクとバターとオリーブオイルを入れ、少し炒めます。
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そこに鶏肉とベーコンを入れ炒めます。
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肉にある程度火が通ったら、たまねぎとしめじを投入。塩コショウなどで味を調えながら炒めてください。
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干し芋は別途食べやすい大きさにカットして準備しておきます。
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それをフライパンにザーっと入れ少し火を通して...
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地元産の生クリームでも高いグレードのを使いました。なんだかんだと濃厚でコクが出てなおかつ旨い。
だが値段は高い('A`)
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フライパンに生クリームを入れ、火を通します。ここでも味見して塩コショウなどで調整してください。
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ここで忘れちゃいけないのがパルメザンチーズ!
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お好みの分量を具材の上に摩り下ろしてくださいね!

ここで別途湯がいていたパスタをフライパンにぶちこんで~
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一気呵成に仕上げて、
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干し芋パスタ、出来上がり!
上のベーコンと干し芋は、飾りで別途載せたものです。
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生クリームの濃厚な味わいと、時折感じられる干し芋の自然な甘さがとてもマッチして、とても美味しい一皿となりました。

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ご馳走さまでした。すごく...食べ過ぎました....

お蔭さまで一日経った今、これを書いている最中でも胃が痛いのは内緒だ
('A`)


アラビアータの干し芋パスタも美味しいのでしょうが、妻渾身の力作クリーム風味干し芋パスタ、是非とも皆様お試しください!
パスタも、今回はスパゲッティを使いましたが、クリーム系だとパッパルデッレやタッリアテッレなどの平麺もクリームによく絡み美味しいと思います。
近日中に、大洗旅行記を書きますね。あんまり期待しないでお待ちください(笑)

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テト(1968) part4

前回まではこちらをどうぞ
テト(1968) part1
テト(1968) part2
テト(1968) part3


Part4 狩りの季節

 3月20日、ST-1(SEALチーム1)D小隊はCan Thoの南東7マイルの地区にて、海軍の武装ヘリコプターとチームを組みQuick-Kill作戦を実施しました。
敵軍が河川哨戒をする友軍に攻撃したのを確認後、即応部隊が該当する地域に出撃し、バサック河の中央にあるMay島にて敵軍を捕捉、3時間にわたり銃撃戦を展開しました。
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河川艦艇とヘリコプターガンシップ、それにSEALsが共同で27名のベトコンを殺害しました。
 3月の間、L.D.N.N(南ベトナム海軍特殊部隊)はSEALsと共に26回の作戦に参加、34名のベトコンを斃し、2名の捕虜と28名のベトコン容疑者を逮捕しました。
SEALとL.D.N.Nの合同部隊の活動は、1968年春までに素晴らしい成果をあげていました。
その上、L.D.N.Nはサイゴン港にて敵工兵による攻撃を防ぐ為、港のパトロールを続けました。
 3月29日、ST-1D小隊とST-2第7小隊が合同で、Ben Treから南方10マイルの地点を急襲する任務を行いました。チューホイと呼ばれる転向(寝返った)したベトコンに案内され、目標地点の4棟の建物まで音を立てずに潜入しました。
攻撃寸前、2名の武装したベトコンがSEALの援護斑の前に歩いてきました。
2名の敵兵が警告を発する前に、援護斑は2名のベトコンを銃を使わず静かに斃しました。
 SEALは敵基地への攻撃後占拠し、2名のベトコンが逃げようとしたので即座に射殺しました。
チューホイは、建造物の中に隠された武器集積所を発見しました。
この場所には別に、敵の大規模な手榴弾工場がありました。チューホイは別の隠し場所へチームを案内しました。
鹵獲した武器と装備はPBR(河川艦艇)に積み込まれましたが、持ち帰るのが不可能なのでそこにある大部分の兵器を破壊せざるおえませんでした。
 この隠匿された武器集積所は、今までメコンデルタ地帯で発見された集積所の中で一番大規模なものでした。
28基 クレイモア対人地雷
30基 機雷
2丁 ドイツ製短機関銃
2丁 M1カービン銃
2丁 75mm無反動砲
5基 120mm地下工場製ロケットランチャー
19個 催涙ガス手榴弾
25個 中国製手榴弾
50個 電気信管
8ケース 中国製弾薬箱
1丁 中国製SKSカービン銃と医薬品
武器資料 20ポンド分
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*画像は当時鹵獲された共産軍の兵器。ドイツ製SMGとあったが、MP40だと思われる。
以上発見されたものに加え、多数のヒューズと未使用の雷管が発見されました。
ウエストモーランド将軍は個人的な祝福メッセージを贈り、チームの活動を称えました。
 SEALsは日常的なパトロールにて一定の成功を収め、しばしばPRUやL.D.N.N,他のSEAL小隊と協力しながら任務を遂行しました。
4月7日、ST-2第7小隊とST-1D小隊はVinh Long北東4マイルの地域にて、ベトコン部隊と激しく交戦しました。
2つの部隊はお互いと1マイルほど離れながら行動し、別々の場所から出撃しました。
夜が明けてからすぐ、第7小隊はベトコンの別の部隊に発砲し、猛烈な応射を受けました。SEALsは即座に退却し、ヘリコプターが彼らを迎えに行きます。
D小隊は第7小隊の援護に向かい移動した後、ボートで離脱するために河に戻りました。
第7小隊とD小隊の攻撃で、5名のベトコンが射殺されました。
 その翌日、Vung Tauで捕えられた5名のベトコン容疑者を、L.D.N.NトレーニングクラスⅢが尋問のために連れて行きました。
L.D.N.Nの訓練の激しさは、アメリカのBUD/S(基礎水中爆破訓練 Basic Underwater Demolition/SEAL)に相当するものでした。
L.D.N.NトレーニングクラスⅢは、4月末までには38名の訓練生を養成しました。
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ベトナム版SEALであるL.D.N.Nだが、教育はSEALから教官が派遣され行われた。
 4月22日、ST-2第10小隊は7番目の交代部隊としてMy Thoに来ました。
ベトナムにて第10小隊最初の任務は、ベトコン転向者の案内でベトコンの集会所に密かに向かう任務でした。
SEALsがその地域を制圧した後、ベトコン転向者は集まっていた人の中からベトコン地区幹部6人を指で差し示しました。後に6人の幹部は拘留され、地元警察に引き渡されました。
 これらの幹部を尋問すると、My Tho地区の100以上の他のベトコン逮捕につながる情報を得る事ができました。
これらのベトコンは、MyTho地区の米軍や南ベトナム軍や政府組織などに深くスパイとして浸透していました。
容疑者の逮捕は、ベトコンのゲリラ攻撃において利用される情報を断ち切る効果がありました。
それは、ベトコンと北ベトナムがどれほど深く南ベトナム政府組織に浸透しているかという恐るべき指標でもありました。
 4月26日、B小隊は後退を待っている間、偶然ベトコンの偽無電を傍受しました。
地元の敵は河川海軍のクルーに、SEALチームが緊急脱出要請を出したと思わせ、河川艦艇を罠に誘い込もうとしていました。
ボートサポートユニット(BSUs)は、常に敵と交戦しながらSEALパトロールチームを抽出するので、もし戦いに巻き込まれていても立ち向かう準備はできていました。
 ですがこのような偽の無線は、未熟な乗組員を簡単に罠に落とさせる事ができ、ベトコンは油断のできぬ容赦のない敵という事を改めて認識させました。
*BSUsは強力な武装を備え、SEALに強力な火力支援を行う事ができた。
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こちらの過去記事を参照。
4月25日、RSSZ(ランサット特別地区)で行動していたST-1の3小隊の1つが、メコンデルタで活動する為に第Ⅳ軍管区に移動しました。
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 ST-1の分遣隊が立て続けに5名の戦死者を出したのは、その後3週間の間の事でした。
4月29日敵支配地域で行動中、甲板長ウォルター・ポープが敵機関銃掃射で戦死しました。
5月6日、デイビット・デビー軍曹は、Kien川のHam Lung地区にてに海岸から敵地に潜入中、誤って溺れてしまい戦死。

 5月12日、Vinh Binh省にて53名のPRU隊員を率いて行動中、ドナルド軍曹が銃撃戦にて戦死しました。チームはGiang Lon(Phu Vinhの北西3マイル)の村落を制圧したベトコン部隊に反撃するために送られていました。
正午ごろにヘリコプターで村の南部に着陸した後、PRU部隊は水田にてベトコンからの激しい銃砲火を受け、圧倒されそうになっていました。
 ドナルドは部隊を展開し、ベトコン部隊に対しての攻撃を指揮しました。2回目の総攻撃の時、彼は致命傷を負ってしまいました。
彼が指揮したPRU部隊は攻撃を続行、そしてベトコン部隊を村の外に追い出し、17名の共産主義者を射殺しました。
 3日後、M小隊のドニー・パトリック三等曹長は、地雷と思われる爆発によりVinh Long地区にて戦死しました。
小隊がCho Lochの南東からPBRで侵入している最中に爆発が起こりました。
M小隊はこの爆発で他に7名の隊員が負傷し、その後一か月は部隊として行動不能となってしまいました。
 最後の犠牲者は5月19日、ゴードン・ブラウン曹長はKien Giang省にてPRU部隊を率いて行動中、ベトコンのブービートラップで戦死しました。
彼はPRUのパトロールが発見した木箱を調査している時に、突如装置が爆発しました。その爆発に巻き込まれ、PRU隊員も6名が重傷を負いました。
 死亡したメンバーは、ほとんどが共産主義者の支配領域内で戦死しており、フロッグマン達は厳しい任務を行っている事を改めて認識するのでした。
 5月11日早朝ST-2第3小隊は、大規模なベトコン部隊への待ち伏せを開始しました。
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敵は逆にアメリカ軍をほぼ圧倒してしまい、SEALの指揮官に重傷を負わせます。
指揮官は傷つきながらも味方の航空支援を要請、ベトコン部隊への激しい空爆を誘導し、ベトコンを後退させる事に成功しました。
 その結果5月14日、ST-2第8小隊はChou Docの南方12マイルのカンボジア国境近くにて、良く装備された82名の兵士と共に敵勢力に備え、待ち伏せ攻撃を仕掛ける事ができました。
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SEALは情報として得られたベトコンの侵入ルートに沿って待ち伏せ作戦を開始し、すぐにその情報が極めて正確だったという事を知りました。
 4時間に及ぶ戦闘でSEALは猛烈な制圧射撃を加え、ベトコンにとってSEALは鬼門であるとはっきりさせました。
共産主義者はたびたびカンボジアから越境してSEALsを圧倒しようとしますが、その度に撃退されました。
 アメリカ軍がベトコンと接敵する度に、海軍シーウルフ武装ヘリコプターが支援として到着し、砲兵による強力な制圧射も加え、国境の向こうに敵を追い返しました。
ただ一人の犠牲者も出さずに基地に戻ったSEALsの司令官は、彼の小隊と支援部隊のいる場所が(共産主義者が侵入する)道路の終末点だと断言しました。
この戦闘で24名の敵兵を殺害、40名を負傷させました。
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*海軍シーウルフヘリコプター部隊は、SEALの任務に的確な支援を行っていた。
 5月16日、SEALとPRUの合同部隊は、Chau Docに迫撃砲攻撃を加えたベトコンを捜索するため、敵の支配区域に前進しました。
部隊は敵の迫撃砲やRPG-7ロケット砲、小火器の攻撃を受けましたが、武装ヘリコプターの火力支援を受けていました。
部隊は小さな塔の近く1500mをパトロールし、そこで大規模な銃撃戦が発生しました。
その後掃討し、夜9時に撤収しました。
 翌日、ARVN(ベトナム共和国陸軍)の捜索で、月末以降の戦いによって死亡した36名のゲリラの遺体を発見しました。D小隊は最近発見されたベトコン基地にて発見された750ポンド爆弾を処理するため、EOD(爆破物処理班)の数名の隊員と行動しました。
その時アメリカ本土では戦争反対の抗議のため、20万人の民衆がニューヨークでデモ行進をしていました。
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 マーティン・ルーサー・キング牧師とロバート・ケネディが暗殺され、1968年の夏は黒人社会に都市暴動を引き起こさせました。
アメリカの各家庭に不安をもたらしましたが、ベトナム戦争は変わらず続いていきました。
 1968年の春にSEALsが享受した大きな成功は、前年までの戦果を上回りました。攻撃により犠牲者は出ていましたが、各部隊の行動はより大胆かつ攻撃的となりました。
 SEAL小隊が自分の部隊よりも大規模な敵部隊を攻撃することは、珍しい事ではありませんでした。
ある作戦で小隊は、河川艦艇にてパトロール中2個ベトコン大隊と遭遇しますが、見過ごすと後方地域をおびやかすため攻撃をかけました。
分散した攻撃をかけるよりも、SEALは大火力の攻撃を開始して敵を圧倒する方法をとりました。
15分間の短くも激しい銃撃戦の後、共産軍は圧倒され敗走しました。
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 更に他の作戦では、雨の降る夜間に6名のSEAL隊員は、敵の支配地域で3つの小屋を発見しました。
1番目の小屋に静かに忍びより偵察した隊員は、何名かの眠っている男たちとその横に6~8丁の武器を見たと報告しました。
隊長はこれを聞き、3つの小屋の中に18~20名の兵士が眠っていると推測しました。
SEALs達にはまだ不確定要素があると考えていましたが、勝算も感じていました。隊員達は分かれ、小屋に向けてクレイモア対人地雷をセットし爆発させました。
こうして銃撃戦をする事もなく、19名の敵兵を殺害しました。
 一方UDTは、ベトナムの数百マイルにおよぶ海岸線を調査し続けました。6月には、UDT12のB分遣隊はNha Trangの北10マイル、Hon Heo島を調査しました。このような調査の多くを日常的に彼らはこなしていきました。

 多数の活動に関して、軽武装のUDT隊員は敵スナイパーから頻繁な攻撃を受けました。
ほとんど隠れる場所もない海岸や海上にて任務を行い、いくつかの死傷者を出してしまいました。
UDTは敵と戦っていない時には、他の任務に立ち向かっていました。
彼らはサルベージ活動や海難救助活動も行っていました。
 翌月ST-2第9小隊は、南ベトナムの民衆にゲリラ闘争を支持する事を強制する試みで、村々を回っていた共産主義者の宣伝チームを殺害しました。
8名のベトコンが捕えられ、他に逮捕された3名の容疑者は、ベトコンの活動を助けるために共産主義者によって連れて来られたカンボジア人である事がわかりました。
彼らはベトナムに連れて来られる前に、政治的な教化を受けていました。

続く
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テト(1968) part3

前回まではこちらをどうぞ。
テト(1968)  part1
テト(1968)  part2

Part3 転換点



 テト攻勢は、アメリカの政治的にも大きな災厄でした。
アメリカ軍は戦いにて共産軍をすべて打ち破りましたが、アメリカのマスメディアではまるで敵軍が何の妨害も無しに奇襲をかけたと報道されました。
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サイゴンにあるアメリカ大使館がベトコンに一時的に占拠されてしまった事も、劇的に報道されました。
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 ちょうどアメリカ合衆国が戦争に向け力を入れていた時、テトはアメリカ本国の新聞で爆発的に報道されました。
そして、1968年は大統領選挙の年でした。
 テト攻勢の影響がアメリカで感じられた時、ジョンソン大統領は3月の末日にテレビの演説で北爆の部分的停止と北ベトナムへの和平交渉の呼びかけを発表しました。
あと、民主党大統領候補としての再指名を求めない事も発表しました。
 テト攻勢の最後の衝撃が戦場にもたらされた後、米軍は反撃を開始します。SEALsは共産軍の基地に攻勢をかける時でした。
2月14~18日、第8小隊から2名の隊員が選ばれカンボジア国境沿いの偵察任務を行いました。
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 SEAL隊員は農民が着るブラックパジャマを着用し、アメリカ人だと分からないように「滅菌」された武器や装備を携え行動しました。
SEALsの2人はロシアの軍事顧問の偽装をして地域の住民の前で偵察活動をしました。
この任務中、活動地域周囲のキャンプで400人以上の敵兵の存在を確認しました。
*ここでいう「滅菌」とは、小銃などの武器からシリアルナンバーを削り落とし出所不明にしたり、装備や服からラベルや生産国が分からなくする事。
あとSEAL隊員がブラックパジャマなどの敵の偽装をする行為はしばしば見られた。
 2月16日から、SEAL第8小隊から6名、第7小隊から2名の隊員がえらばれ、Phong Dinh,Vinh Binh Chau Docなどの都市, KienGiang行政区にて2週間にわたりPRU(省偵察隊)隊員と実験的な計画で活動しました。
要員はその地方の方々で二人一組の単位で行動しました。
計画は、要員が集めた敵の暗号や情報を利用するために使用されました。
 また同日2月16日、SEALチーム1 B小隊は夜間待ち伏せを行っていましたが敵を捕捉できなかったため、連絡を取り後退するために河川艦艇を呼びました。
B小隊は自分たちの位置を船に合図するために赤いレンズを入れた懐中電灯を使いましたが、SEALsは向こう岸の土手から似たような灯りがあった事に気が付きました。
ベトコンは懐中電灯を使い、迎えにくる艦艇を待ち伏せに誘いこもうとしていました。
SEALsは機関銃の一斉射撃で敵の灯りを永遠に消してしまいました。
 後の戦闘報告書に、戦闘地域からの後退に際しての連絡方法がパターン化し敵に利用され致命的にならないよう、パトロールごとに変更しなければならないと記されました。
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 60名のPRU(省偵察隊)隊員はSEALの士官の指揮下に入り、2月17日にBa xyuen省の任務では23名のベトコンを捕えました。
この戦いでPRU隊員が一名戦死しましたが、20名のベトコンを斃しました。
2月21日、M小隊はNha BeにてA小隊を支援しました。
 SEALチーム2第9小隊は2月24日、Vinh Long地区にて第6小隊を救援しました。
2つのSEAL小隊はKien Hoa省にあるThom運河を、シーウルフ隊のガンシップ(武装ヘリコプター)に支援されて掃討しました。
5名のベトコンゲリラを射殺し51名のベトコン容疑者を捕えました。そしてSEALとシーウルフ隊の連合部隊は、30の掩蔽壕、25艘のサンパン、5tの備蓄米を破壊しました。
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 3月6日早朝、SEALチーム2第7小隊は中隊規模に戦力を増強する為、現地PRU部隊と統合しました。
7時間に亘る敵軍との遭遇戦は、河川艦艇とガンシップヘリコプターの支援を受けながら戦われ、敵中隊長を含む6名のベトコンを射殺し、武器の集積所を発見しました。
情報部は後に、この敵はベトコン531中隊と509中隊の兵士と特定しました。
 3月9日には、SEALチームの2個分隊がPRU部隊と現地部隊と合同で行動し、6名のベトコンを射殺、他に1名を捕えました。
後の戦闘報告書では、この日の戦闘をSEALは大部隊と共に行動するのは小回りが効かず非効率的とし、後のSEALの部隊単位は、戦争を通じて少人数(通常6~7名)で編成されました。
 ほぼ毎日のようにパトロールなどで静かに行動するこの少人数のチームは、第4軍管区で効果的に動きました。
*SEALは一個小隊14名で編成され、一個分隊7名で組まれましたがこの7名で戦闘に出る事は滅多になかったとの事。詳しくは以前に書いたこちらを参照。
 3月10日A小隊は、父親をベトコンに殺されたベトナムの一般人に案内され、ベトコン基地の保安係と2名の幹部を斃しました。
それから彼らは、ベトコンの女性通信員や他の幹部のいる小屋に案内され、SEALsは生きたまま敵の幹部を捕縛、そして地域から静かに後退しました。
 同夜、M小隊のチームは川沿いで待ち伏せ作戦を行い、サンパンに乗った6名のベトコンと交戦、敵3名を射殺し300ポンドの米とアメリカ製M3短機関銃を鹵獲しました。
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 3月13日、SEALチーム2第7小隊はMy Thoの東13マイル、敵支配地域の最深部であるCua Tien河近辺に上陸しました。
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*赤丸の地域周辺
潜入後、小隊は北に向かいおよそ1マイル、物音ひとつ立てずに偵察しました。
それから小隊を2個分隊に分け、北東と北西に分かれて出発しました。
 最初の分隊,A分隊は北東に向かって静かに移動しましたが、2名のベトコン兵士といきなり遭遇してしまい、その後方からは約50名の兵士達の雑多な話声が聞こえてきました。
A分隊は北に緊急脱出を行い、支援と脱出用のガンシップとヘリコプターを呼びます。
敵の追跡が始まりました。
チームが脱出ポイントに向かう前に、東から接近してきた別の20名のベトコン部隊と交戦、なんとか撃退しました。
この規模の大きな敵軍と戦っている時、A分隊は非常にツイていました。
乱戦のさ中、A分隊のリーダーは敵を1名射殺後、白兵戦で1名のベトコンを殺害しました。
 B分隊は当初A分隊と別れた後、北西方向に向かい偵察を行いました。
それから間もなくB分隊は建設中の敵兵舎を発見、チームを停止させた後大隊規模の敵ベースキャンプを確認し潜入しました。
分隊から3名のSEAL隊員が分かれ、敵兵舎を調査するためにひそかに前進しました。
 深夜3時、一等曹長ボブ・ギャラガーは他の2名を静かに誘導しました。
兵舎の中には約30名のベトコンが眠っていました。彼らの寝ている横には、手のすぐ届く所に装備と銃が置かれていました。
その時、星明りの下行動するチームをベトコンキャンプの衛兵が発見してしまい、突如至近距離での猛烈な銃撃戦が始まってしまいました。
 ベトコンゲリラの半数は最初の猛射で斃しましたが、SEALは5名の隊員が被弾してしまいます。
部隊指揮官はもはや歩くのが不可能なほど傷ついてしまいました。
多数のベトコンの追撃が始まり、SEALは再編成し逃走を始めました。被弾したが歩く事が可能な隊員は、歩けなくなった隊員を背負い移動します。ここで部隊指揮が不能となった隊長からギャラガーへ指揮権を移譲します。
 ギャラガーは最初の戦いで5名の敵を射殺するも、両足に被弾してしまいました。その後なんとか歩行ができた彼は必死でチームを誘導し、南方向に1000mほど逃走しました。
 ベトコン部隊はすべての兵を動員しその地域を徹底的に捜索しました。敵捜索隊の一部は、潜伏しているSEALsの30m以内を気づかずに通り過ぎました。
航空支援が呼ばれ、脱出用のヘリコプターが近づいてきました。SEALsの面々は敵との激しい銃撃戦を始め、自らが放つ曳光弾で自分たちの位置をヘリコプターに知らせました。
 ベトコンの新しい増援部隊が追撃してきましたが、夜間だったのでSEALsの銃火と他のベトコン部隊の銃火との区別ができませんでした。
ヘリコプターは隊員を正確に見極め、彼らを救出するために急降下しました。
ギャラガーはヘリコプターに隊員が乗るまで、追いすがるベトコン部隊に制圧射撃を続けました。
彼は再び被弾するも最後にヘリコプターに乗り込み、チームと共に生還しました。
後に、敵キャンプを破壊するために砲撃と空爆が行われました。
 後日、ギャラガーに関して一人の隊員がこんなコメントを残しています。
「僕らは、ギャラガーがベトナムの3回目のツアー(従軍)の後2度とベトナム行きを志願しないだろうと。だが彼は4回目のツアーを志願した。」
3月13日に行われた勇敢な行動を称え、ギャラガーはアメリカ合衆国で2番目に栄誉のある海軍殊勲賞を授与されました。
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次の夜、SEALチーム2第8小隊は、ARVN(ベトナム共和国陸軍)監視所から3kmほど離れた川沿いで待ち伏せを行いました。
およそ一時間後、1艘のサンパンに乗った一人のベトコンが待ち伏せポイントに近づいてきました。
2名のSEAL隊員が待ち伏せポイントから飛出し、サンパンに乗り込みました。そして格闘の後敵兵を捕えました。
捕虜を尋問すると、彼は地元のベトコン大隊の隊員である事が判明しました。
 第8小隊のメンバーは再び待ち伏せの体勢をとり、それからおよそ30分後、6名の武装したベトコンが待ち伏せポイントに入り、SEALの一斉射撃により全員射殺されました。
後に射殺した死体を調査したところ、地元ベトコン大隊副隊長とその幹部、ハノイ(北ベトナム)から来た記者という事が判明しました。
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続く
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飲む震災復興

今日はお堅い話をお休みして違う事でも書こうと思います。
というか、そんなにポンポン英文翻訳できる能力はありませんのであしからずw

昨日、自宅にこんなものが届きました。
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4月に発生した熊本地震、未だに酷い爪痕を被災地に残しております。
あの震災の後、寄付とかはやっていたのですが何か自分にできる事がないかなぁと思っていたところ、こんなサイトを見つけました。
884STORE

地元の酒屋さんが被災され、ラベルやフタが傷になり売り物にならなくなったりしたお酒とかを特価で販売されております。
早速注文を入れ、それが昨晩我が家に届きました!

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素敵な升がおまけで入っていて..
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御礼状と、震災の時の思い出が綴られたお手紙が入ってました。

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今回は地元の日本酒と梅酒の詰め合わせをお願いしましたが、日本酒は後日頂くとして昨晩は梅酒を夫婦で頂きました。
お味の感想は...

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画像(意図的に)間違えました

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僕はあまり甘くてベタベタしたリキュール系のお酒は好きではないのですが、これは次元が違いました。
うん、こっちの画像の方がいいかな...
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美味いぞー!

これは日本酒の方も期待しちゃいますゾイ!
こうやって地元の物を買うのも震災復興です。東北の物も併せ、こんな復興支援皆様いかがでしょうか?
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テト(1968)  part2

テト(1968)  part1はこちらから

Part2 大攻勢

 1968年1月23日、朝鮮半島の情報収集の任務を負ったプエブロ号が北朝鮮の攻撃に遭い拿捕され、高度に機密化された電子機器が奪われました。
アメリカの情報関係者にとって大打撃でした。
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 外洋にあるプエブロ号が移動し機材が分解される前に、プエブロ号を破壊する計画が立てられました。
USSタニーを使い北朝鮮の元山港へ侵入するために、海軍のUDTチームに呼集をかけましたが、北朝鮮は港に船を固定してしまいました。
*USSタニーに関しては、こちらを参照
結局、捕えられた米軍の捕虜への処遇や解放へ障害が出る事が考慮され計画は中止となりました。
*プエブロ号事件に関しては、こちらを参照(リンク先wikiです)
最終的に乗組員は北朝鮮から解放されましたが、プエブロ号は現在も北朝鮮の港にあり、反米宣伝の為展示されています。
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 15個のSOGチームも、1月中は南ベトナムの非友好的な地域で活動を開始しました。
これらの作戦行動には、SEALsが南ベトナム軍特殊部隊を伴い北ベトナムの海岸線を急襲するように、現地の特殊部隊の兵士も同行していきました。
 チームは日中の作戦だけでなく、夜間パトロールやベトコンに偽装するなど、バラエティに富んだ戦術をとりました。
約1年このような戦術で戦い、友軍には7名の犠牲者を出しましたが、戦果は92名のベトコン幹部を捕え他に90名を殺害というものでした。
 Wind Song作戦は1月25日,Kien Hoa省のベトコンの支配区域であるThomとMo Cay運河に沿った地域で行われました。

第6・第7小隊は河川海軍と共同で岸辺で行動し、運河を掃討しました。
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5名の敵兵を殺害、散発的な戦闘の後51名のベトコン容疑者を捕えますが、その中の一人がベトコンの徴税吏である事が判明しました。
それに加え30の掩蔽壕、5トンの米を破壊、SEALは各小隊をローテーションさせながら行動し、1月28日にはNha BeにてD小隊はF小隊を救援しました。
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 ベトナム戦争のこの時点で共産主義者は、南ベトナムの人々が腐敗したベトナム共和国政府に対し蜂起するという見込みを立てて、非常に危険な賭けでしたが全面的な攻勢をかける決断をします。この決断は、後に共産主義者に甚大な被害をもたらしました。
 ラオス国境に近いKhe Sanhの海兵隊陣地を包囲攻撃し、この包囲戦は77日間続きました。
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この戦いはフランス軍との戦いであるDien Bien Phuの戦いに例えられましたが、アメリカの凄惨な敗北に繋がる事はありませんでした。
 ベトナムの休日であるテト(旧正月)が、政府攻撃の日時に選ばれました。
休日であるテトはアメリカ軍とARVN(ベトナム共和国陸軍)の警戒を緩めてしまい、この攻撃計画自体はかなりの成功を収めます。
 1月31日、共産軍の激しい攻勢が開始されました。
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彼らの目標は、南ベトナムの主要都市と軍事施設でした。共産軍の調整された攻撃は油断していた連合軍を捕えますが、ARVNとアメリカ軍は不利な状況で反撃を開始しました。
 北ベトナム軍は、多くの町や村へ攻撃の尖兵として地元のベトコンゲリラを送り込んだため、建物一軒一軒を奪いあうような激しい戦いとなりました。
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奇襲を受けた最初のショックの後、連合国は敵の攻撃の規模を把握し状況を掌握します。
 問題は、テト攻勢が主に南ベトナムの一般市民が住む区域を中心に戦われていたという事でした。
国中に分散したSEAL分遣隊は、彼らが派遣された基地と町を防衛するために行動を開始します。
 My Thoでは、SEAL隊員とPBR(河川哨戒艇)のクルーが基地と施設の防衛を手伝いました。
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3つの敵部隊は都市部を攻撃し市内に侵攻、交通の要衝であるすべての橋を占拠しようとしました。
 戦いの1つの局面では、ベトコンは武装したサンパンを使い、河を下りながら政府軍へ砲火を浴びせました。
SEALの2個反撃部隊が66mmロケットランチャー(LAW)でサンパンに反撃し、敵部隊を行動不能にします。
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*M72LAWロケット砲を構えるSEAL隊員
 Vung TauのL.D.N.N(ベトナム海軍特殊部隊)スクールでは、一時的に教育が中止されました。スクールの学生と幹部は、海軍本部の防衛の為首都サイゴンへ送られました。
 SEALチーム2第8小隊はカンボジア国境沿いの河川パトロールの為PBRに乗り、1月31日の夜明け前にメコンデルタ沿いの都市Chau Docに移動しました。

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 深夜2時、カンボジアの国境近くで偵察行動中、第8小隊はChau Docの近くに敵の大軍が集結しているのを発見し驚愕しました。SEALチームはできるだけ早くこの情報を司令部に報告する為に後退します。
だが、深夜3時に1400名のベトコン兵士によるChau Doc攻撃が始まりました。
敵の狙いは、組織的に街を攻撃し、政府軍を各個撃破する事でした。
政府軍は必死に抵抗しますが多数のベトコン兵士に圧倒され、各個包囲されてしまいました。
*SEALチーム2第8小隊の指揮官、リチャード・マーチンコ。
後のSEALチーム6 DEVGRUの初代司令官となる。
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 ここでSEALの面々は、陸軍特殊部隊や幾つかのアメリカ軍部隊と連絡を取り合い、現状で何が可能かを協議しました。
SEALを含むこの連合部隊は、大規模な共産軍の攻撃の前にはあまりにも小規模でした。
陸軍の兵士がいた指揮所で、一同は残っていた武器をかき集めます。
 この時SEALは、河の1マイル下流にアメリカの援助物資備蓄倉庫と兵器工廠がある事を聞きました。武器を奪取するために、小隊の半分をPBRに乗せ下流へ向かわせます。
この小部隊はそこで2台のジープを発見し、50口径のM2重機関銃をジープの一台に取り付けました。
それからこの小部隊は、ベトコンの部隊の中を陸軍の指揮所まで猛スピードで運転して突破します。
ベトコンにより占拠され要塞となった病院の前を走っていた時、猛烈な砲火でジープは損傷してしまいますが、SEALの面々は無事無傷で指揮所に帰還しました。
 命からがら帰還したSEALチームの面々に、10人のアメリカ市民(教師や宣教師、軍属の看護婦など)が行方不明となっていると悪い知らせがありました。
アメリカ陸軍特殊部隊隊員ドリュー・デイックスは、救助に向かうSEALチームの面々にアメリカ人が隠れているかもしれない場所への案内役を志願しました。
時間は限られていました。ジープでベトコンが占拠した街の通りをレースのように飛ばし、道路沿いのベトコンと銃撃戦となりました。
 ジープは24歳のアメリカ人看護婦マギー・フランコットのアパートの前で急停車します。
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ベトコンは既に彼女の家に侵入し、金目の物を略奪しようと家を荒していました。
マギーはリビングルームのドレッサーの中に隠れていました。
ベトコンが最上階の部屋に入る音がし、耐え切れずパニックになった彼女は勝手口に駆け出しました。
勝手口のドアを開け飛び出すと、彼女はそこにいたベトコンと鉢合わせしてしまいました。
その瞬間2名のSEAL隊員がドアを蹴破り部屋に突入、彼女はベトコンから逃げるために体を捻り走り出そうとしましたがつまづいて転んでしまいました。
期せずして彼女が転んで射線が確保されたので、SEAL隊員はマギーの頭上越しに勝手口に猛烈な射撃を加え、勝手口のドアのベトコンを撃ち倒しました。
SEAL隊員とドリュー・ディックはマギーを救い上げてジープに向けて全力疾走しました。
ジープに飛び乗り猛スピードで離れた彼らに、アパートにいたベトコンは道路際の窓に取りつき一斉射撃を浴びせました。
残りのアメリカ市民(教師や宣教師)は別の場所で無事救助されましたが、SEALの仕事はまだ終わっていませんでした。
 アメリカ軍は、それから2日間にわたり敵軍と戦いました。
増援の南ベトナム軍は北部から町に進もうとしましたが、ベトコンとの激しい交戦により前進が遅れました。
 南ベトナム軍はようやっと町の市場まで前進しましたが、敵の激しい抵抗で動けなくなってしまいました。
SEAL第8小隊は2つの分隊に分かれ、ベトコンの背後から攻撃しました。間もなく彼らは市場の近くに前進します。
一軒一軒を奪い合う激しい市街戦となりましたが、SEALsは57mmの無反動砲も含むあらゆる火器を使い戦い続けます。
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*ここでいう57mm無反動砲だが、M18の事かと思われる。第二次世界大戦時に登場したが、戦車の進歩により威力不足が指摘されてしまうが、歩兵が携行できる大火力の直射兵器として活用された。
 ベトコンは町の劇場を自分たちの司令部として使っていました。
SEALは見晴の良い3階建てのビルを敵司令部への監視所として活用します。
包囲されたベトコン部隊は、市場の後方から撤退しようとしますが、SEALとL.D.N.Nは制圧射撃を加えます。
 テッド・ライシャー伍長はドアの内側に立って応戦していましたが、その時一発の弾丸がドアを破り弾丸がライシャーの頭部を傷つけました。
仲間の隊員が古いステーションワゴンを見つけ、ライシャーをそれに乗せPBRまで急いで連れて行きました。
SEAL隊員が街の中で敵と戦う間、河川海軍は運河や水路を武装したボートで行ったり来たりしながら、目視できるあらゆる敵に向けて発砲していました。
SEALsは、救出した看護婦マギー・フランコットと一緒に、致命傷を負ったライシャーに救急治療を施しましたが、手当の甲斐も無くライシャーは死亡してしまいました。
 民間人救出作戦でSEALを導いた陸軍特殊部隊員ドリュー・ディックは、市街戦の指揮を執りました。
地元のPRU(省偵察隊)のアドバイザーとして、彼は街から敵を追い出すのを手伝いました。
彼はこの一連の勇敢な行動を評価され名誉勲章を授与されました。
 テトの戦いは、共産軍にもたらされた災厄のようなものでした。
合衆国海兵隊はベトコンや北ベトナム兵相手に、血で血を洗うような市街戦を展開しました。
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 ベトコンゲリラ部隊はテト攻勢の結果組織は壊滅してしまい、ベトコンゲリラは攻勢前の部隊規模には結局回復しませんでした。
北ベトナム側が将来南ベトナムを占領した時に、政治的に障害となるベトコンゲリラの勢力の減退を狙い、攻勢の主力にしたという話もありました。
続く
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テト(1968)   part1

先日(自分自身が逃げられないように)決意文を書きました、1968年の共産軍による大攻勢、いわゆるテト攻勢について書こうと思います。
もちろん、テト攻勢下にて行動した米海軍特殊部隊SEALのお話が中心です。
文がおかしかったり、なんか変な所があっても、ああ、そんなものねと冷ややかな目で見て頂ければ幸いですw
では、拙い歴史物のお話ですが、しばらくお付き合いください。。。
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Part1 バサック河にて


 1968年が始まり、当初1966年に海軍特殊部隊NAVY SEALsがベトナム戦争に派遣された時と比べ、ベトナムにおけるアメリカの関与は巨大な物に膨れ上がっていました。
 アメリカ軍司令部は、解放戦線と北ベトナムに対して軍事的な勝利は目前であるとみていました。
実際には北ベトナム軍の侵入を阻止する事は成功していたが、それに対抗する更なる増援が必要とされました。
1968年はアメリカ合衆国の選挙の年であり、国内では長引く戦争へ反対する声が増えていましたが、政治家はベトナムでの勝利がそれほど遠くない未来にあるのを確信していました。
だが、同じ年となったテト(ベトナムの旧正月)のお祝いの熱狂はそれらすべてを上回りました。
 1月2日、バサック川中流Can Tho南東12マイルに位置する小島にある敵基地に、SEALはベトコンの転向者に案内され侵入しました。

6名の敵兵士を短い銃撃戦の後に射殺、2基の建築物と備蓄していた米8ポンドを破壊しました。
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 後日敵の転向者から救援要請を求める通信がありましたが、1月7日に脱出を試みた時に殺害されてしまいました。同日第7小隊と2名のL.D.N.N隊員は、小川を航行していた動力付きサンパンで移動している4名のベトコンを殺害、SEALチーム1・B小隊は放棄された敵ベースキャンプを発見します。
B小隊は敵の領域を移動し、21個所のたこつぼ、25個の掩蔽壕、動力付きサンパン、40個の手榴弾、5基のブービートラップ、および3000ポンドの米を破壊、大量の文章を捕獲しました。
 1968年、SEALチーム1と2の被害は深刻な問題となっていました。
1966年から1967年の間チーム1は6名の戦死者を出していましたが、SEALは小規模な部隊の為人員の補充が容易ではなく、このような損失は戦争の難しい現実でした。
 1968年1月11日SEALチーム1の隊員が戦死し、新年を迎えてから最初の死となりました。それは南ベトナムBa Xuyen省での作戦行動中、ロイ・キース上等兵が銃撃戦にて命を落とした戦闘でした。
彼が所属するB小隊の分隊は、ロケット砲を装備した5名のベトコンが守備する掩蔽壕に遭遇しました。1人のベトコンが掩蔽壕からAK-47を発砲しキースに瀕死の重傷を負わせ、SEAL分隊は掩蔽壕を攻撃しベトコンを殺害、ロケット砲と3丁の突撃銃を鹵獲しました。
キースの死は、1968年の激しい戦いの序章ともいえました。
 1月12日、UDT12 Golf分遣隊はメコンデルタのDongTamのはずれにあるMyThoに移動しました。この分遣隊は当初CTF117(河川機動部隊)の指揮下、新型潜水器具を使用した河川偵察をテストするよう命令されていました。
UDTフロッグマンは、3名の士官と8名の下士官兵から編成されていました。
他の3つの部隊が後で派遣される事になっている間、4基の新型潜水装置のうちの1つは部隊とともに来ました。
 また別の話となりますが1968年1月12日、ベトナムでSEALsと彼らの功績に関する小さな記事が発表されました。
記事は星条旗新聞に転載され、それが漫画シリーズとなりました。
当時人気のあったBuzz Sawyerのマンガシリーズの一部として、海軍は極秘の海上部隊SEALを加える事を提案しました。
その漫画の中で主人公のSawyerは、北ベトナムへソ連製レーダー制御システムを奪取するためにSEAL小隊を率いて潜入するという内容でした。
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*Buzz Sawyerシリーズは、第二次世界大戦中に始まった漫画シリーズで、スター&ストライプ(星条旗新聞)に連載されました。
主人公Buzzは海軍のパイロットで色々な活躍をしますが、WW2終結後も連載が続けられ1979年まで書かれました。
海軍はフィクションの作戦なのでコメントはしませんでしたが、その描かれた内容は非常に詳細なものでした。
 Time誌の記事によると、600回の作戦中、SEALsは共産主義者に支配されたエリアに極秘に侵入し、共産主義者の施設(70艘のボート・200以上の橋)を破壊、SEALはその間6名の損害を出したが175名の敵兵を殺害し60名の捕虜を捕えたと。
Time誌のレポーターGlenn Troelstrupは、SEALsのパトロールに同行した初めての報道関係者となりました。
河での待ち伏せは、短いが激しい銃撃戦の後2名のベトコンの死で終わりました。
Troelstrupは、隊員ががまるで敵のように振る舞い、ハンターとしてベトコンを狩りたてている事を記述しました。
*写真誌で有名なLIFEも、同様にSEALの写真取材を行っておりました。
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 他のSEALチームの待ち伏せは、ランサット特別地域Nha Beの南東6マイルにて、1月12日に行われました。
ベトコンの部隊間での警告や通信などが数時間に亘り聞こえてきましたが、SEALのパトロールチームから逃れる事はできませんでした。
待ち伏せは、サンパンの船外機を破壊しベトコンを4名射殺し終わりました。SEALが待ち伏せ地域から離脱している時、河の対岸から銃撃を受けました。
そのベトコンからの攻撃も、40mmグレネードランチャーを叩きこむとすぐに沈黙しました。
SEALsは上流にそのまま向かい更に索敵を続けますが敵部隊と遭遇する事もなく、しばらくの間パトロールを続け帰還しました。
 1月18日、機関銃手の三等曹長アーサー・ウイリアムスの小隊は敵部隊と接触し猛烈な銃火の中で緊急脱出を行っていましたが、彼は致命傷を負いました。
SEALチーム2第6小隊のメンバーは負傷した彼を抱え脱出しますが、間もなく彼は死亡しました。
そして、彼はSEALチーム2のメンバーで最初の戦死者となりました。
 同日、死はUDT12に悲劇をもたらします。
UDTチームとロバート・コンドム少佐が乗船したLCM(上陸用舟艇)に敵のB-40ロケット砲が直撃、部隊指揮官であったロバート少佐が戦死しました。
少佐のチームは、新型のスキューバ装置を使った評価試験を行っていた最中でした。
 My Tho地区にて半月の間、SEALとL.D.N.Nの合同チームは敵兵を斃し、敵の軍需物資を鹵獲しました。
2個L.D.N.N分遣隊とSEALチームは、Binh ThuyのはずれからNha Beの周辺で活動しました。
 1月の半ば、SEALチーム2第7小隊からもう一人の犠牲者が出ました。
ユージン・ファーレィ軍曹は敵に仕掛けられたブービートラップの解体を準備していました。
そのブービートラップはパトロールに来る米兵相手に仕掛けられていました。彼がトラップを解体している時に装置は爆発、ユージーンは戦死してしまいました。
 SEALは増加した犠牲者から人員を補充する為、隊員を増やす努力が続けられました。
同時に敵が活動する地域での作戦行動を通し、敵を熟知し経験を積み隊員の行動はより大胆になりました。
 1月22日、2つのSEAL分隊はTien Giang川(サイゴンの南西77マイル)の運河に沿って待ち伏せをしていました。
水路に沿ってパトロールしている間1つのSEAL分隊は、23日深夜2時に灯り無しで移動していたサンパンを攻撃、4名のベトコンを射殺します。
分隊は更に南東に移動し、灯り無しで移動していた別のサンパンを攻撃、2名の敵兵を射殺しました。
その攻撃の中、運河の土手沿いにあったベトコンの拠点はアメリカ軍の銃撃に反応し、発砲炎に向け射撃を開始しました。
暗闇の中複数の敵部隊は、お互いを敵と誤認し銃火を浴びせ同士討ちを始めました。SEALsの面々はそれを静かに隠れながら見ていました。
最初の待ち伏せ地点から2番目のSEAL分隊は2つの土手沿いに移動を開始、敵兵が乗ったサンパンを拿捕し、最終的に残った敵兵がSEALによって壊滅しました。
戦闘後隊員は8名のベトコンの死体を発見、それから2個分隊は合流し帰還しました。
 同日、UDTのB小隊は人工ダムでせき止められた運河を解放するために、SEALチーム2の指揮下で行動しました。
300ポンドの爆薬でダムを吹き飛ばし、運河の通航は容易なものとなりました。
UDTのフロッグマン達はこのような任務によく利用され、一般市民の運河の交通を助けました。
 また1月22日夜、SEALチーム1 A小隊のメンバーからなるチームは、オーストラリア特殊空挺部隊(SAS)の5人のメンバーと待ち伏せ作戦を行いました。
 オーストラリアとニュージーランドの精鋭部隊であるSASは、優秀な特殊部隊として偵察、待ち伏せ、捕虜を捕えるなどの活動を行いました。
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*写真は、ジャングルの幽霊と恐れられたオーストラリアSAS隊員
SASはSEALのように、5名からなるパトロールチームを編成し正規軍の目や耳として行動しました。
SEALは幾度もSASと協力し、共同部隊として優れた関係を築きました。
 1月の作戦で、ヘリコプターから縄はしごで作戦地域から離脱したチームがありました。
数名のベトコンは3隻のサンパンから発砲し、この戦闘で2名のベトコンが射殺されました。
一隻のサンパンから鹵獲された北ベトナム正規軍の軍服は、この地域でベトコンと北ベトナム軍が活動している事を示していました。
他の地域でも北ベトナム軍の活動が報告されており、この情報は旧正月への不吉な警告でした。
続く
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まとめ