買い物狂いの忘備録

40代の物欲にまみれたオッサンの忘備録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など忘備録的に書いてます。

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Dear America 戦場からの手紙 楽曲リスト

またこのネタやるんですか!
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という事で、ここ何回か取り上げていたDear America 戦場からの手紙。
DVDになっていないのが惜しいくらいのドキュメンタリー映画なのですが、特筆すべきは映画の中で流されている楽曲の数々。
有名スターが版権なしのタダで楽曲を提供したので、当時流行った音楽がそのまま流されております。
それゆえ、本当に良い曲ばかりなのにサウンドトラックが作れないのですよね。

前回のエントリーで、自分のサウンドトラックを作ろうというのを書きましたが、ここに皆様の参考になればと思いリストを貼らせてもらいます。

A Change Is Gonna Come -- Sam Cooke



Rolling Stones - Gimme Shelter


The Rolling Stones - No Expectations


Bob Dylan and Norah Jones - I Shall Be Released


Bruce Springsteen - Born in the U.S.A.


Sly & The Family Stone - A Family Affair


A Hard Rains Gonna Fall {Live at Town Hall 1963} - Elston Gunn


Creedence Clearwater Revival - Fortunate Son


Bob Crewe - Walk Like A Man


Marvin Gaye - What's Going On


Wipe Out - The Surfaris


Blue Christmas Elvis Presley


Jimi Hendrix - Are You Experienced


Chuck Berry - Back in the USA


Sonny and Cher: The beat goes on


Alice Cooper - I'm Eighteen


The Doors- Five to One


Buffalo Springfield - For What It's Worth


Tim Buckley - Once I Was


Love - Signed D.C


The Drifters - Under the Boardwalk


Country Joe McDonald - Grace


Smokey Robinson and The Miracles:Going to a Go Go


以上になります。
本当は曲目だけにしようと思っていましたが、当時の音楽を知らない若い子でも理解できるように動画を貼ってみました。
厳密には映画で使われた楽曲そのものではありませんが、参考にしてください。

今年、あと一回は更新したいですね!
関連記事
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NAVY SEALs の歴史 4 ベトナムからの撤退

前回までのお話はこちら
NAVY SEALs の歴史 序章
NAVY SEALs の歴史 1 誕生~ベトナム戦争への道
NAVY SEALs の歴史 2 戦火の中へ(1966~)
NAVY SEALs の歴史 3 転換点 テト攻勢(1968~)

捕虜収容所の捜索

 1971年の最初の数ヶ月、戦争の「ベトナム化」にもかかわらず米海軍はベトコンに対抗する為南ベトナム軍コマンド部隊を訓練し、作戦を指導しました。
 その当時南ベトナム軍の士官は、プエルトリコの特殊戦闘コースにSEALチーム2の指導の下参加し、一方新しいUDT/SEAL部隊はSierra分遣隊と命名されました。この分遣隊は別の南ベトナム海軍基地に駐留している5つのチームからなり、南ベトナム軍コンバットダイバーの訓練任務を与えられました。
ベトナムで展開していた他のSEAL部隊の主な任務は、ベトコンの捕虜収容所を捜索する事でした。
 1月9日NamCan近郊にて河川パトロール中、SEALチーム1のJ・.E.テムズ大尉と2名の南ベトナム軍L.D.N.Nの兵士が待ち伏せに遭い彼らが乗っていたボートで戦死、同時に2名のSEAL隊員が負傷し、ボートに閉じ込められました。
この絶体絶命の瞬間、SEALチームZulu小隊がヘリコプターで待ち伏せていたベトコンを追い払わなければ最悪な結果になっていました。
 2月下旬、海軍司令部はSEAL小隊に攻撃的行動をとらないよう命令を下しました。
その日以降,アメリカに帰還したSEALチーム2隊員の交代要員は送られてきませんでした。
ダナン海軍基地からSEALチーム1.Golf分遣隊内の小隊が作戦を行いましたが、3月にはX-Ray小隊が編成から失われました。

農民に変装して

 ベトナムでの諜報活動は11月、ニクソン大統領が米軍の防御的役割のみに情報収集活動を行うと決定した月まで行われました。
ベトナムのSEALチームに課せられた目的は、共産主義者によって拘束されたアメリカ人捕虜を発見する事でした。
 1か月後の12月7日、SEALチーム1のMike小隊がベトナムでの最後の部隊となり、1972年1月に本国に帰還しました。そして4名のSEAL隊員(ST-1)が軍事顧問として任務につきました。が、1月15日、行動中1名の隊員が負傷してしまいました。
最後のUDTチームが第7艦隊の船に乗船し、SEALチーム2のあらかたの隊員は2月半ばに米国に帰還しました。
しかし米海軍司令部は、アメリカ人の捕虜救出作戦が行われることを想定し、SEALチーム1の1個小隊を沖縄に駐留させることを決定しました。
 3月下旬、北ベトナム軍は戦争に打ち勝つためにイースター攻勢を開始しました。
南ベトナム軍を支援するため、アメリカ軍は南北ベトナムの間にある非武装地帯に、大規模な爆撃を開始しました。
この爆撃作戦中4月2日、作戦に参加していた電子戦航空機EB-66が撃墜されてしまい搭乗員のうちハンブルトン中佐は緊急脱出に成功しました。
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EB-66
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ハンブルトン中佐

が、アメリカ軍の重要な軍事機密を知るハンブルトン中佐をなんとしても救出するため、アメリカ軍は救助に全力を注ぎますが北ベトナム軍によって悉く阻止され多大な損害を出しました。
*大規模な空軍のレスキューチームが出されたが、5機の航空機と11名のパイロットが失われるという大損害であった。
そこでベトナムに残った海軍特殊部隊隊員である、SEALチーム2のトーマス・ノリス大尉とL.D.N.N隊員Nguyen Van Kietでハンブルトン中佐救出に向かう事となりました。
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 4月12日深夜、ベトナム人が使う小舟(サンパン)で農民に偽装し敵地奥深くまで潜入、ハンブルトン中佐との合流地点へと向かいました。
そこでハンブルトン中佐を発見しますが、3人は追跡してきた北ベトナム軍の銃火に捕えられます。ですがノリス大尉からの支援要請を受けたアメリカ空軍の攻撃で、追手の北ベトナム軍は壊滅しました。
3人の乗ったサンパンは無事に安全地帯に帰還する事ができました。
 この勇敢な行動により、ノリス大尉は名誉勲章を授与され、L.D.N.N隊員Nguyen Van Kietはベトナム人として初めて海軍殊勲十字章を授与されました。(当初ノリス大尉は名誉勲章を受ける事を拒否していた)
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Thomas R. Norris
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Nguyen Van Kiet

注 SEAL隊員が敵の服装をしたりブラックパジャマを着て作戦行動をとる事はしばしばありました。
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この救助作戦の項目はさっくりと書いておりますが、実際は敵の部隊の目前を偽装したサンパンで通りすぎるなど非常に危険なものでした。
BAT-21というタイトルで映画化されておりますが、実際はダニー・グローバーがヘリコプターで救助に来るのではなく(笑)、隠密行動に徹した2名の勇敢な隊員が救助したというのが実相です。


即応体制

 大規模な共産軍の攻勢はアメリカ空軍の攻撃により粉砕されましたが、DaNang基地に残った最後のSEAL隊員(軍事顧問)はアメリカに帰国する事となりました。
実はその時、アメリカ人捕虜を解放するために極秘裏にSEALチームがベトナムに存在してました。
その年の夏には、アメリカ政府は戦争が終わったとほとんど認めておりましたが、SEALチームはベトコンに占拠された地域に制限して諜報作戦を行ってました。
 1972年10月31日、クアンチ省の非武装地帯にて米軍捕虜の捜索任務を受けST-2のノリス大尉とST-1下士官であるソーントン、3名のL.D.N.N隊員の計5名のチームで、海岸から潜入しました。
北ベトナム軍の宿営地を避けながら一晩中にわたり情報収集し脱出しようとした所、50名の北ベトナム兵の部隊と遭遇、激しい戦闘となりました。そこでノリス大尉が頭部に被弾、その場にいたL.D.N.N.の隊員は彼が死んでしまったものと思いノリス大尉をその場に置いて後退してしまいました。
すぐ後にそれを聞いたソーントンは敵の猛烈な銃火の下一人で引き返し、ノリス大尉がまだ生きている事を確認し担ぎ上げ脱出します。海岸に出た時、同じく撃たれ負傷したL.D.N.N隊員も伴い3人で海に逃げ込み、ソーントンは負傷した2人を2時間にわたり支えながら泳ぎ切り、無事生還しました。
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現在SEALミュージアムにある、ソーントンがノリス大尉を救助した時の銅像。
その前で握手を交わす二人。
戦後、ノリス大尉は頭部の負傷が元でSEALを除隊するも、FBIに入り目覚ましい活躍をした。
ソーントンはベトナム戦後、ディックマーチンコの創設したSEALチーム6の隊員となった。


ソーントンはこの勇敢な行為により名誉勲章を授与されました。
 1973年1月ラインバッカーⅡ作戦が行われ、アメリカ軍爆撃機による容赦のない猛爆により、北ベトナム軍政府は停戦協定にサインしました。
3月半ばまでに、最後のアメリカ人軍事顧問(SEALも含む)がベトナムを去りました。
 SEALは1973年と1975年に5名の士官がカンボジアのアメリカ大使館に勤務し、カンボジア海軍コマンドウの訓練をフィリピンのスービック湾とカリフォルニアで行いました。
 1975年の最後の時、北ベトナム軍が停戦合意を破り南ベトナムへの侵攻を開始したのですが、SEAL小隊とUDTチームは準備を整えてましたが介入はせず、ほとんどをサイゴンで待機してました。
こうして、SEAL/UDTのベトナム戦争は終わりました。

4000回以上の任務

 ベトナム戦争期間中48名のSEAL隊員が戦死しましたが、MIA(戦闘中行方不明)になった隊員は存在せず亡骸もアメリカに送還されました。
全体では、ベトコンキャンプに対してアメリカ軍によって行われた88の捕虜救出作戦のうち、SEALは20の作戦に加わりました。
総計で252名の捕虜がSEALが参加した6個の救出作戦で解放されました。
それはベトナム戦争中の捕虜48%が戦争中にSEALによって救出されたという事を表しています。ですが残念な事にアメリカ人の捕虜は解放できませんでした。

 公式には、SEALは580名のベトコンを殺害したとされますが、おそらくそれより300名以上多いとされています。
記録に残る公式な作戦は4000以上に達しました。実際にはMACV-SOGでの作戦や、SEALがPRUやL.D.N.Nを率いて行った作戦はカウントされていないので、これらの数字は過少との評価があります。
SEALが誘導して行った空爆で殺害したベトコンの数も、UDTによって達成された成果も追加されるべだと言われています。

ベトナムの後

 その後米国防総省は、5月にカンボジアのクメールルージュが拿捕したマヤグェス号を解放するためにSEALチームを使わなかった海軍を非難しました。
実際、この作戦は海兵隊が行いましたが10名の損失を出してしまい失敗に終わります。
このような任務を得意とするSEALが行った場合、アメリカ人の損失は軽いものと予想されました。
しかしこのように独力で作戦を行える唯一の部隊としてのSEALなどの特殊部隊は、1980年まで認められませんでした。

注 マヤヴェス号事件はこちらを参照
この事件は、ベトナム戦争での最後の戦闘と言われています。
この後1970年代は、陸海問わず特殊部隊は不遇の時代を過ごす事になりますが、70年代に吹き荒れたテロの脅威に対抗すべく80年代には不死鳥のように復活するのでした。
その歴史は.....アフガニスタンに至るまでいろんな書籍が出ていますので読んでくださいw


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 ベトナム戦争中秘密のベールに包まれ激しい戦闘を行ったNAVY SEALsですが、今でも当時の記録が開示されておりません。
今回ざっとですが、創設からベトナム戦争終結に至るまでの記録を紹介させてもらいました。
ベトナム戦争に興味がある方、ベト戦SEALが好きな方、そんな方々に少しでも参考になればと思い、拙い翻訳をさせて頂きました。
 またぼちぼち加筆修正し、新たな資料が入ったら紹介していこうと思います。
読んで頂きありがとうございました。

関連記事

NAVY SEALs の歴史 3 転換点 テト攻勢(1968~)

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戦争のターニングポイント

 非常に重要な出来事が1968年初頭におきました。
1月31日に共産主義者によりテト攻勢が開始されたのです。
実際ここ6か月の間ハノイ(北ベトナム)は、南ベトナムの人々が政府を支持しておらず、地方に大規模な攻撃をかける事により南ベトナム政府の体制に不満を持った民衆が蜂起し、体制を終わらせる事を期待していました。
以上の観測をふまえ、約10万名の北ベトナム兵とベトコンゲリラは南ベトナムの戦略的要衝と大都市を攻撃しました。
その時、他のアメリカ軍と共にSEALは戦闘に従事していました。
カンボジア国境に近いChauDocにてSEALチーム2第8小隊は、4000名の敵ベトナム兵と直面しなければなりませんでした。
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若きSEAL士官、デイック・マーチンコ。ST2の小隊指揮官としてChauDocで他の陸軍部隊と戦い、ベトコンに捕えられたアメリカの民間人救出作戦を行った。後にSEALチーム6の初代司令官となる。

 しかし、共産軍のサイゴンのアメリカ大使館の攻撃や古都フエの占拠のような成功にもかかわらず南ベトナムの一般市民の支持を得る事ができず、2月には北ベナム軍が保持する場所まで兵を退かなければなりませんでした。
これは北ベトナム軍だけでなく、数年にわたり保持してきたベトコンの戦力に深刻な打撃を与えました。
 しかしこの攻勢は、戦争を迅速に勝利する事が不可能であった事を明らかにし、アメリカ軍司令部はベトナムから手を引く事を確信しました。

その時SEALは、多数のベトコン基地が存在するカンボジア国境に沿って多くの行動を行い、任務を継続しました。
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 SEALは少人数の有能な兵士で行動するのを好みましたが、南ベトナム兵の一般部隊と行動するのが容易ではなく、共同行動は軽い接触からはじまり最終的には成功を収めました。
 3月29日にSEALチーム1とSEALチーム2の合同部隊は、Ho Chanh(ベン・トレの南方の約20km)の村落に対して共同作戦を行いました。
村を防衛していた共産軍兵士を殺害後、SEALは手りゅう弾工場と武器庫、保管されていた重火器を鹵獲しました。
火器の量はすべて鹵獲するには不可能なぐらい大量に存在し、結局大部分を破壊する事となりました。
ウエストモーランド将軍はこの成功に感銘を受け、後に個人的にSEALを祝福しました。
 この年、SEALチーム1は9名を失いSEALチーム2は6名、UDT12は指揮官を失いました。
しかし大量に捕獲された武器や機密文章は言うまでもなく、ベトコンにはそれに倍する多大の人的損害を与えました。

ベトコンの基盤破壊

 1969年1月に開始された、ベトナム戦争を停戦に導くためのパリ和平会談ですが、SEALやUDTの作戦行動にはまったく影響を及ぼしませんでした。
ベトコン部隊を消耗させ情報収集をする任務は変わりませんでしたが、PRU(省偵察隊)がUDTの上陸する海岸を探索しました。
 1月、SEAL小隊は北ベトナムからのベトコンの補給路を遮断する任務に専念しました。非常に重要な任務で、ベトコンの政治機構を破壊するため、彼らの情報網を破壊し地域の共産党の指導者を捕獲する任務を両チームに与えられました。
 3月14日、SEALチーム1のJoseph Kerrey大尉は6名のSEAL隊員と3名のベトナム人隊員(内2名はベトコンからの転向者)と共に作戦に参加し、Nha Trang湾近くの孤島にあるベトコンの拠点を攻撃した際に大尉は片足を失う重傷を負いながらも重要な文章を捕獲しました。
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この功績により、SEALでは初めて名誉勲章(Medal of Honour)を授与されました(Joseph Kerrey氏は戦後、ネブラスカ州の上院議員となる)
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 6月、ニクソン大統領は2万5千名のアメリカ兵を撤退させる事を発表しましたが、SEALの部隊規模は維持されました。
数百もの作戦が行われましたがが、作戦中2名の隊員が死亡しました。

 その年、SEALチーム1はGolf,Bravo,Echoの3部隊から構成されました。
Golf分遣隊はBinh Thuyに移動し、3個戦闘小隊とともに海軍部隊を支援しました。一方、そのうち2個小隊は沿岸監視部隊(CTF115)に配備されました。
1969年の最後の2か月に、Golf分遣隊に2個小隊が追加で配属されました。

浮かぶ宮殿

 アメリカと北ベトナムの秘密交渉は、ベトナムからのアメリカ軍全面撤退に向け話し合われていたが、SEALsの面々は相変わらずベトコンを狩りたてるSEAL稼業を行っていました。
 1970年、SEALチーム1に1分遣隊が増派され4個分遣隊となりGolf,Bravo,Echo,Sierraとなりました。その一部であるAlpha分遣隊はSEALチーム2の隊員から編成されました。
 3月までに、Bravo分遣隊はベトナムでの軍事援助の指揮の元、PRU計画に参加しました。
一方、Echo分遣隊は地元の兵士にジャングル戦と対ゲリラ戦の訓練を実施しました。
Sierra分遣隊はベトナムの海軍司令部に命じられ、南ベトナム海軍特殊部隊L.D.N.N(Lien Doc Nquoi Nhia)をベトナミゼーションプログラムの一環としてCa Mau半島にあるSEAL.UDTキャンプにて訓練しました。
セキュリティ上の問題は14隻のはしけをSong Cia Lon川の中央で繋ぎ、基地として使う事で解決しました。
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この浮かぶ宮殿はSEALだけでなく、メコンデルタで活動する第九歩兵師団やブラウンウォーターネイビー、L.D.N.Nの出撃基地としても使用された

 はしけは、地元の治安部隊によって守られました。SEALはこの基地にすぐに「浮かぶ宮殿」とあだ名をつけました。
この基地はベトコンの決死隊の標的になり、はしけは地雷を抱えたベトコンダイバーの攻撃に何度も晒されますがすべて失敗に終わりました。

 年を経るにつれ、鋭く残忍な攻撃が長時間の待ち伏せよりも効果的だという事にSEALは気が付きました。
そして、夕暮れから夜にかけて行動する方が「仕事がしやすい」という事も。

補足
「奇襲的要素を維持することが最も肝要だった。あっけないほど簡単に仕事が片付くこともあったけど、それは10分間にわたって猛攻をつづけるだけの弾薬を持っていたからだ。奇襲性と打撃力を巧みに合致させ、荒っぽい作業を初期段階に最大限集中できて初めて、数において勝る敵を粉砕できるのだ」
Ronald E. Yeaw 
朝日文庫 暗闇の戦士たち より抜粋

 陸軍の特殊部隊と違い、SEALの任務は敵拠点への直接的かつ短時間での強襲任務が多くみられました。
ベトナム戦争時のSEALを端的に表す文として、このRonald E. Yeawの言葉が一番最適だろうと思いここに書かせてもらいました。
後にRonald E. YeawはSEALチーム6の司令官になります。

SEALは2名の将校と12名の兵下士官合計14名で小隊を編制し、1名の将校と6名の兵下士官合計7名で分隊を編制しました。
 実際には7名の分隊で出撃する事は稀で、それ以下の単位で出撃する事が多いと言われています。
(最小単位は3名 散弾銃を装備したポイントマン、無線機を持ったラジオマン、ストーナー機関銃を装備したマシンガナーとのこと)
そのような少人数での強襲作戦ですので、兵一人当たり400~500発の弾薬を携行したと言われています(無論、作戦や担当するポジションにより変化はします)


あと当時撮影されたフィルムで、ベトナム戦時のSEALを撮影した珍しい動画を貼っておきます。



進む「ベトナム化」

 3月、「ベトナム化」の波はSEALチームに影響を与えはじめました。Bravo分遣隊は、ベトナム戦争後解隊されることとなります。
「ベトナム化」は、ベトコンの活動をますます活発にさせる事となりました。
SEAL小隊は、危機に陥った友軍や墜落したヘリコプターの乗員を救助する為、しばしば作戦を中止せざるおえなくなりました。
 7月、Juliet小隊はアメリカ人捕虜救出を3回試みますが、その都度ブービートラップと衛兵に阻まれ失敗してしまいます。
同じ頃、陸軍特殊部隊グリーンベレーと空軍特殊部隊が、北ベトナムSonTay捕虜収容所からアメリカ人捕虜を救出する事を試みてました。
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写真は、Sontay救出作戦に参加した陸軍特殊部隊の精鋭

 11月22日、10名のSEAL隊員と19名のL.D.N.N(南ベトナム海軍特殊部隊)隊員は、メコンデルタのベトコンキャンプを攻撃しました。
SonTay捕虜救出作戦は、作戦の前に捕虜が別の場所に移されたために失敗に終わりました。
しかしSEALとL.D.N.Nの合同部隊はキャンプの場所を突き止め攻撃し、衛兵を殺害後19名のベトナム人捕虜(中には4年にわたり監禁されていた囚人がいた)を数時間後に救出しました。
SEALへの任務は減少していきましたが、南ベトナム軍へのアドバイザーとしての任務は増えていきました。

続く
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まとめ

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