買い物狂いの忘備録

40代の物欲にまみれたオッサンの忘備録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など忘備録的に書いてます。

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外で音楽を聞こう その2

堅苦しい歴史話から離れて、以前書いた音楽話の続きをやります。
つうか翻訳が続くと老眼...いや目が疲れるものですからw
とりあえず次回でSEALの歴史、ベトナム戦争編は最終回にする予定です。
つうかベトナム戦争以降はやりませんからww


2014年、2015年のアホカリプスの海軍宿営地で流れた音楽を紹介する前に、こちらをどぞー

A Veteran’s Playlist: The Top 10 Songs of Vietnam

ベトナム戦争に従軍された経験を持つライターさんが書かれた記事ですが、すべての兵士が自分のサウンドトラックを持って戦争に行ったというくだりに心を打たれます。
さてヒストリカルイベントでは年代に合わせて曲を集めた方が、なにかとトラブルが起こらなくて良いと思います。
例えばベトナム戦争イベントに行くにあたり、間違ってもアニソンを入れたちゃったりするのは止めましょうw
誤解してもらいたくないですが、僕アニソン好きなんですけど要は空気を読みましょうといったところですねw

さて自分が作った曲集のパート1

渚のボードウォーク     ドリフターズ
Fortunate Son       Creedence Clearwater Revival
Bold O'Donoghue Joan Baez   Bob Dylan
Catch Me If You Can      Aretha Franklin Otis Redding
Land Of 1000 Dances      Wilson Pickett Chris Kenner
Okie From Muskogee       Merle Haggard Merle Haggard, Roy Edward Burris
Danny Boy         The Mamas & The Papas
For What It's Worth        Buffalo Springfield
Satisfaction     The Rolling Stones Mick Jagger/Keith Richards
Break On Through (To The Other Side)       The Doors
The Warmth of the Sun      The Beach Boys
Mrs. Robinson      Simon & Garfunkel
Volunteers Jefferson Airplane     Marty Balin/Paul Kantner
Get Together       The Youngbloods Chet Powers
White Rabbit       Jefferson Airplane
San Francisco (Be Sure To Wear Some Flowers In Your Hair)    Scott McKenzie John Phillips
Don't Worry Baby    The Beach Boys
My Generation    The Who
We've Gotta Get Out Of This Place    The Animals
These Boots Are Made For Walkin'     Nancy Sinatra
Groovin'                   The Rascals
Green Tambourine    Lemon Pipers
Let's Spend The Night Together    The Rolling Stones
--------------------------------------------------------------------------------------------

パート2

Blowin' In the Wind      ボブ・ディラン
What's Going On        Marvin Gaye
Hey Jude            The Beatles
Good Vibrations       The Beach Boys
無法の世界          The Who
Purple Haze    The Jimi Hendrix Experience
Born to Run    ブルース・スプリングスティーン
Layla    Derek & The Dominos
When A Man Loves A Woman    Percy Sledge
Daydream Believer    The Monkees
Hello, I Love You    The Doors
People Get Ready    Curtis Mayfield & the Impressions
Let It Be    The Beatles
Have You Ever Seen the Rain    Creedence Clearwater Revival
Please Mr. Postman    The Carpenters
American Woman    The Guess Who
All Along the Watchtower    The Jimi Hendrix Experience
Ruby Tuesday    The Rolling Stones
Hotel California    イーグルス
Maggie May    Rod Stewart
Without You    Harry Nilsson

以上こんな感じで集めてみました。
パート1は何を基準にしたかというと、これ
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映画のサントラを集めたり、海外で販売されているベトナム戦争ヒット曲集なんかをまとめただけなんですw
とは言っても、今こんなCD買って集めるの大変なんですよ、奥さん(誰だよ)
めんどくせー('A`)と思われる方は、こちらを利用されると楽かもしれません。
レロイ書店さま

海外で販売されているベトナム戦時代のヒット曲集なんかが販売されている事もありますので、それを流すのも一興。
それでも好きな曲をどうしても入れたいという方は、iTuneなんかを利用して入れられても良いかもですよ。




パート2は、アメリカのビルボードを参考にしてまとめてみました。
今は便利な時代になったもの、1969年のトップ10って検索かけるだけでボロボロと出てきますよね。
でビルボードTop10の1位だけを集めてもいいのですが、それじゃあつまらない。
なので1位の曲も入ってますが少し外して、5位や10位だって良い曲はありますよねw
例えばこの曲

CCRのHave you seen the rain ,1971年に発表された反戦歌なのですが、曲中の「晴れた日に降る雨を」はアメリカ軍が落とした爆弾の事を指すと言われ、実際にはビルボードで8位にとどまった曲でもあります。
もうこうなると、自分の好きな曲を地道に探すというのも必要ですよね。
最初に紹介させて頂いた記事を参考にしてみるのもオッケーですよね。

冬のこの時期、来年のシーズンに向けてですが、このブログの読者さま一人一人自分のサントラを作ってみるのはいかがでしょうか?


あっ、綺麗にまとまったw



さてここで問題です。
パート2の曲の中には、微妙にベトナム戦争から外れた曲が2曲あります。
それはどれでしょうか?ww

正解したら何かくれという声が聞こえてきたが。。。
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という事で済ませておこう....w

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NAVY SEALs の歴史 2 戦火の中へ(1966~)

前回までのお話はこちら
NAVY SEALs の歴史 序章
NAVY SEALs の歴史 1 誕生~ベトナム戦争への道

支援チームとのタッグ

 1966年後半、SEALを指揮する海軍司令部は、これら特殊部隊を直接支援する航空機部隊が必要という結論を出していました。
こうしてヘリコプター部隊(Sea WOLF)と支援ボートを導入し、戦場で危機に陥ったSEALチームに短時間で的確な支援をする事が可能となりました。
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 まもなくSEALチームと支援ボートとヘリコプターを組み合わせた作戦が開始され、最初はお互いの作戦区域を決めたりなど作戦上の細かな調整がありましたがすぐに良く連携のとれた部隊として機能し、最初の年で150回の戦闘任務を行い敵に対し重い通行料を取り立てる事となりました。
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 ベトナムでのSEALは賞賛され、既に駐留していた385000名の米兵よりもベトコン側にとって恐るべき脅威でした。
今までベトコンはとらえどころの無い恐るべき敵でしたがそれを打ち破ったとして、SEALは1966年の終わりには多くの任務をこなしていきました。

コンバインドオペレーション

 1967年の最初の数ヶ月、アメリカ軍は強大さを北ベトナム軍に見せつける事でハノイと早期交渉し、戦争に勝つ事を望んでいました。
アメリカ軍はベトナムで40万の兵力を有しており、その中にはSEALチーム1と、コロナド海軍基地でSEALチーム1のベテランから2週間の訓練を受けた後1月31日に来援したSEALチーム2も含まれておりました。
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ST-1(SEALチーム1)
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ST-2(SEALチーム2)
SEALチーム2はメコンデルタのバサック川周辺を作戦区域としました。
SEALは海軍司令部の元、海軍、海兵隊、陸軍部隊が行った大規模な作戦に加わりました。

 ゴルフ分遣隊はランサット特別地区で、冬の数ヶ月の間増大した河川の通行量と活発な活動をするベトコンに目をつけ、敵への破壊工作と待ち伏せ任務をするチャールストン作戦を行い敵の機密文章を捕獲しました。
これら捕獲した文章を解読し、1か月後SEALチーム1のメンバーが行動を開始しました。
ランサット特別地区の航空写真を情報部が分析した所、ベトコンが新鮮な真水を得ていた井戸を特定する事ができました。
 SEALチーム1(ST-1)は井戸を破壊するよう命令を受けすべての井戸を破壊しました。
後日アメリカ人の軍事顧問は、ベトコンは飲料水を得るためにその場所を出て行かなければならなかったと語っています。
ランサット特別地区を急襲した時,SEALは3名の被害を出します。
 この後、対抗策としてベトコンはサイゴンへの海上交通への攻撃をステップアップする事を決めました。共産軍は多数の攻撃を実施し、何隻かの味方の船を爆破し被害を与えました。
敵の行動を阻止するため、パトロールと待ち伏せ攻撃をSEALは命令されました。
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 1か月後の1967年3月15日、ウエストモーランド将軍とシャープ提督はゴルフ分遣隊を訪問しSEALを暖かく祝いました。
それから敵の拠点と井戸の監視など任務の範囲を広げる事となりました。
こうしてSEALは、他からの支援なしで自主的に動ける事を示しました。

多くのミッション

 SEALは6月にいくつかの深部偵察任務を実行したが、これらの行動の実施前、4月にK(Kilo)小隊が4日早くベトナムに到着し、空軍と海軍の支援の下SEAL隊員とベトナム人の隊員がバンサック川の待ち伏せ作戦に参加しました。
LCMから上陸して行動中、ベトコンの迫撃砲弾が船の近くに着弾しSEAL隊員3名死亡、12名負傷の損害を受けました。
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LCM(中型上陸用舟艇)

 この損害はベトナムでSEALが活動して以来最大の損害となり、任務を遂行するのにLCMのような大きな船で行動するのではなく小型ボートを用いるきっかけとなりました。
7月の最初の週に幾つかのSEAL小隊は、第一騎兵からの選抜隊と沿岸警備隊、駆逐艦ブッシュと共にオペレーションシャロウドラフトⅡに参加しました。
 3日間駆逐艦の火力支援を受けましたが、SEALがこれだけの大きな船に支援を受けるのは初めてでした。
1か月後、雨季という時期にもかかわらずSEALの待ち伏せ攻撃で、ランサット特別地域にて今までにない大量の機密文章を捕獲しました。
この時に、最初のボストンホエールが出撃しました。
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*翻訳していた時に出てきたボストンホエールとは、アメリカのモーターボートメーカー Seal用特別攻撃ボート(STAB)の事をさすかと思われます。
アメリカの有名なモーターボートのメーカーで、現在も軍に小型舟艇を納品しているメーカーです。

この船の利点はベトコンの船を攻撃した際、完全に沈む前に船を捕まえる事ができるスピードにありました。(全長7.95m最大時速83km)
ベトナムの木製の船は、SEALと支援用ボートからの激しい火力を受けると簡単に沈んでしまったからです。
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1967年後半、SEALチーム1と2は敵の補給線を遮断する待ち伏せを強化しました。

SEALが多用した支援ボート
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MSSC Medium Seal Support Craft (SEAL支援用中型艇) 全長10.97m,
7.62mmミニガンまで搭載する事も可能
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LSSC:Light Seal Support Craft (SEAL支援用小型艇) SEALの任務で好まれたボートの一つ。完全武装のSEAL分隊7名を搭乗させる事ができ、多数の武器を搭載する事ができた。
写真のボート前部に、Mk 20 Mod 0 grenade launcher(オートマチックグレネードランチャー)が搭載されていることに注意

SEALとSAS

 1968年の最初の数週間、アメリカ軍はベトコンがアメリカ軍の威力に直面し、その為大規模な北ベトナム軍が南ベトナムに侵入していた事に気が付きました。
一例ではオペレーションデルタで北ベトナム兵を捕虜にした時、北ベトナム軍の圧力が増大している事を証明しました。
その頃、ゴルフ分遣隊は6個SEAL小隊で編成されてました。
 1968年1月、NhaBe基地から出撃したゴルフ分遣隊は同盟国からの指示でPhungXinh地区のベトコンの要塞を激しく攻撃しました。
一方ST-1分遣隊は、アメリカ兵と南ベトナム兵のインストラクターとして招かれました。
 2か月後、合同部隊は逃亡者から得られた情報を元にベトコンの武器工場を占拠しました。
攻撃時、敵のジャンク船6艘を沈め数ダースの敵兵を殺害、火砲、地雷と弾薬を多数鹵獲しその後破壊しました。
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 同じ同盟国であり、アメリカ軍と同じ戦術をとるオーストラリアSASニュージーランドSASとSEALは、しばしば共に協力して戦いました。(画像は、ジャングルの幽霊と呼ばれたオーストラリアSAS隊員)

フェニックス計画

 1967年4月~5月、SEALチームの活動は常に南部デルタ地帯の泥中でした。が、彼らの多くの行動は成功に終わりました。
今まで以上に海軍部隊と共に多くの作戦に参加し水路の安全を確保し、小川の濁った水域にまで敵の痕跡を探しました。
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 地方省で徴募された兵士で編成した偵察部隊であるPRU(Provincial Reconnaissance Unit 省偵察隊)プログラムにSEALチームを加入させる事を、海軍司令部は決定しました。
 PRUの使命はベトコンを無力化するためにゲリラ組織のデーターを収集する事にありました。PRU隊員がその土地を自分の手のひらのように知り尽くしている事を生かし、ベトコンを無力化することができるよう組織のデータを収集することにありました。
この計画は、PRUと行動するSEAL隊員の数が少なかったにもかかわらず大きな成果を収めます。
 当時211名のSEAL隊員が所属していたSEALチーム1は、14名からなる小隊と7名からなる分隊で編成されていました。
平均して常に4~5個小隊がベトナムに配備され、1~2個小隊がダナンの特殊部隊と共に活動していました。
他の3個小隊はGulf分遣隊を編成しその間NhaBeからランサット特別地区で活動するタスクフォース116を支援しました。他のSEALユニットは1968年の末まで素晴らしい成功を収めたこの作戦を継続しその地区を管理しましたが、さらにPRUに協力するSEALを増やす事も検討されました。

*今でも謎の多いフェニックス計画ですが正確な文献があまり存在せず、伝聞情報であったり断片的に書かれている場合があります。
当時ベトコンのゲリラ活動はテロと見なされており、南ベトナム政府に対して行われたテロ行為(役人や市町村代表への暗殺、脅迫、誘拐等々)に対して、テロにはテロで応酬したのがフェニックス計画と言われております。
無論陸軍の兵士も参加しており、ベトナムへの従軍2回以上で機密保持ができる兵士(要は特殊部隊隊員)が従事したと言われています。
ベトコン組織要人への誘拐拷問暗殺、協力者の中立化などを行い、ベトコン組織を崩壊まで追い込みました。
1972年、マスコミや反戦運動家からの非難を受け計画は中止となりますが、敵味方双方から有効な手法だったと評価されました。

詳細を知りたい方は、英語版wikiか、リンク先のゴールドマン中尉殿のHPをご覧になってください。

続く
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NAVY SEALs の歴史 1 誕生~ベトナム戦争への道

前回までのお話はこちら
NAVY SEALs の歴史 序章

NAVY SEALsの誕生

 1961年、冷戦の時代。
新たに選出された米国大統領ジョン・F・ケネディは、革命運動やゲリラ戦のような新たな形の戦争が世界中に広がっている事を認識しておりました。
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 このような非正規戦に対応できるような部隊を創設するよう、アメリカ軍に命令を下しました。
1961年冬には、空軍と海軍は大統領命令により特殊部隊設立の為の準備を整えました。
米海軍にはもうすでにこのような特殊部隊は存在しておりました。それが水中破壊工作隊UDTです(彼らは韓国でゲリラ部隊を訓練し、前の年にトンキン湾やベトナム、ラオスで戦っていた)
新しい部隊はUDTの能力を持つ事とされましたが、UDTが朝鮮戦争で実施した破壊工作や偵察などを行えるように定義されました。
 UDTは水陸両用部隊のドクトリン(教義)に縛られてしまい、陸軍と海兵隊訓練校で学ぶ事を拒否されましたが、新設部隊は陸海空と範囲を拡大し、海軍の任務のために必要な権限や機材などを購入する資金などを与えられました。
これにより新しい部隊は狭い教義に囚われず、より広く柔軟に作戦行動を行う事ができるであろうと考えられました。
(UDTが行動できる範囲は水中から海岸や沿岸域までと限定されていたが、新設部隊は海岸から内陸奥深く、20マイルまで侵入して行動できるとされた)

 新しい部隊を創設するにあたり、従来のUDTメンバーから大量の兵士を引き抜いて混乱させるより、選抜過程やUDTコースから若い兵士を入隊させる事にしました。
新しい部隊は海軍特殊部隊として対ゲリラ戦を行うべきとされ、さらに陸上と水中で活動し、同盟国に海における特殊戦を訓練できるものとされました。
 1961年12月、新設された海軍特殊部隊は大統領からの承認を待っていました。
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キューバ危機

 アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは、各60名の兵士、10名の士官、10名の下士官からなる2つの特殊部隊を承認しました。
UDTチームから来ているボランティアから編成された部隊を収容する建物を探す為に数日かかってしまいました。
これらの部隊は、太平洋艦隊所属ののSEALチーム1、大西洋のSEALチーム2として知られています。
SEALの名前の由来は、海(Sea)空(Air)陸(Land)のアルファベットの頭文字からとり、陸海空すべての戦場を統べる事を表しています。
 1962年1月8日午後1時、新しく編成されたSEALチーム2の召集がリトルクリーク海軍基地で行われました。
メンバーの大半がUDT21から出され、9名の士官、3名の下士官、44名の水兵から構成されており、キューバ危機に対応するためこのような部隊編成が行われました。

 ケネディ大統領は、ソビエト連邦の核ミサイルがキューバに配備されたと宣言した後、すべてのアメリカ軍特殊部隊を待機させキューバを封鎖します。
核戦争の危機が近づいていました。
SEALチーム2は基地がキューバに近かったため、海兵隊の代わりにキューバに上陸する準備をし数日間待機していました。
米海軍特殊部隊の行動は、1961年10月にベトナムを訪問したテイラー委員会の勧告と一致していました。
テイラー委員会の勧告では、対ゲリラ戦部隊がアメリカ軍内に編成され世界中に展開できるよう結論づけていました。

 1960年6月、UDT12の予備隊は日本の横須賀を拠点にし、当時すでにベトコンゲリラと戦闘中であった南ベトナムで河川舟艇を率いました。
一年が過ぎ、その後1962年1月まで他のUDTはUSSクック号を拠点にして南ベトナム沿岸や河川の水路調査を行いました。
軍事援助コマンドが編成され、アメリカは南ベトナムに深く関わっていきます。

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 1962年3月10日ベトナム海軍を訓練する為、秘密裡にSEAL隊員が送り込まれます。6か月後2名の交代要員が到着し、南ベトナム海軍ジャンクフォースの訓練を始めました。

訓練

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 新しく誕生したSEALチームは、高いレベルを持った精鋭部隊である事が求められました。
特殊作戦や対ゲリラ戦のテクニックを磨く為に、陸海空軍の訓練校のベテラン教官の指導を受け、SEALチームの2名の隊員がパナマの米軍のジャングルコースに送られました。
 SEALチーム1のメンバーはそれに続き、他のSEALチームのメンバーも世界でもっとも厳しいと言われる脱出とサバイバル訓練を、海兵隊フォースリーコン、陸軍特殊部隊、空軍のパイロットと共にカリフォルニア州ブリッジポートの海兵隊冬季訓練センターで受けました。
 1962年9月、SEALチーム2はカリフォルニアのフォートブラッグ基地へ、陸軍特殊部隊センターで非正規戦の訓練を受けるために出発します。
○船舶、港湾施設、鉄道、橋などの破壊工作技術
○海や河などから上陸し近辺を偵察し情報収集
○現地の一般市民への医療奉仕活動
○友好国の軍および民兵への訓練
などを学び、特殊部隊としての行動が可能となりました。

最初の極秘派遣

 1963年、ベトナムでは12000名のアメリカ軍軍事顧問が活動していました。
湿地や河川で行動する事ができるSEAL型の特殊部隊がベトコンと戦うのに有利だと、専門家や顧問団は気が付きました。
デルタ地帯だけでなくランサット地区は、ベトナム戦争中その場所で多く行われた特殊作戦の為有名となりました。

 1962年、米海軍はSEALとUDTが北ベトナムに対し極秘作戦を行う事を主張しました。
迅速にに北ベトナムの通信線と鉄道を攻撃する事が可能であったが、これはアメリカの軍事顧問団の能力を超える話でした。
それに海軍のこの提案は、まだベトナム戦争に介入を決めていなかったアメリカ軍には到底受け入れられませんでした。
一方、破壊工作と対ゲリラ戦を南ベトナム海軍に訓練する為に、一人の士官と2名の水兵で編成されたSEAL機動トレーニングチーム4-63は,機動トレーニングチーム(MTT)10-62と交代しました。
 1964年9月末、これらのトレーニングコースが終わりLDNN(南ベトナム海軍特殊部隊)がCIAによって偽装された軍事顧問団により指揮され、北ベトナムの海岸で作戦行動をとりました。
この組織は報道からの偽装の為SOG(研究観察グループ)と呼ばれ、いくつかのOPS(Operational Sections)から編成されていました。
 OPS-31 海軍作戦(SEAL UDTの活動も含む)
 OPS-32 航空作戦
 OPS-33 心理戦
 OPS-34 北ベトナムに対しての情報戦と破壊工作
 OPS-35 北ベトナム、ラオス、カンボジアでの活動すべて担当

OPS-31は海軍軍事顧問団で管理されたダナンに拠点を置きました。

 この偽装された名前で、SEALチームと海兵隊フォースリーコンは南ベトナム軍の6名編成の偵察チームを訓練し、沿岸警備隊が使用していた高速船ナスティボートとスイフトボートに乗り行動しました。
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ナスティボート
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スイフトボート

 OPS-31は北ベトナムの海岸にて情報収集と破壊工作、敵兵の捕獲などの任務を行いました。
アメリカのベトナムへの非関与の態度は続きましたが、ワシントンは紛争が起こるのを待っていたかのようでした。
1965年2月フレーミングダート作戦が開始され、ベトコンへの空爆が開始されました。
 3月8日に、海兵隊がダナンに上陸しました。
アメリカは、北ベトナム及びベトコンとの戦争に突入しました。
SEALsはその時激しい戦闘の中でしたが、UDTの分遣隊が南ベトナムの海岸の調査偵察をし、最初の攻撃を開始しました。

最初の戦い

 1966年2月、3名の士官と15名の水兵からなるSEALチーム1はベトナムの地にいました。
SEALチーム1はアメリカ海軍の指揮下にありましたが、サイゴンのアメリカ海軍コマンドではSEALチームをどう用いるべきか分かりませんでした。空母や戦艦の運用や作戦はやった事はあるのですが、水陸両用のコマンド部隊を運用した事のある海軍将官はその当時海軍にはまったくおりませんでした。
そこでランサット特別地区や南部デルタの湿地帯でベトコンの陣地を除去をする任務を与えられました。
この地域は、まさにSEALの任務に合わせたかのようでした。
2年もの間数百ものベトコンがこの地域に潜伏し、河川を使ったサイゴンまでの補給路を寸断しようとしてました。

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s-Rung Sat Special Zone

注釈 ランサット特別地区は南部デルタ地帯にあり、複雑に入りくんだ水路やマングローブ林が迷路のように張り巡らされ、ベトコンが潜伏し活動しやすい場所であった。1950年代から共産主義者の牙城として知られていた。
別名「暗殺者の森」と呼ばれている。


 SEALチーム1はUDTのG(ゴルフ)分隊とNhaBeの海軍基地に腰をすえました。
1966年3月26日ジャックスティ作戦の一環で、第五海兵連隊とUDT11のコンバットダイバーと連携してSEALの最初の作戦が行なわれました。
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 SEALとゴルフ分遣隊、海兵隊RECONはベトコンを斃すため数時間にわたり沼地を捜索しました。
捜索後、すべての兵士はまた船に乗り込みました。結局この作戦は2週間続き、SEALはベトコンの陣地と武器弾薬を破壊しました。


 戦争はUDTではなく新しいSEALのものでした。
ジャックスティ作戦の報告書では、敵に対する知識の欠如が失敗の要因となっている事を示しておりました。
それから数ヶ月、SEAL分遣隊は敵の痕跡を追い、沼地を捜索したのでした。

 司令部は新しい部隊、SEALの急速な進歩を認識しておりました。
一方ゴルフ分遣隊は5名の士官20名の下士官兵に増員され、1966年春2個小隊に編成されランサット特別地区でベトコンに兵員を供給するサンパンの破壊活動を行いました。
UDTは多くのミッションを行いましたが、その活動は海岸や沿岸に限定されていました。
 SEALの急激な進歩は、1966年のベトナムのアメリカ軍の規模拡大と比例していました。
そこで、大西洋艦隊所属のSEALチーム2(5名の士官と20名の下士官兵)がベトナムに派遣される事となりました。
SEALチーム1からはベトナムを経験したベテランが教官を養成するためにコロナド基地に帰還し、若い新入隊員にベトナムで得られた戦訓を教育しました。
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これからのSEALの派遣には、良い舟艇と機材が必要とされました。

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 それで最初の段階では小型の武装ボートが使われましたが、すぐにより速く隠密性に優れたボートが投入されました。
ボートは十分な武装と防護が施され、ベトコンの支配区域に迅速に侵入する事ができました。
これらの優れた装備の投入により、SEALの損耗率を劇的に減らしてくれました。
(上記写真はよく任務に使用されたSTAB [SEAL Team Assault Boat] SEALチーム特殊攻撃ボート)

続く


と思いますが、やる気を出して頑張りますw



関連記事

NAVY SEALs の歴史 序章

 案外と知っているようで知られていない、SEALチームの歴史を何回かに分けて書いてみようと思います。
無論アフガニスタンや現代に至るまでは書きません(笑)
創世記からベトナム戦争終結までを書いてみようと思いますが、洋書の翻訳なので時間がかかったり端折ったりするかもしれませんが、苦情は一切受け付けません('A`)
自分が好きな部隊の歴史や背景を学ぶ事は、何かの役に立つかもしれません。
ま、中年のオサーンが今頃になって英語を学びなおしているという、公開羞恥プレイだといった視点で見て頂けると幸いです。

序章 
水中破壊工作隊 UDTの誕生

 1942年11月、米海軍は北アフリカの上陸作戦で上陸部隊が海岸で直面するであろう困難な障害物に備え、17名からなる分遣隊を結成しました。
その後1943年7月、シシリー島の攻略作戦を支援する為21名からなる分遣隊[海軍戦闘破壊ユニットNaval Combat Demolition Unit One (NCDU 1)]を結成しました。
これらの分遣隊は作戦立案者から将来的に必要であると認められ、1943年夏正式な訓練プログラムが立ち上げられ、フロリダ州ピアース海軍基地にて6名のNCDUが結成されました。
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 1943年
ガダルカナル島とアリューシャン列島で日本軍に勝利した米軍は、中部太平洋への侵攻作戦を計画していました。
攻撃の矛先となったのは、ギルバート諸島のタラワ(ベティオ島)、マキン、アベママの3島。
日本軍もギルバート諸島の戦略的重要性は十分認識しており海軍陸戦隊を守備で送り込み、特にベティオ島の防備を強化し要塞化を目指していました。
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 アメリカ軍もベティオ島への上陸作戦に懸念を抱いていました。
事前の情報が不足し、1841年にアメリカ海軍の探検調査によって作られた水路図に基づき計画が立てられ、戦前にタラワ環礁に住むか近辺を航行した事のあるイギリス人やニュージーランド、オーストラリア人からのわずかな情報しか存在しなかったのです。
 事前の情報を元に環礁内での水深を作戦立案者は推測し、水深1.5mの見積もりを採用しました。だがこの決定が後に大きな惨禍を生む結果となったのです......

 上陸作戦当日、事前に行われた猛烈な艦砲射撃や爆撃にもかかわらず日本軍の陣地はほぼ無傷で存在していました。
海兵隊の上陸部隊が海岸を目指すが、海岸の400mほど手前にサンゴ礁が存在し、その時使われた上陸用舟艇では水深が浅すぎて(水深90cm)乗り越える事が不可能でした。
仕方なくサンゴ礁の上で兵を降ろし海岸を目指したのだが、サンゴ礁を越えると水深が急に深くなり、装備の重さで溺死する兵が続出。なんとか前に進めたとしても、何も遮蔽物の無い海の上で日本軍の機銃掃射が加えられ、海岸にたどり着けた海兵隊員はほとんどいなかった.....

 一切れのサンゴ礁を奪う為の76時間の戦闘で、1027名の海兵隊員と29名の海軍将兵が戦死または負傷がもとで死亡し、あるいは行方不明となって死亡したものと判定されました。
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 しかしタラワ戦で学んだ苦い教訓は有効に利用され、その後多くのアメリカ兵の命を救いました。
その中で事前偵察を行い、上陸前に前途に横たわる天然もしくは人口の障害物を除去するように、水中爆破斑が結成されるきっかけとなりました。
上陸前に目標となる海岸を偵察し、上陸部隊を誘導する。迅速に敵の海岸に橋頭堡を打ち立てる事を期待されました。
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 新しい部隊のメンバーは、海軍の有名な建設部隊であるシービーズや、海兵隊レイダース(海兵隊のコマンド部隊)などから募りました。
 ピアース基地の初期の幹部は、人間の身体は10倍以上の仕事を実行する事ができるをコンセプトにトレーニングを行いました。
過酷な環境でトレーニングが続けられ、強いコンバットスイマーに鍛えられていきました。
現在のSEAL選抜過程ヘルウィークの元祖と言われています(男の集団から”女の子(ふぬけ)を排除するとも言われた)
過酷な訓練に残った隊員は、1944年6月6日のオーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)に投入されます。

 オマハビーチでは70パーセント、ユタビーチでは30パーセントの大損害を受けるが、侵攻作戦を支援する事に成功しました。
オマハビーチで大損害を受けた隊はピアース基地に戻されましたが、残った隊員はユタビーチからドラグーン作戦(南フランス侵攻作戦)に参加しました。
 太平洋戦線でも同様の部隊が訓練されておりクエゼリン環礁の戦いで偵察任務についていました。そこにピアース基地から送りこまれたこれら隊員達が核となり、新しい部隊の創設が計画されました。
海軍の指揮下、100名単位での水中破壊工作隊、UDT[UnderwaterDemolition Teams] の誕生です。

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 裸に海水パンツ、水中メガネとフィンのみ、25m間隔に結び目をつけた釣り糸1巻と鉛のおもりをつけた適当な長さの測深線1本、記録をとるための鉛筆と、左の手に巻き付けた記入用の1枚のプレキシガラスのみの装備で、UDT隊員は偵察に向かいます。
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身を守るのは1本のナイフのみという裸の戦士は、この後主な強襲上陸作戦に尖兵として参加していきます。
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 第二次世界大戦の後、朝鮮戦争にも参加。
仁川上陸作戦や、北朝鮮沿岸の偵察や破壊工作に従事しました。
朝鮮戦争の後、UDTはコマンドウ作戦への模索として海上へのパラシュート降下や潜水機材の改良などの研究を進めました。
そして冷戦の時代、彼らは新しい戦場へ赴くのでした。
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続く
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まとめ

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