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買い物狂いの備忘録

40代の物欲にまみれたオッサンの備忘録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など備忘録的に書いてます。

NAVY SEALs関連記事のまとめ

昨年から、ベトナム戦争時代のシールチームの歴史や色々な考察を書いてきました。
今まで日本ではほとんど知られていなかった、NAVY SEALsの初期の歴史や作戦行動などを色々書けて、僕自身も大変勉強になりました。
ただその該当記事に行くのに、このブログのデザインだとえらく面倒だというのに気が付きましてw,改めてこの記事から各ページに飛べるようにしようかと思います。

インターネット見て人の装備マネする前に資料買えよ、という記事w

ベト戦SEALS入門


NAVY SEALsの創設~ベトナム戦争終結までの歴史

NAVY SEALs の歴史 序章
NAVY SEALs の歴史 1 誕生~ベトナム戦争への道
NAVY SEALs の歴史 2 戦火の中へ(1966~)
NAVY SEALs の歴史 3 転換点 テト攻勢(1968~)
NAVY SEALs の歴史 4 ベトナムからの撤退


1965-1966年、ベトナムへ派兵されたUDT/SEALチームについてまとめたお話。

1965-1966 Part1
1965-1966 Part2
1965-1966 Part3

1968年、テト攻勢下でのNAVY SEALs/UDTの作戦行動についてまとめたお話。

テト(1968) part1
テト(1968) part2
テト(1968) part3
テト(1968) part4
テト(1968) part5
テト(1968) part6

ベトナム戦争下、案外と知られていないUDTチームの事を書いた一編。


UDT in Action

現用勢のリクエストにお応えして書いた、グレナダ侵攻時のNAVY SEALsの行動について。
(もうこの後の時代は自分で翻訳汁wwww)

Seals in action グレナダ侵攻作戦


ベトナム戦争中、暗殺作戦として知られたフェニックス計画とPRU(省偵察隊)についてまとめたお話。

フェニックス 1967-1971

ベトナム戦中、シールチームが使用した武器に関しての記事。

Navy SEALs Weapons
Navy SEALs Weapons 2

SEALチームで使われた有名なシステム23 M60デスマシーンに関しての記事。

死の咆哮 DEATH MACHINE

戦術的、装備的な考察。

1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その1
1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その2


ベトナムSEALsが使用した、有名な装備であるSEALベストとコートに関してまとめた記事。

SEALベストとSEALコートのお話
SEALベストとSEALコートのお話 2


NAVY SEALsのトレードマーク、UDTライフプリザーバーの紹介記事。

UDTライフプリザーバー雑記

同じくベトナム戦SEALsの代名詞となった、シールチームとジーンズに関する記事。

Navy SEALSはジーパンの夢を見るか


とりあえずこのようにまとめてみました。
これからも時間が許す限り、ベトナム戦中のNAVY SEALsの事を書いてみようと思っております。



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POW Raid

今回はまた翻訳物です。
昨年入手した、"Teammates Seals at War"Barry・W・ Enochより、1968年に行われた捕虜奪還作戦の項を翻訳してみました。
筆者がベトナム従軍時代の仲間について書いたノンフィクションですが、日本ではあまり知られていない本なのでとても残念です。
この本の中でPRU(省偵察隊)についても書かれてましたが、また機会がありましたら紹介したいと思います。
PRU(省偵察隊)に関しては、以前書いたエントリーを参考にしてください。
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WO スコット・R・リヨンは3回目のベトナムツアーに赴いていた。
最初の遠征はSEALチーム2の戦闘小隊で参加し、2回目のベトナムツアーも同じように始まった。
その時にリヨンは、情報機関の指揮・管理下にあるPHONIXプログラムの下で、PRU(省偵察隊)へ着任する最初のSEAL顧問の一人に選ばれた。
PHOENIXでの彼の任務は、チュンティエン省の167人のチューホイPRUを訓練して活動することであった。スコットがバージニア州リトルクリーク(SEALチーム2の本拠地)へ戻ったとき、彼は准士官の辞令を受けた。それに伴い、彼はカリフォルニアのSEALチーム1に移籍し、ALFA小隊と合流した。
着任したキエンホア省は、スコットの以前の活動地域であるチョン・ティエンのすぐ北東に位置していた。
リヨンがPRUの任務と同じ地域に戻る事ができ、彼がSEALチーム2で得た経験もあわせて、ALFA小隊にとって非常に有益であった。
彼の評判はALFA小隊へプラスとなり、それが私たちの仕事への熱意を発展させるきっかけとなったのだ。
私たちはSEALsと色々な点で絆を結んでいたが、チーム全員がスコットをどう思っていたかは疑う余地が無かった。
1967年リヨンがPRUへの遠征中、彼は第4軍団地域での捕虜の目撃情報を聞いていた。
彼はこれらの目撃情報を追跡し、収容所の場所に関する多くの情報報告を確認したが、結局役に立つ事が無かった。
1968年10月4日彼は別のPRU顧問から、その年の初めのテト攻勢時に、ARVN(南ベトナム軍)の夫が捕らえられた2人のベトナム人女性のことを知った。

VCは女性達が夫の元へ面会することを許可していたが、収容所へ囚われた夫を解放するために、女性達は情報を提供することを希望していた。
女たちはPRUを収容所に案内することとなった。
スコットはこの情報を、何人かの捕虜を解放する機会だと考えた。彼の作戦への情熱は抑えられず、すぐに救出作戦の立案に取り掛かった。
彼が自由に使える戦力は、SEALチームALFA小隊、PRU、PBR(河川用舟艇)、HAL DET-3 "Seawolf"の航空部隊、そして PBR とヘリガンシップのための浮動支援基地となる USS Harnett County (LST)であった。
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PBR(河川用パトロールボート)
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HAL-DET3 Seawolf(航空部隊)

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USS Harnett County

リヨンは今後の展開が容易になるように、ヴィンビン省トラビンの施設へ部隊を移動させた。そこで彼らに会ったのは、SEALチーム1の PRU顧問ブライアン・ランドだった。
ここで考慮すべき問題があった。果たしてこの女性達を信用できるのか?
この話はSEAL部隊全体を一掃するための罠である可能性があり、ベトコンへプロパガンダ的価値をもたらす勝利にもなってしまう。
厄介な事に捕虜収容所への行き方を知っているのは、彼女たちだけだったのだ。万が一に備え裏切りに対する予防策を講じなければならなかった。
戦術的な計画のもう一つの課題は、部隊移動の規模であった。直接支援を担当する部隊は、40人以上の兵士(SEALsと PRU)を、2 人の女性だけが知っている侵入地点まで気づかれずに移動させることができなければならない。
この時点でヘリでの侵入は、やかましい騒音のために断念していた。さらに女性達は日中にしか収容所を訪れたことがなく、暗闇の中ではおそらくガイドとしての役割を果たせないだろう。
収容所襲撃は日の出前に空からの襲撃以外の手段で行われなければならなかった。
その収容所は、バサック川の河口にあるVCの複合施設のダン島(Cu Lao Dung)にあった。

この複合施設は南ベトナム人によって遺棄されていたが、今ではベトコンがそれをうまく利用していた。コン・コーは9つの島の1つであり、運河が多くて民間人が少なく、川と運河に沿って非常に密集した樹林が生い茂っていた。

潮位は川に影響を与え、そこの堤防はわずか数フィートの高さから10フィート以上に上昇した。
この潮位の差は、襲撃部隊が万が一罠にかかった場合に備えて考慮しなければならなかった。
Vinh Binh 省は Co Chiew 川と Bassac 川の間に位置していた。これはズン島をバ・スエン省に入れたので、海から作戦を開始する事となった。
スコットの襲撃計画の余波で、南ベトナムARVN軍はコンコー島を掃討した。この作戦で得られた情報によると、敵の戦力は 1~2 個の主力大隊とされていた。さらに、HF通信所を保護するための警備部隊と爆発物製造のための小型工場が存在していた。
これに加えて、これまで知られていなかった捕虜収容所の警備兵も存在したのだ。
40人の男たちは、想定していたよりもはるかに多くの困難に直面していた。
任務は次のように分割された。

PBR:侵入地点へ隠密のアプローチを行い、SEAL、PRU、捕虜の救出時に直接支援を提供する。
Seawolfs:強大な敵軍と激しく交戦し、接触を断ち切ることができなくなった場合に友軍の近接航空支援を行う。
USS Harnett County:USS Harnett County に浮動プラットフォームを提供し、PBR に燃料を供給し、必要に応じて追加部隊の通信リンクとしての役割を果たす。
ARVN:支援の要請があった場合、その地域の近くに配備される陸軍一個中隊を提供する。この中隊は、情報秘匿と安全保障のために目標が何であるかは知らされていない。ARVNはSEALの襲撃の翌日に島を一掃する。
PBRは日課のように川をパトロールし、計画は35マイルの地域全体で通常時を装ったパトロールパターンを維持することであった。
決められた時間になると、9隻のPBRが小さな川の河口に集まり、暗闇の中でパトロールが行われた。

10月6日の0215時、PBRのこの「艦隊」はバサック川を渡ってコン・コー島へ向かい行動を開始した。
流れの途中でボートはエンジンを切り、目的地に向かって川の流れに乗り漂流を始めた。
スコット・リヨンは、彼の分隊と捕虜収容所に連れて行く 2 人の女性と一緒に先頭のPBRにいた。
島に接近するとPBRはエンジンを再始動して、お互いに連絡がとれるようにしながら安全に操舵できるようにした。
女性の一人にスターライト暗視スコープを与えたので、彼女は簡単に適切な侵入ポイントを見つけることができた。彼女は突然、川岸に沿って生えた草むらの中の小さなくぼみを指差した。

リヨンはSEALが上陸の準備をして待機することを、すべての支援チ ームに警告した。
彼はPBRがまだ動いている間にチームを上陸させることを選択し、不必要な注意を引き付けないように、また奇襲の要素を維持するようにした。
スコットのチームが船を離れた後、PBR は下流へと移動した。分隊は通常の警備手順を実施してから、溝の上をパトロールし始めたが、50メートルほど進んだ所で突然行き止まりになってしまった。
リヨン達SEAL分隊は確実に罠に嵌められたと思い、2人の女性を見ながら、できるだけ静かに分隊を迎えに来るようにボートへ無線で連絡した。
船に戻ってきたスコットは皆を落ち着かせ、女性たちに間違ったポイントを選んでしまったことを伝えた。ボートを再び集めると、襲撃隊は運河を下っていった。
リヨンは最初の上陸で上手くいかなかったので、これ以上の作戦を中止するのを考えた。しかし捕虜収容所を解放するという思いは強く、作戦続行を決断した。
夜明け前になり、メンバーの誰もが神経質になっていた。他の人に頼るとうまくいかない作戦が多いように、この作戦も嫌な予感がし始めていた。SEALのメンバーは押し黙ってしまい、以前ここの地域で船を失っていたPBRの乗組員は、皆緊張し恐怖を感じていた。

二人の女性は最初に犯した致命的なミスのために、とても緊張していた。
運河の約800メートル下ったところで、二人のベトナム人女性は川岸にある別の溝を指刺したが、今度こそそれが正しい溝だと確信していると申し出た。
スコットの分隊はその地域をチェックしたが、敵の往来が多いという証拠は見つからなかった。
地形は非常にぬかるんでいて、2フィートから4フィートの高さの葦で詰まっていた。葦の茎は鋭くて硬く、全員が裸足で行動していたので、隊員の行動の邪魔になっていた。
SEALが300メートルほど葦の中を歩いていくと、見慣れない道に出くわした。彼らも他の友軍もこの地域で活動したことがなかったので、この道は何か重要な意味を持っていると考えられた。
ブービートラップや盗聴器に気をつけながらその道を進んでいくと、SEAL分隊は小高い丘のすぐ下で止まった。リヨンが単独で前に出て丘の上から覗き込むと、眼下に捕虜収容所があった。
そこには女性たちが説明した通り、確かに捕虜がいたのだ。
スコットが観察を続けていると収容所に30人ほどの男たちを数えたが、中には手枷をかけられた者もいれば、棒に縛られた者もいた。二人は檻の中に閉じ込められていた。看守はちょうど起き上がったところで、一人が小さな炊事場の火を起こしていた。

武器を持っていた兵士は8人から10人で、自動小銃を持っていたのは3人だけだった。リヨンは分隊に戻り、自分が見たことを説明した。リヨンはPRU部隊を左側面に配置し、SEALが最初の掃討を終えた後、突入するよう指示した。
リヨンはもしPRUが最初に収容所に突入したならば、捕虜の状態を見たら逆上してコントロールが不可能になることを知っていた。彼はまたPRUが行動を開始すると、予定された計画から外れる傾向があることを知っていたが、これでは誰かを不用意に殺すことになりかねない。
シーウルフが支援のため離陸している間にPBRへ脱出地点に移動するよう指示し、スコットは隊員達へ「正真正銘の捕虜収容所を見つけた。それを最初に解放するのは俺達だ」と伝えた。
もう日が昇りはじめていたので、スコットは今しかないと思っていた。
分隊は武器を装填して攻撃を開始した。SEALは誰も気づかないうちに、捕虜収容所の周囲の防衛線の中に入っていたのだ。
彼らが見ていた警備兵は、正確な自動小銃の射撃を受けて撃ち落とされていた。スコットの通訳ともう一人の隊員は囚人たちに向かって、拘束から解放されても頭を下げろと怒鳴っていた。収容所内には3つの藁ぶき屋根の小屋と1つの長い張り出し屋根があった。

2人の隊員は小屋のドアへ軽対戦車ロケット(LAW)を撃ち込んでから、最初の小屋へ突入した。2番目の小屋は40mm グレネードランチャーで攻撃され、結果として両方の小屋が燃え始めた。
敵警備兵は完全に不意を突かれた。敵の兵士達は慌てふためいてジャングルの中へ逃げ去り、リヨンと彼のチームはほとんど反撃を受けなかった。
一人のVCは何もできず地面に伏せていただけで、発砲せずに降伏してきた。VCの中尉であることが判明した徴税人は、燃える小屋から24万ドン(ベトナムのお金)を持って出てきた。
最初の襲撃は3分以内に終わった。
PRUはメガホンで「一緒にいるように」「冷静になるように」と、捕虜へ指示を出しながら突入してきた。
これまでのところ隊員達にとって、すべてが計画通り完璧に進められていた。
VCがジャングルに逃げ込み、捕虜が解放されると皆感情的になったようだ。SEALが捕虜を集めて移動しようとすると捕虜たちはSEALやPRU兵士の前で泣き、感謝の気持ちを込めて手や足にキスをしてきたのだ。
この捕虜達は、収容所から引きずり出して待機している船に乗せなければならなくなるまで、敬意を表して手を合わせ続けた。
第二分隊がどれほど誇りに思っていたか、想像するしかない。
SEALsがYRBM(ブラウンウォーターネイビーの洋上拠点 デルタヒルトンとも呼ばれている)に戻り、残りの分隊員が出迎えてくれた時も、自然な高揚感は続いていた。
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*Yard Repair Berthing and Messing 写真はYRBM-20

ジョン・ウェアは故郷の恋人にこの時の事を手紙で書いている。

"親愛なるジミー

私が手紙を書かないから怒っているのは知っているよ。作戦に出ていたんだ。
私たちは金曜日の朝4:30にボートを出て、月曜日の今日戻ってきた。
作戦は完全に成功し、今までで最高の作戦だった。
ベトナム人の友軍と一緒にベトコンの収容所に入ったんだ。 SEALが攻撃の先頭に立つように 最初に投入されたんだ。
最高にクールな経験だったよ。
捕虜たちの何人かは7ヶ月前のテト以来捕虜になっていたが、彼らは私たちを見てとても喜んでいた。
ベトナム人の女性は捕虜たちに食事を与えたり、収容所への正しい道を教えてくれたんだ。
彼女の夫は収容所に捕らえられていたけど、一緒に戻って来れたよ。
喜んでいなかったかって? そんな事はない!
皆信じられないくらい喜んでいた。
ここに来て初めて、私はこの人たちを助けた達成感を感じたよ。
船に乗せた人たちを私たちが活動していたトラビンへ連れて帰った後、私たちは彼らにCレーションの缶詰を与えた。 彼らは感謝祭の夕食のように喜んでいたよ。
船の上では笑顔しか見えませんでした。本当に素晴らしい経験をしました。
あなたを愛しています。

ジョン より”

数日後、スコット・リヨンと女性二人が南ベトナムの大統領から勲章を受けることになったとの連絡があった。第二分隊は銀星章、リヨンは海軍十字章を受章することになった。
後に判明したのは、女性達とスコットはARVN軍の司令官から勲章を授与されたということで、米政府の政治サイドの指示で米海軍がリヨンにはブロンズスター、分隊のメンバーには海軍表彰メダルに格下げされたたと聞いている。
任務中にサイゴンを離れることのなかった事務員のような兵士が、タイピングやファイリングの能力を評価されて銅星をもらったという話を聞いたことがあるが、このような形でリヨンと第二分隊の隊員を表彰することは、米海軍の最高の伝統に沿ったものであったと、今でも私は信じています。

我々のチームメイトは26人の捕虜を解放したが、シールズ、PRU、PBRの水兵、航空隊員、捕虜に死傷者はなかった。
敵の方では、2名が戦死し、2名が捕虜となった。VCの徴税人1名とその蓄えていた現金を無傷で奪い取り、敵の主要基地は完全に破壊された。
個人的には、チームメイトのプロフェッショナリズムと根性は、最終的に認められた以上の価値があると感じた。
ここで、次のSEALsの戦闘員の勇気と英雄主義についての本当の話が知られるようになる時です。
完璧な作戦を計画し実行したスコット・R・リヨン
ポイントマン ジョン・ウォー
ストナーマシンガン射手 ラリー・ハバード
無選手 ストーナーマシンガン射手 ドナルド・クロフォード
M60機関銃手 デビッド・"バッド "ガードナー
ストナーマシンガン射手 レナード・ホルスター
副隊長 ストナーマシンガン射手 ハーレン・ファンクハウザー
もしこの 1968 年の捕虜奪還任務が1970 年以降に実施されていたら、それは「ブライトライト」作戦と呼ばれていただろうし、授与される勲章は重要性やメリットが減るのではなく、むしろアップグレードされていた可能性が高い。
捕虜の奪還は成功したものもあれば、そうでないものもあった。
1970年11月22日、陸軍グリーンベレーの大部隊が北ベトナムの奥深くにあるソンタイ収容所を攻撃した。囚人たちは救出されなかったが、多くの中国軍顧問たちは襲撃部隊によって殺されたが、味方の犠牲者は出なかった。同じ夜にNAVY SEALsのディック・カウチはデルタの捕虜収容所に対する襲撃で彼の小隊を率いて、19人の捕虜を解放することに成功した。この襲撃は、NAVY SEALsによって解放された南ベトナム軍の捕虜の数を48人に上げた。
これで世界は、最初の26人の捕虜を解放した人物とその名前を知る事となった。スコット・リヨンと6人のNAVY SEALsの功績です。
よくやった仲間たち!

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40mmグレネードランチャーとSEAL

久しぶりにミリタリー記事を書きます。
高名なSEAL研究家である、Kevin Dockery氏が書かれた、ベトナム戦争時におけるSEALチームと40mmグレネードランチャーの翻訳となります。

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1965年SEALチーム1では、翌年初頭に予定されていたベトナムへの展開に備えて、SEAL小隊の武装用としてM79グレネードランチャーの導入を開始した。
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M79はチームで好評を博し、瞬く間に主要な火力源となった。

M79で使用された主な弾薬は M406HE弾であった。
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40mm弾は大きくて重い弾丸が空中を飛び交うのを射手が容易に見ることができた。その弾薬の大きさと弾速の低さから、ふらふらと宙を舞っているように見えてしまった。
この新兵器を正確に取り扱うようになるには、訓練が必要だった。SEALsは配備前の訓練で、このの武器を使って広範囲に練習した。
弧を描くような高い弾道で一見弾が遅く飛ぶように見えても、擲弾兵はすぐに40mmグレネードが驚くほど正確であることを学んだ。

M79擲弾兵は経験を積むことでスキルを身につけることができるが、SEALチームはベトナムへ派遣される前から、戦場での経験の一部を学んでいた。
演習の一環としてSEALは、M79を使って何時間も射撃練習をした。
熟練したM79擲弾兵は、敵に向けて構え銃身の角度を調整しただけで、150メートル離れた標的にグレネード弾を命中させる事ができた。
この種の射撃は素早く本能的におこなわれ、M79のかなり複雑な後部照準器を全く使用していないと考えられていた。M79の精度は照準器を使用して慎重に狙いを定めた場合、優れた射手は150メートル先のゴミ箱にグレネード弾を一貫して落とすことが可能だったのだ。

M79の高い精度と有効性を阻むのは、M79が単発の武器であるという事実である。
グレネード弾の最小射程距離(発射された後信管が爆発状態になるまでの距離)は15mであり、グレネード弾の爆発半径と相まって敵との顔を突き合わせての接近戦で使用された場合には、大変危険なものとなっていた。

このような場合、SEAL隊員はM79を躊躇なく発射した。40mmグレネードが爆発しない状態で標的に命中しても、非常に大きな弾丸がとして敵の体へ作用する。不発弾の40mmグレネードが命中して死んだ敵兵は後に爆発物処理の問題になるかもしれない。SEALはこの事例を報告した後も、同様の使い方をした。

SEALが小隊をベトナムに派遣する前に海兵隊や陸軍の部隊は東南アジアで戦闘を経験しており、近接戦闘自におけるM79の欠点を報告していた。
M79用の新型弾が開発され、戦闘テストのためにベトナムに送られた。
M79用の近接戦闘用弾の最初のものは、プラスチック製のサボー(アダプター)の中に45個のフィン付き鋼製のフレシェット(矢)を装填したフレシェット弾であった。10粒のフレシェットは、頭部にフィンが付いた鋭い仕上げ釘のような形をしており、M79の銃口から発射された直後に効果を発揮した。
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発射されると弾丸が銃口を離れた後すぐに、フレシェットの束を保持しているプラスチック製のサボーが壊れてしまい、フレシェット自体が拡大したパターンに広がって飛翔する。
しかしベトナムで使用された多くの小火器のフレシェット弾と同様に、小さなフィン付きの矢は銃口から発射された直後から安定しておらず、通常空中を約15~30メートルまでは真っ直ぐに真っ直ぐに飛んでぶ事は無かった。近距離では半分ものフレシェット弾が横や後ろ向きにターゲットに命中してしまい、弾薬の有効性を著しく制限していた。

1965年から66年の間にM79用に2種類のバックスショット弾が開発され、フレシェット弾の代わりに使用された。XM576E1とXM576E2は共に#4(0.24インチ)強化バックスショットを装填したものである。
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この2つのカートリッジは、バックショットを収納するプラスチック製のサボーが異なっていた。これらの弾丸はSEALの最初の展開の間にベトナムに到着し始めたが、広く利用できるものではなかった。

上層部は、M79用の新しい弾は射程距離が短すぎて効果がないのではないかと考えていた。
作戦中のSEALはそのような意見を持たず、新しい弾薬を高く評価していた。
XM576E1対人弾は、後にM576複数発射弾として設計されたE2タイプほどの効果はなかったが、どちらの弾もM79を非常に大型のショットガンに変えてしまった。
SEALの間で散弾銃が人気を博した理由の一つは、バックスショットの装弾が、特に至近距離での制止力に優れていたからである。フレシェット弾の小型の矢は致命的ではあるが、エネルギーを効率的にターゲットに伝達することができず、バックスショットのようなノックダウンパワーを持つことはなかった。

新開発の複数発射弾により、M79は至近距離でも効果を発揮するようになった。
しかし基本的にM79は依然として単発式であった。
M79が一旦弾を発射すると、擲弾兵はリロードするまで無防備となってしまう。SEALの突発的な戦闘環境では、このような状況は武器が空になったことで隊員が殺されてしまうことにもつながりかねない。
M79 の装填を高速化する方法がないためSEALチームの擲弾兵は、複数の武器を携行するようになった。アメリカ陸軍と海兵隊では擲弾兵は通常M79に加えてM1911A1ピストルで武装していたが、SEALはそれより強い武器を好んでいた。

SEALが作戦へ出動するとき、携行する弾薬の数は常に多かった。隊員が大男であればあるほど、より多くの弾薬を携行することができる。
40mmグレネード弾自体はかなり大きく携行する弾数は少ないかもしれないが、グレネード弾一発の重さは約1/2ポンド(約220g)であった。任務によってチームの擲弾兵は、追加装備と一緒に非常に重い40mmグレネード弾を携行するかもしれない。

新しいタイプの弾薬の開発は、一般的にM79の有用性を高めるための主要な手段であると考えられていた。ベトナム戦争中、文字通り何十種類もの新しい弾が実験された。
XM576E2のようないくつかの弾薬は最終的に採用までされたが、他の弾薬は戦闘に使われる事もなくテストのために少数しか生産されなかった。
SEALチームがベトナムへ派遣された当初から、戦地から新しいタイプの40mm弾薬がリクエストされ可能な限り手配がされた。

-シールズ第二チーム第二小隊のベトナム作戦 1967年1月30日から5月30日までの抜粋

武器と装備


6. もしM-79にフレア弾とキャニスター弾が用意されていれば、その汎用性は飛躍的に高まるだろう。

7. 7. Mk8の非常に優れたピストル弾をM-79から発射することができる。

*40mmカートリッジへピストル弾を詰めるビーハイブ弾という物が存在しますが、どうしても資料を探す事ができませんでした。後日見つかりましたら更新いたします。

M79の最大の欠点は、やはり単発の銃であるという事実であった。
このことは、設計が最初に検討された1950年代半ばに懸念されていた。40mm弾薬の比較的低い反動と低い発射圧力の組み合わせは、単発問題を解決するための別のアプローチを可能にした。

1964年9月、カール・ルイスとロバート・E・ロイは、コルト社のために設計したグレネードランチャーのアタッチメントの特許を申請した。
1966年10月までに特許が認められたが、コルトは1965年からすでにCAR-15兵器システムの一部であるCGL-4(コルト・グレネード・ランチャー)として新兵器を販売していた。
CGL-4はAR-15(M16E1)の銃身の下に取り付けられ、ライフルとは独立して動作することができる。CGL-4は独自の制御装置と照準装置を持ち、ライフルをサポートとしてのみに使いライフルストックをグレネード弾発射用の銃床として使用する。
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CGL-4をライフルに取り付けるには標準のハンドガードを取り外し、CGL-4を銃身に固定する。
射手を保護するために新しいハンドガードをライフルの銃身に取り付けてグレネードランチャーを使用できるようになる。十分な銃身の長さがある限り、CGL-4は短いCAR-15を含むAR-15/M16ライフルのいずれにも装着可能だ。

CGL-4の下にある小さなピストルグリップは、射手がロックを解除して40mmバレルを前方にスライドさせる事ができ、チャンバー内にある発射された薬莢を自動的に抽出および排出することができた。
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装填したグレネード弾を銃身に滑り込ませ、ピストルグリップを使って銃身を閉じてロックするだけで、CGL-4を装填することができる。
CGL-4レシーバーの後部にある大きなノブを指で引き戻して武器をコックさせる。トリガーバーは支持するライフルフレームの右側の下へ伸び、トリガーガードのすぐ前で終わった。トリガーの端を伸ばし、所定の位置でそれを回転させると、CGL-4のトリガーはちょうど取り付けたライフルのトリガーの下に置かれる。デュアルトリガーは、オペレータが適切なトリガーに指を動かすだけで、M16またはCGL-4のいずれかを発射することができた。

アメリカ陸軍は、CGL-4がM79の欠点への答えとして考えた。
CGL-4は1966年11月にXM148として限定生産された。
ベトナムの米陸軍部隊と海軍特殊部隊の両方が、1967年初頭にこの新型ランチャーを受領した。これで初めて、ポイントターゲット効果(ライフル)とエリアターゲット効果(グレネードランチャー)の両方を持つ兵器が登場したのである。このコンセプトは新しいものであり、現場の兵士の反応は慎重であった。だがSEALにとっては、求めていた兵器であり熱狂的に受け入れられた。

XM148は好評であったが、SEALはこの兵器の欠点に目をつぶっていたわけではない。
XM148は単純なM79よりもはるかに壊れやすく、故障しやすい部品も多かった。ライフルロアーフレームの右側に伸びるXM148のトリガーバーにはガードが無かった。トリガーバーとライフルのレシーバーの間にブラシや器具、あるいは指が入ると、トリガーバーが押し出されてXM148が詰まってしまい、コッキングができなくなってしまう。さらに、武器がコックされていて安全装置がオフの状態であれば、むき出しのトリガーバーが匍匐中に何かの障害に引っかかってXM148が発射される可能性があった。
このような欠点があったために、XM148 は装填した状態で携帯できるが使用直前まではコックしてはならないとの勧告が出されたのである。

XM148 に関する陸軍の最終報告書は 1967年5月に書かれた。多くの陸軍兵士がXM148を気に入っていたが、この兵器は一般的に脆弱で安全ではないことが判明した。この報告書では「現在のXM-148の構造では、ベトナムでの更なる作戦使用には満足できない」と結論付けている。勧告でXM148は他の設計が利用可能になるまで使用から除外されることになっていた。
1967 年秋までに、陸軍が保有するXM148 はすべて返却された。SEALはこの兵器の有効性が構造的欠陥を相殺していることを見出し、ベトナムでの派遣の終わりまでそれを運用した。

XM148はそのアクションにいくつかの変わった点があり、それが多くの隊員に発見され使用されていた。
XM148のシアーレバーはレシーバーの後部で武器に露出していた。陸軍とSEAL隊員は、右手でM16のピストルグリップから手を離さずに、左手の親指でシアーレバーの上部を押すことで、コックされたランチャーを発射できることを発見した。
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公式には推奨されていないが射手はライフルの引き金に片方の指をかけ、もう片方の手の親指をグレネードランチャーのシアーバーにかけて、深い藪の中を移動することができることを発見した。どちらの武器も手を変えずにすぐに発射することが可能となる。

チームはXM148を気に入っていたが、グレネードランチャーシステムの火力を上げることを望んでいた。SEAL Team 1は、Springfield Armoryが生産したT148E1連装式グレネードランチャーの少なくとも1つをベトナム戦争初期の早い段階で採用できるかを調査していたのだ。


-シールズ・チーム・ワン 指揮統制の歴史 1967年

...... 完了した特別調達業務の一覧は以下の通りです。
[第9号] 40mmグレネードランチャー T148[E]1

SEALチーム1が検証したT148E1ランチャーが、ベトナムで実戦テストされたことは報告されていない。
半自動式グレネードランチャーの問題に対する興味深いアプローチではあるが、T148E1の動作部分はあまりにも開放的で、ベトナムのジャングルや泥の環境で十分に動作するには汚れに弱いものであった。
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スライド式のハーモニカマガジンにはいくつかの開口部があり、ジャングルの中を移動する時に汚れやゴミを拾ってしまった。
マガジンをスライドさせる操作も、コイル式の駆動バネへ汚れやゴミが付着し簡単に作動を停止させてしまう。
発射されるグレネード弾の初速が一発一発にばらつきがあり、その違いによる精度の問題は完全に修正されず、T148E1の武器ごとだけでなく、同じランチャー内のマガジンごとにばらつきがあった。

SEAL部隊とUDTを含む海軍特殊戦グループ(太平洋と大西洋)は、武器と装備の分野で独特の問題を持つと、海軍司令部によって認識されていた。カリフォルニア州チャイナレイクの海軍兵器センター特別作戦部は、SEALとUDTの装備ニーズに迅速に対応できるように組織されていた。チームが必要とする非標準の兵器やハードウェアは、チャイナレイクが購入し、必要に応じて改造しできるだけ早く部隊へ届けられた。
「既製の」の必要なアイテムが入手できない場合、チャイナレイクは必要なアイテムを設計開発し、限定生産が行われた。
ベトナム戦争中の三年間の活動でチャイナレイクは、チームのために約375点のアイテムを迅速に投入したのだ。

チャイナレイクは 40mm グレネードランチャーの火力増強の問題に目を向けた。チャイナレイクのエンジニアは、民間のスポーツショットガンのポンプアクションの原理を応用して、直接的なアプローチでこの問題に取り組みはじめた。
工作室での試作品の生産は迅速に完了し、テストと審査の準備が整った。一般的な設計は受け入れられ、チャイナレイクの施設で少量生産された。
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ポンプアクション・グレネードランチャーの開発は非常に急速で、最初の兵器の製造よりも工作室の銃から製造図面を作成するのに時間がかかったと報告されている。

チャイナレイクのポンプアクション・グレネードランチャーは、非常に大型の短銃身の散弾銃に似ており、M79と同じ射程距離と精度を維持していた。
このポンプアクション・グレネードランチャーは、チャイナレイクの海軍特殊戦プロジェクトの一環として生産された最も重要な小火器の一つと考えられており、1968年半ばまでにベトナムでの戦闘のためにSEALチームに支給される準備ができていた。

-シールズチーム1 司令部と管制官の歴史 1968年

(a)兵器システムの性能

40mmグレネードポンプ兵器の優秀さが証明され、ベトナムではシールズの分遣隊で使用されている...。

かなり大型の武器ではあるが、40mmポンプ式グレネードランチャーはチーム内の一部の隊員から非常に高い評価を得ていた。
チャイナレイクのポンプアクション・グレネード・ランチャーの実際の製造数は確認が困難である。ベトナム戦争中にシールズが手にした武器は20~30丁で、海兵隊の偵察部隊や陸軍第5特殊部隊には1~2丁しかなかった。シリアルナンバー「50」のレシーバーが発見されたが、分解された状態で発見され完全な兵器として組み立てられたことはなかったかもしれない。
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1968年に撮影された、パトロールへ向かうSEALチームを映した一枚。左下の隊員の装備に注意

ポンプアクション式グレネードランチャーは、肩づけして発射される40mmランチャーのデザインの中で最も成功したものの一つであったが、チャイナレイクから出てきたのはそれだけではなかった。
1966 年から1967年にかけて、NWC チャイナレイクは 3 バレル 40mm グレネードランチャーの試作品をいくつか設計・製造した。
M79 のような専用のマルチショット・グレネードランチャーを開発する代わりに、チャイナレイクは XM148 のように M16 の下に取り付けられるような、より小型の設計を採用した。40mmランチャーの機関部のサイズを最小化するために、各弾にはそれぞれの銃身が与えられた。

ダブルアクション発射機構は、M16のトリガーガードの下にスライドマウントで収まるトリガーを備えている。トリガーバーはXM148と同様にM16レシーバーの右側に伸びているが、しっかりとしたマウントになっているため、XM148のようにゴミでバーを詰まらせることはほとんど無い。
かなり複雑な発射機構は、コッキングを行いハンマーを次のバレルまで円運動で前進させ、トリガーを一回引くとグレネードを発射します。これにより、オペレーターは引き金を引くのと同じくらいの速さで3つのグレネードを発射することができる。
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CAR-15の下に収まるように3連装砲身をコンパクトにするため、砲身の長さはわずか6インチ。短い銃身は、発射されたグレネードが十分な速度とスピンを拾い、飛行中に武装して安定させるのに十分な長さである。
しかし、短い銃身は3連装砲身の有効射程をM79のそれより少なくとも15%減少させた。
後部には大型のハウジングが取り付けられ発射装置を保護し、パッケージ全体の幅は約4.25インチになっていた。
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3連装40mmランチャーの試作品のうち少なくとも1つは海兵隊に送られ、ベトナムでの偵察部隊のテストのために使用された。
他のすべての試作は、フィールドテストのためにSEALチームに送られた。SEALチーム1の1人の擲弾兵は、戦闘状況下でのテストと評価のために3バレルランチャーを搭載したM16を携行した。
隊員がこの武器を携行した作戦は1968年4月13日に行われ、この武器を携行した唯一の作戦であった。
結局この兵器は重く、ライフルのバランスが悪く、単純に機能しなかったと隊員は報告している。

3連装砲身の複雑な発射機構は、ベトナムの環境の汚れや泥に耐えられなかった。
引き金を引いても弾が発射されない確率が高く、3連装砲身の大きく開いた銃口はジャングルの中を這うときに入ってしまうゴミを取り除くのが非常に困難であった。この武器はチームには採用されず、試作品はごくわずかしか作られなかった。

コルトやチャイナレイクのアンダーバレルグレネードランチャーのアタッチメントが失敗したからといって、ライフルのポイントターゲット効果と40mmグレネードランチャーのエリアターゲット効果を組み合わせるアイデアがなくなるわけではなかった。
アメリカ陸軍は、アンダーバレルグレネードランチャーの設計に興味を持っているという情報を銃器業界に出した。1967年7月18日に行われた会議へ17の企業が参加し、うち7社から、このプロジェクトへの関心が高いとの報告があった。

AAI(Aircraft Armaments Inc.)は、SPIW(Special Purpose Individual Weapon)プログラムの一環として、多数のアンダーバレルグレネードランチャーを開発してきた経験を持っていた。
AAI は既に 1967年 7月に新型グレネードランチャーのモックアップの段階までアイデアを持っていたが、陸軍はAAI社では予想生産スケジュールを満たすことが不可能と感じていた。
9月までに、AAI、フィルコ・フォードの航空中性子部門、エアロ・ジェット・ジェネラルの3社は、陸軍の新しいグレネード・ランチャー・アタッチメント開発 (GLAD) プログラムの一環として、グレネード・ランチャーの開発契約を獲得した。

エアロジェットが設計した遅延ブローバック式グレネードランチャーは、陸軍によって辞退され競争から除外された。
1968年5月1日、フィルコフォードとAAIの設計が各20基ずつ試験用に設定され、AAIの設計は1968年8月2日に更なる開発のための契約を与えられた。同年11月初旬までに、AAIの設計は正式にXM203 40mmグレネードランチャーとして確認された。

AAIが設計の指定を受けたほぼ直後に、XM203 グレネードランチャー 500丁の契約が結ばれた。
12 月までにXM203 ランチャー自体は米陸軍によって完成したとみなされたが、照準器の設計の選択にはさらなる作業が必要であった。
この作業はすぐに完了し、AAIによって最初の600丁の XM203の組み立てが完了した。
1969年4月には、3 ヶ月間の戦闘評価のために、500丁のXM203グレネードランチャーが東南アジアの陸軍部隊に送られた。

XM203 グレネードランチャーは、M16 ライフルの銃身の下に取り付けることを目的とした単発、手動操作のポンプ式グレネードランチャーである。
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XM203 の銃身は標準的な M16 のフロントサイト・アセンブリーからあまりはみ出していないため、同じ武器の CAR-15/XM177 バージョンの銃身の下に取り付けることができる。
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M16のハンドガードには跳ね上げ式のラダータイプのリーフサイトが取り付けられており、通常のライフルのフロントサイトでグレネードランチャーを狙うことができるようになっている。また、マウントウェポンのキャリングハンドルには、グレネードランチャーをより正確に長距離で使用するための複雑なクワドラントサイトが装着されている。

XM203を装填するには、武器の左側の銃身の上にあるロック解除レバーを親指で押し込み、銃身を前方にスライドさせる。
空のカートリッジ・ケースは自動的に排出され、射手は標準的な40mmグレネードのいずれかの1発を装填することができる。バレルを引くとブリーチがロックされ、グレネードランチャーの装填が完了する。
XM203 にはピストル・グリップがなく、オペレーターは発射用の手で M16 のマガジンを掴み、マガジン・ウェルのすぐ前でグレネード・ランチャーの引き金を引く。

M203の安全装置は、オンにすると引き金の前に伸びる湾曲した金属製のフラップである。
射手は発射準備ができているときに、引き金を引く指で安全装置を簡単に前方に移動させることができる。
M203の欠点としては、取り付けられたM16のマガジン・ウェルの前でロックする金属製のトリガーガードが、組み立て中に過度に滑り上がってランチャーのトリガーを塞いでしまい、発射できなくなることがある。これは些細で一般的なエラーであり、射手がすぐに修正することができた。

XM203は使用したすべての部隊から好評を博した。
AAIはXM203の生産量を製造することができず、コルトは全軍に導入されたM203グレネードランチャーの生産契約を受けた。
1986年までに、コルトは25万丁以上のM203グレネードランチャーを製造した。
SEALは 1970年までにM203グレネード・ランチャーの受領を開始し、今日までこの兵器を使用し続けている。
ベトナムへの派遣が終了した後、XM148グレネードランチャーの使用は段階的に取りやめとなり、M203に置き換えられた。
M203は通常XM177E2の銃身の下に取り付けられていたが、現在では M4A1カービンに置き換えられている。

-シールズチーム2の指揮統制の歴史 1970年

1. (U) この年、SEAL Team 2は、M16ライフル用の新しいXM203グレネードランチャーアタッチメントを10個受け取った。XM203 は XM148 に取って代わるものである。

今日のいくつかの戦闘状況では16人編成のSEAL小隊全体、狙撃兵や機関銃手以外の兵士がM4/M203グレネードランチャーで武装されている。この兵器の柔軟性はその火力と相まって、ベトナム戦争で最も成功した兵器開発の一つとなった。

その優れた精度のために、M79は今日でもSEALで使用されている。
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M79 は主にM203 ランチャーを使用できない他の武装をしているSEALが、バックアップとして使用するために重用されている。

SEALとストーナーマシンガン

アホカリが終わり次の更新はどうしようかと思っておりましたが、面白い記事を見つけたので久しぶりに翻訳してみました。
案外と知っているようで知られていない、ベトナム戦争中のSEALチームのトレードマークとなった武器のお話です。
相変わらず戸田〇津子クオリティの翻訳ですので、間違った所がありましたらこっそり指摘してくださいw

9月5日追記
自分のSEALの師匠でもあり、相互リンクをしているDJ Vietnam様とこの翻訳ネタでまさかのネタかぶりをしているのが判明しました(笑)
そしてDJ Vietnam様の翻訳した資料と、新たに書かれた話を使わせていただく許可をもらいました。
この場をお借りして御礼申し上げます。

Pan American Airways
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ベトナム戦争を劇的に切り取った一枚の写真。
作戦行動中のSEALを撮影したものだが、彼が右手に持っているマシンガンはSEALチームに様々な伝説を与えた。
今回はSEALとストーナーマシンガンについての話です。

米軍ベトナム戦争へ直接関与が始まてすぐに、米海軍SEALsは新しい兵器システムを使えるようになった。そしてこの新しい武器は、60年代後半から1970年代前半にかけて、チームのトレードマークとなった。

ベトナム戦争当時の海軍特殊部隊と密接に結びついた兵器としては、ストーナーマシンガン以上の物は無い。
チームの隊員にとって、この武器は賞賛されるか、中傷されるか、愛されるか、嫌われるかのいずれかであり、中間的な評価はほぼなかった。

ストーナー63システムは華々しく登場したにもかかわらず、最初は海軍特殊部隊の兵士に使われる事はなかった。その代わり、米海兵隊は1966年にストーナーを実戦でテストしていた。海兵隊はストーナーをテストして修正し、良好な評価を得られたがすぐに使用できないと報告された。

1963年4月 海兵隊にデモンストレーション
1964年4月 空軍がストーナーシステムをテスト
1964年3月30日 ARPA(国防高等研究計画局)がキャデラックゲージ社へ発注したものを海兵隊がテストを行う。

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ストーナー63ウエポンシステムは、軍事兵器の分野ではユニークなものであった。1つのレシーバーで、ショートカービンから固定式マシンガンまで、さまざまな兵器を組み立てることができる。
カービン銃またはライフル銃としてセットアップされた場合、ストーナーのガスシステムは銃身の上にあり、閉鎖されたボルトから弾丸を発射する。ベルトまたはマガジンで供給されるマシンガンとしてセットアップされると、ストーナーのガスシステムはバレルの下に伸び、ボルトが開いた状態から弾丸が発射される。
この配置は、ストーナーがライフルとしての携行武器として最も正確に発射することを可能にし(ボルトが閉鎖した状態 クローズドボルトという)、一方オープンボルトシステムは、空気がよりよく循環することを可能にし、支援武器におけるコックオフを防止する。

※コックオフとは、周りの熱によって装填された弾薬が爆発してしまう現象の事。クローズドボルト(閉鎖式)で発射する空冷式機関銃に特有である。


1967年初頭、SEALはベルト式軽機関銃として、ストーナー63に関心を持った。SEALグループはベトナムでのゲリラとの戦闘において新たな段階に入っていた。SEALチーム2は、1967年1月末にベトナムへ小隊を派遣し始めたばかりであった。
1967年1月17日、米海軍の試験センターはSEALの戦闘用にテストするために、ストーナー63軽機関銃8丁を発注した。
*海兵隊が実戦投入してから一年遅れで、SEALはストーナーを使用した

それから海軍にストーナーを納品してから1ヶ月もたたないうちに、ベトナムの戦地へ新型の武器が送られた。
1967年当時には限られた数の武器しか入手できなかったため、ストーナーは配備された各小隊に1丁しか支給されなかった。ストーナーは性能を維持するために定期的なメンテナンスを必要とすることで知られていたが、SEALには好評的に受け入れられた。

SEALチーム1-コマンド&コントロールの記録-1967

(b) 兵器システムの性能

ストーナーウエポンシステムは頻繁に誤作動を起こしたが、ガス作動部分に手を加えることで、ある程度の不具合は解消された。
ストーナーウエポンシステムは、適切なメンテナンスを施した時に快調に作動し、SEALチームの活動に最も効果的な自動武器であった。
武器自体は十分に軽いので、機関銃手は大量の弾薬を携行しても身軽に動くことができた。

チームに配備される新しい武器には多くの欠陥があった。
しかしストーナーマシンガンは、SEALが必要とする高い火力を持つ軽量武器として彼らが求めるものであった。
当時ストーナーに関して隊員が抱えていたもっと珍しい問題の1つは、使用する弾薬の不足だった。
ストーナーマシンガンはM16と同じ.223弾を使用するが、ストナーはメタルリンクに連結された弾薬を必要とした。
予め連結された弾薬の供給は限られていたが、ストーナーの横へ装着することができる150発装填されたプラスチック製弾薬箱に入れられ支給されたが、ストーナーの弾薬の大半は地元で供給されなければならなかった。

ストーナー用の特殊なS-63リンクは、何千ものリンクが入った小さな段ボール箱のドラムに梱包されていた。このリンクはM60機関銃で使用されていたM13リンクの非常に小型化されたものだが、ストーナー兵器システム専用のものだった。
使用済みのリンクやメタルリンクベルトを手入れしてポリシングするだけでなく、SEALのストーナー63にはまだ多数の問題があった。
これは、メーカーとこの問題について情報共有しなかったために、SEALはストーナーシステムをテストした海兵隊と同じように多くの問題を抱える事となった。

*海兵隊の行ったテスト結果でもメタルリンクに砂が付き給弾不良を起こす問題。
また蓋はあるがぶつかって転倒した場合、BOXマガジンから弾がこぼれて砂まみれになるなどの問題が発生した。
後に、ベトコンに鹵獲されたストーナーマシンガンが敵に利用されなかったのは、この特殊なS63リンクが手に入らなかったという事情があった。


新しい武器を運用している間に遭遇する小さなトラブルにもかかわらず、ストーナーはすぐにSEALの武器として確固たる地位を獲得した。ストーナーは他の兵器に比べて、より多くの洗浄と細かなメンテナンスを必要としており、システムから取り除かなければならない不具合がまだ残っていた。

SEALはストーナーを気に入っていたが、部隊へ大量に実戦配備される前にかなりの改良が必要だった。
最初のベトナムツアーの後、戦地から戻ってきたSEALチーム2第2小隊から、ジャングル戦におけるノウハウが小隊の士官と兵士によって列挙された。これらの勧告には、ストーナーを運用するにあたり非常に具体的なものが含まれていた。

1月30日から1967年5月30日までのベトナムでの作戦におけるSEALチーム2 第2小隊からの抜粋

武器・装備

8.ドラムマガジンが入手可能になるまでは、Stoner LMGの使用は推奨されない
*注釈 1967年1月30日~5月30日の間ではまだドラムマガジンは登場していない。

弾薬の補給に使われるプラスチックの箱は、戦地で使うにはあまりにも難しいと考えられていた。
マシンガンの片側にぶら下がっていた箱が隊員の膝ではじき飛ばされると、弾薬ベルトは箱から飛び出して泥の中へ落ちてしまった。
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これは海軍がSEAL部隊へストーナーを支給するよう命じた際に、考慮されたいくつかの勧告のうちの1つにすぎない。
1967年5月25日キャデラック・ゲージ社は、ストーナー36丁の追加の引き渡し期日を要求する電話を海軍兵器試験場から受けた。いずれも軽機関銃の63Aで、150発装填の円形ドラムマガジンを装備していた。
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ストーナー機関銃は1967年半ばまでにSEALの必需品となり、ベトナムへの事前配備訓練に数時間を費やして習熟しメンテナンスを行った。
各SEAL小隊には少なくとも2人の機関銃手がおり、各分隊に1人機関銃手が配属される事がより望ましいとされた。
この機関銃に強い感心を示したSEALは、ストーナーを運用することが許された。これらのSEALの機関銃手は、後にストナーマンと呼ばれた。
ストーナーマシンガンについては、SEALチーム1が主に開発にあたる部隊として武器は保全された。

シールチーム1-コマンド&コントロールの記録

1967 研究開発 (P13-14)

……完了した特別調達活動のリストは以下のとおり。

(#22)ストーナ63A
(#28)ストーナードラムマガジン
(#29)223ストーナ用装填器


ストーナー用の新しいドラムマガジンによって、行軍中の武器の信頼性が大幅に向上した。
弾薬ベルトがドラムマガジンへ固定され、マシンガンの中心に近いレシーバーの下にバランスよく取り付けられた。
1966年のキャデラックゲージ社による初期の実験では、小さな100連発のドラムマガジンが作られたが、このマガジンはすぐに実用的でないとして廃棄された。
最初のモデルのドラムマガジンは回転式アルミニウム製で、前方のフォアグリップと後方のトリガーグループのレシーバの底部に固定される二重ピン留めブラケットを有していた。

ダブルピンのドラムマガジンは安全だったが、完全に武器から外さないと再装填は非常に困難であった。
改良されたモデルのドラムマガジンは、ピンでフォアグリップの後方に固定され、そこで振り子のように自由に動く事ができた。ドラムマウントの後部には、トリガーグループの前部のマガジンキャッチの下に嵌合するラグがあった。
このモデルのドラムマガジンは弾倉を武器から完全に取り外す必要なく、再装填のためにラッチを外してスイングすることができた。

ドラムマガジンは機械的に非常にシンプルで、取り外し可能な蓋のついた丸い容器にすぎなかった。150発のベルトリンクを反時計回りの螺旋状に巻き付け、弾丸を前方に向けてドラムマガジンの後部に挿入する。
ベルトリンクの端をドラムマガジンの左側にあるガイドを上に滑り込ませる。その後、ドラムマガジンの背面がツイストラッチで所定の位置に固定され、ストーナーは使用できるようになる。

ドラムマガジンの左側にあるフィードガイドの上部の外側には、スタンピングされた金属カバーがヒンジで固定されていた。
このカバーは折り返すことができ、ベルトリンクを露出させる事ができた。
ゆるいメタルリンクベルトがドラムに滑り込むのを防ぐために、ドラムのフィードウェイの側面に壊れやすいスプリングクリップが付けられていた。
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SEALは多くの場合予備の弾薬ベルトを肩に掛け、『バンドラー』”メキシコ風の弾薬帯”のようにたすき掛けにして運んでいた。ベルトの上にTシャツを重ね着して泥や汚れからベルトを守り、光沢を防ぐこともあった。
隊員が待ち伏せ場所へ入ると、ストーナのドラム内のベルトがフィードトレイから取り出される。
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*バンドラーの上からSEALベストを羽織り、汚れの付着防止やカモフラージュを行う事はよく見られた。

ストーナーマンの『バンドラー』からメタルリンクベルトが外され、泥で汚れないように布か装備の上へ積み上げられ武器に装填される。
ストナーマンが攻撃のため出ていかなければならない場合、ドラムマガジンのベルトの端をフィールドトレイに残っているベルトへ交換するのは簡単にできた。

マガジンのリリースのラッチを外すと、空になったドラムマガジンは後ろのカバーから前方へ振り下ろすことができた。カバーラッチを回すとドラムの背面全体が外れる。
戦場でドラムマガジンを再装填するために、ストーナーマンはたすき掛けにしたバンドラーへ手を伸ばし、メタルリンクを指で捩じりリンクの接続を切る。

メタルリンクベルトの長さを150発以下にすることで、ドラムマガジンの再装填における次のステップが比較的容易になる。
SEAL隊員は外した弾薬のベルトを引き抜き、それを指で時計回りに巻きつけ、ドラムの後ろに滑り込ませる。
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メタルリンクベルトの端をフィードシュートへ送り、カバーを固定しドラムマガジンをマシンガンの所定の位置へスナップして戻すことにより、新しいベルトをレシーバーに装填することができる。
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他のSEAL隊員は、個人の好みに合わせて武器を改良した。
武器の信頼性を危険にさらすような変更は許されておらず、さもなければそれは個々の隊員の責任であった。
ストーナー63Aが2つのSEALチームに到着したとき、完全なストーナーウエポンシステムも付属して支給された。
SEALが主に使用したストーナーシステムの構成はベルト式軽機関銃であったが、少なくとも2つのSEAL隊が他のウエポンシステムを使用していた。

これらのSEAL隊はストーナーカービンを好んで使用した。
ストーナーカービンに付属しているマガジンだけが、30発分の銃弾を装填できた。
この大きなマガジンの容量は、それを知っていたSEAL隊員には大きなプラスになると考えられていた。当時の標準的なM16マガジン(1967年時)は20発しか装填できなかった。
より大きな容量である30連発のM16マガジンが入手可能ではあったが、1967年と1968年のSEAL隊ではM16用30連マガジンが非常に不足していた。
短くて便利なストーナー63Aカービンとその折り畳み式ストック、30連マガジンは、ベトナム戦争のSEALが使用した軽機関銃以外のストーナーウエポンシステムであった。


ストーナーシステムが、カービン銃やライフルとしてSEALに広く使用されなかった理由の1つは、海軍が購入した63Aレシーバー本体の数が限られていたことであった。
最終的に入手可能なすべてのストーナーシステムは、ベルト給弾式軽機関銃として使用された。
しかしいくつかの交換部品は、依然としてSEALによって使用されていた。
少なくともある隊員のストーナーは、彼のストーナー機関銃にビニールで覆われたカービン用の筒状鋼(ワイヤーストックタイプと呼ばれる)の折り畳みストックを取り付けた。折り畳み式のストックは武器の側面にきちんと折り畳めなかったが、非常にコンパクトで強力な火力を発揮した。
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ストーナーがSEALから良い評価を受けたにもかかわらず、設計には解決しなければならない多くの問題が残っていた。これらの詳細の大部分は、SEALの武器使用経験に基づいている。
またSEALはストーナーを過酷な環境で運用していたため、注意深くメンテナンスを行ってもその弱点は早く現れた。

SEALチーム2 コマンド&コントロールの記録

1968年

ストーナーマシンガンは、戦闘で武器を使用したSEALチーム2のメンバーから提出された提案により修正された。

キャデラック・ゲージ社は、ストーナー63Aの改修のためのSEALからの要求に迅速に対応した。現場からのフィードバックは、武器にいくつかの小さな変更をもたらした。
チームからのインプットにキャデラック・ゲージ社が対応する上での唯一の難点は、ストーナーシステムの部品が段階的に変更されていくことだった。
ストーナー63と63Aの違い、およびチームが要求した63Aの改修にあまり慣れていない人にとっては、正しいパーツが正しいモデルの銃へ確実に組み込むのは困難となってきた。

しかしベトナム戦争時には、このような部品の共通性の問題はSEALにとっては困難ではなかった。ストーナーを好んだ隊員は、自分たちの武器が正しく作動することを確認し、このようなテストは配備前訓練で常に行われた。これによりストーナーマシンガンが戦闘に入るずっと前に問題が修正された。

ストーナーに関する1つの問題は、レシーバーの基本設計に集中し、それを修正するために大きな変更を必要とした。
ストーナーの排莢口は軽機関銃でセットアップされたとき、マシンガンの左側にあった。フィードトレイからぶら下がっているプラスチック製のマガジンまたは150連発のドラムマガジンから給弾すると、「スピンバック」と呼ばれる弾詰まりが発生した。

発射時に排出されたカートリッジケースがマガジンボックスに衝突することもあれば、ドラムに衝突して跳ね返ってレシーバーに戻ることもある。
空のケースは前進するボルトをブロックしてしまい、それが排除されるまで武器が発射するのを止める。
この問題は常に発生するわけではなく、マシンガンが発射されたときにわずか1%から2%の確率で発生した。だがこのスピンバックの問題は深刻で、対応が必要とされた。

ストーナーの排莢口を移動することは、レシーバー本体と多数の内部部品の大規模な変更を必要とするので問題外であった。
その代わり、武器の左側から右側に向けて給弾の方向を変えた。
右側の給弾でフィードカバーとフィードトレイを交換したが、ドラムマガジンが使えなくなってしまった。
スピンバックの問題があったり時々起こる給弾不良のデメリットよりも、ドラムマガジンを使うメリットを重視するストーナーマンは左からの給弾にこだわった。他のストーナーマン達は、新しい右側からのフィード機構とメタルリンクベルトの新しい送り方を選択した。

SEALチーム1-コマンド&コントロールの記録

1969 6、研究開発

2. SEAL Team ONEは、Stoner Weaponの新型フィードシステムの提供を進めており、誤動作の主な原因の1つであるシェルスピンバックの危険性を実質的に排除しています。

c。5.56MMボール弾薬用リンクマシン-ストーナー63A武器システムで使用される5.56 MM弾薬用のポータブルリンクマシンを提供します。現在、1つのユニットがSEALチーム1に置かれています。

右側からの給弾機構と共に、100連発装填できるプラスチックボックスをストーナー63Aへ装填する新しい方法がとられた。
プラスチックボックスを納めるハンガーは、レシーバーの中心線の下、ドラムマガジンと同じ位置に取り付けられる装置であった。プラスチック製の弾薬箱をハンガーに取り付けるとそこへしっかりと固定され、ベルトリンクが武器に送り込まれる。
ボックスハンガーシステムには多くのバリエーションがあったが、その中から一つのデザインが採用された。

標準となったボックスハンガーは、レシーバーの下側へ100連発の弾薬箱を水平に保持する右手用のフィードシステムであった。
ベルトリンクがカバーされたトレイからフィードカバーに給弾された。銃が発射していないときにベルトが弾薬庫へ戻って滑り込まないように、バネ仕掛けのラッチがハンガーのフィードトレイの内側にあった。このラッチは、供弾機構の歪みを減らすのに役立った。

新しいスタイルのクイック着脱式マウントを使用して、標準的なボックスハンガーをレシーバーの受け手の下に固定した。
スプリング式プランジャを押してフロントラッチを解除し、フロントラッチがストック保持ピンに取り付ける。
クイックデタッチマウントの後部には、トリガーグループのフロントピンに適合する湾曲した突起があった。このボックスハンガーは右側のフィードトップカバーとフィードトレイでのみ機能する。しかし、他のシステムも試みられた。

チャイナレイク海軍武器センターとキャデラック・ゲージ社は、ストーナー用の最高のマガジンシステムを考案するために、さまざまなボックスマガジンとドラムマガジンを試作した。
左給弾のフィードボックスハンガーがいくつか作られたが、ドラムマガジンと同じスピンバックの問題が発生した。250個の円形ドラムマガジンがSEALの試験用にチャイナレイクで限定生産された。
しかし250連発のドラムマガジンを試したストーナーマンは、マガジンが大きすぎて武器のバランスを崩し、取り扱いが困難になっているのに気が付いた。
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*写真は、チャイナレイクで試作された250連ドラムマガジン

他のボックスハンガーは、プラスチック製150連発弾薬箱を保持するか、底が蝶番で固定された長いカバーの下に弾薬帯を固定するものがテストされた。これらのシステムのいずれも、右送りの100連発ベルトボックスハンガーに性能面で及ばなかった。
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*150連ボックスマガジン 明らかに通常のボックスマガジンより大きい

しかし、ベルトボックスハンガーでは、ストーナー63Aの装填に新たな問題が生じた。
ストーナー63Aの機関銃版のコッキングレバーは、以前の63モデルのレバーと同じ位置にあった。63Aではコッキングレバーが長くなっており、より安全に使用することができた。
しかしボックスマガジンのハンガーと右側からの給弾が、隊員がコッキングハンドルへ指をかけて装填するのを妨げた。ボックスハンガーのフィードトレイは、コッキングレバーの大部分をブロックするため、隊員は1本または2本の指でしかレバーを操作できなかった。

コッキングレバーの問題を解消するために、ストーナー63Aのカービン銃とライフル銃のパーツから解決策がとられた。
ストーナー63A機関銃のフォアロックは、ハンドガードの下部中央に6インチの幅の広い長さのスロットカットを施して改造された。カービン銃及びライフル銃型の突出したロッドコッキングレバーは、センタープランジャーを取り外すことによって修正され、ハンドガードの底部のスロットを通って嵌合するように、マシンガンのバレルの下に取り付けられた。

ストーナーマンはどちらの手を使ってもコッキングロッドを引き戻し、武器が搭載されているどちらの給弾システムでもマシンガンに簡単に装填することができる。一部のストーナーマンは、突出したコッキングロッドが少し短いことに気づいた。コッキングピースのロッド上に押し込まれた延長チューブはそれを数インチ延長し、コッキングロッドが小さすぎると思った隊員を満足させた。
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*ストーナーマシンガンのコッキングハンドル延長は、現地のストーナーマンの間ではよく行われていた改造であった

武器の大きさと重さはチームで常に考慮された。
SEALはその軽量さにもかかわらず、ストーナーを可能な限り小型化したいと考えていた。キャデラック・ゲージ社は1968年に、カービンバレルを出発点として、SEALのための短くて重い機関銃バレルを設計した。

この短い銃身はカービンバレルよりも重く直径も大きかったが、全長は同じだった。
短い銃身の重さを減らすために、フルート加工と呼ばれる外側を縦に切った6本の深い溝を彫った。フルート加工は重量をいくらか減らし、バレルの表面積を増やして、よりよく熱を放射し、より速く銃身を冷却できるようにした。

キャデラック・ゲージ社は1968年、この新型バレルを「コマンドウ」と称してSEALへの供給を開始した。
この短いバレルには、フロントサイト下にガスポートセレクターが装備されていたが、このセレクターには二つの設定しかなかった。
コマンドーバレルはSEALストーナー63Aに取り付けると、6.25インチの長さと約1.56ポンドの重量を取り除くことができた。

短いコマンドバレル、右手フィードトップカバー、および150連発円形ドラムマガジンを、以前から使用されていたストーナ63A『クラシック』セッティングとみ見なされるものに組み込まれた。
SEALの手にある63Aの大部分は、新しいコッキングシステムと新しい右送フィードシステムへ変更された。
短いコマンドウタイプのバレルは、ある使用環境ではストーナーを操作するのに困難があった。
バレルのわずかな部分、実際にはフラッシュハイダー部分しかないガスポートの前には、短いバレルが取り付けられたストーナーマシンガンを作動させるためのガス圧力が弱くなってしまう。
長い標準バレルは武器が発射されたとき、より長い時間より高いガス圧を維持する事ができた。この高いガス圧を使用して、銃の内部が汚れても発射サイクルを維持する事ができた。

しかし多くのSEALメンバーは新しいコマンドウバレルを選択し、そのストーナーマシンガンができる限り清潔に手入れされ油がきちんと潤滑されていることを確認した。
短いコマンドウモデルの利点は、狭い雑木林やジャングルの中で小型の武器をより小さく扱いやすくしたことであった。
あるSEAL隊員はストーナーからストックを取り外して紐をスリングの代わりに取り付け、近接戦闘用のさらにコンパクトな武器にしてしまった。
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短いコマンドウバレル、右手フィード、100連ボックス・ハンガーにより、SEALストーナーの最終バージョンを完成した。
この武器は、ほぼ2年間ストーナーを戦闘で使用していたSEALの経験から生れた。
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この最終形態でストーナーは、Mk23Mod0として海軍から命名権の割り当てを受けた。命名の最初の要求は1969年3月14日に提出され、1969年10月31日にMark番号が割り当てられ、1969年12月4日に最終承認された。割り当てリクエストに記載された武器の説明は次のとおりであった。;

銃 機械 5.56ミリ Mk23Mod0 ...。は、メタルリンクベルトを使用したガス作動5.56 MM自動武器で、ベルト送り、オープンボルト位置からの発射、クイックチェンジバレルを持ち、右ねじりライフリング(6溝)12インチで一回転、毎分700から1000発、銃口速度3256フィート/秒で発射する。最大有効距離は2895ヤード(2653メートル)で、最大有効距離は1203ヤード(1100メートル)。全長40.25インチ。装填されていない銃の重さは11.68ポンド。ミシガン州ローズビルのキャデラック・ゲージ社製。会社指定は5.56 M軽機関銃、ベルト式給弾ストーナー63A

命名法の割り当ては、右手か左手給弾のどちらかで、長銃身型ストーナーと短いコマンドウバレル型ストーナーの両方にあてはまる。
米海軍が購入したMk23Mod0はすべて、100連型のボックスハンガー付きショートバレルが装着された右手用の給弾バージョンだった。
Mk23は、キャデラック・ゲージ社がコマンドー機関銃として他の軍の顧客に提供した。

SEALストーナーの最終セッティングの正しい命名法は、この時点では難しい。Mk23Mod0Stonerは、ほとんどのキャデラック・ゲージ社の文献ではStoner63Aと呼ばれており、これはSEALチーム2が使用した呼称である。

ストーナーシリーズのレシーバーのマーキングは、会社の住所を除いて、製造期間全体を通じて大きな変化はなかった。すべてのキャデラックゲイジストナーには、シリアル番号の前へ223CAL STONER63とマークした。
SEALが要求し、全体としてMk23へ組み込まれたすべての改修は、武器に大きな変更をもたらしました。SEALチーム2と米海軍の両方の文書は、Mk23が商業的にストーナー63A1として知られていると述べている。

オランダのNWM(オランダ武器兵器製造)社は、ヨーロッパで販売するストーナーウェポンシステムの生産を認可した。オランダ製の武器はほんの一握りしか生産されておらず、伝えられるところによると、約60台の米国製のレシーバーが使われたという。
これらの兵器は、NWMが作成した1969年9月の小冊子に広告され、”Stoner63A1Weapons Modifications”と題された。この冊子に記載されているマシンガンの構成は、XM207と特定されており、NWM設計のバイポッドとマウント、および長いバレルを除いて、Mk23と同じであった。

SEALが使用したストーナーとして最も多かったのは、1969年と1970年に海軍が購入したMk23/63A1のであった。

SEALチーム2コマンド&コントロールの記録

1969年

4.(U) 本年度、チームは12丁の新しいストーナー63A1軽機関銃を受領した。それは要求された作戦割当量の半分に過ぎないが、各小隊に戦場でより大きな火力を与えるのに役立つだろう。

SEALチーム2 コマンド&コントロールの記録

1970年

3.(U) 12の新しいストーナー63A1軽機関銃が受領された。配備された各小隊は、部隊ごとにこれらの武器を2つ持っている。

入手可能な資料によると、海軍がSEALのために購入したストーナーの数は、ストーナー63が8丁、ストーナー63Aが36丁、ストーナー63A1が48丁と推定されている(Mk23として)。ストーナーのその他のレシーバーとシステムは、保管されていた海兵隊の武器庫の在庫からチームに移された可能性がある。

Mk23マシンガンが最終的に承認されたため、在庫にあったストーナー63の部品や初期の武器に合うアクセサリーは、それ以上購入されなかった。
このことはそのセッティングを好むSEALにとって、ドラムマガジンを見つけるのが次第に難しくなっていったことを意味している。
ドラムマガジンは単純で部品も少ないが、リアカバーをツイストラッチで固定する部分が摩耗していた。その結果、作戦へ出かける前にドラムマガジンの蓋をテープで止める方法が取られた。このため、現場でのドラムマガジンへの再装填が非常に困難となった。

現場での解決策として、多くのSEALがストーナー用のマウントを改造し、ソ連のRPD機関銃から弾薬ドラムを流用するようにした。
ソ連のRPDは、7.62×39mm弾の100連メタルリンクベルトを収容するために、プレス加工されたスチールドラムを使用した。これらのドラムマガジンは通常軍需品倉庫に保管されており、いくつかの数量がSEALに提供されていた。

RPDドラムマガジンは、ストーナー弾薬の150発のメタルリンクベルトを容易に収納し、それをマシンガンへスムーズに供給する。マガジンの着脱可能な取付部は、2つのリベットを切断するだけで取り外せる。板金延長部を現地で製作し、2本のねじでマウントに固定した。
スクリーン・ウィンドウなどで使用するツイスト・ラッチを追加して、マウントを完了した。RPDドラムマウントはストーナの下に装着でき、右か左のどちらかのフィードトレイへ給弾するようにセットアップすることができる。加えて、空のRPDドラムマガジンを装填されたものと容易かつ迅速に交換して、武器を再装填する事ができた。
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ベトナム戦争を通じて、ストーナーはSEALの有用な兵器であることが示された。しかし、これにはコスト無しでは実現できなかった。ストーナーウエポンシステムに関する技術訓練は、武器に関する問題を最小限に抑えるために強化されていった。

SEALチーム2コマンド&コントロールの記録

1969年

一部の小隊メンバー……ストーナー63A1軽機関銃とM16A1ライフルの保守・使用について特別訓練を受けた。マシンガンの指示は、兵器の製造者であるキャデラックゲージ社によって管理された。

どのような新しい兵器システムでも、開発プロセスを経て設計上の誤りを見つけて取り除いていかねばならない。時にこれらのエラーは、兵士達にとっていくつかの困難な事象に過ぎないこともあった。

ストーナーのクイックディスコネクトバレルは、フィードカバーのすぐ前に押しボタン式ラッチで所定の位置に保持されていた。
ボルトを締めた状態でバレルを固定していたのは、バレル・ラッチだけだった。
もし掛け金が例えばパトロール中に藪を通って移動している時に、偶然に枝で押されていたならば引金が引かれるとすぐに、前方へ移動するボルトはメタルリンクベルトから装填されたカートリッジを発射するのと同時じくらいに、ストーナーから銃身が外れる可能性があった。

SEALsがストーナーについて持っていた一般的なアドバイスにもかかわらず、この武器にはいくつか重大な事件があった。
特にある事件では、海軍がその武器を完全に廃棄する結果となってしまった。
クリーニングのためにストーナーをフィールドストリップ(分解)するには、手順の1つとしてピストルグリップのすぐ上と後にあるテイクダウンピンを外さないといけない。
テイクダウンピンを引き抜くと、レシーバーはストックとトリガグループから上へ動かして外すことができる。これにより、ストーナのボルトおよび内部機構を引き出すことができる。

オープンボルトのストーナーマシンガンのボルトをコッキングしてシアーをかけ停止させる。このコッキングされた状態でレシーバーからピストルグリップが外れると、前方にボルトが前進する。
もしフィードトレイに弾丸があれば、マシンガンは発射されてしまう。フィードトレイにベルトリンクがある場合、ベルトがなくなるか、またはボルトが部分的に開いたマシンガンの後部から飛び出すまで制御不能状態となり発射する。
この状況に非常に近いことが、敵地へ潜入する際にSEALチーム1のSEAL小隊に起こった。

SEALチーム1のM小隊はベトナムのキエンホア州で活動しており、その少し前にランサット特別地区からメコン・デルタ方面へ移動した。
1968年4月29日、小隊はMk4パトロールボートに乗り潜入のために移動していた。潜入ポイントへの移動はトラブルが無かった。SEALグループはいつもの通り、ボートの中で休憩していた。
ベテランのSEAL隊員ウォルター・ポープは、150連のドラムマガジンが取り付けられたストーナー63Aで武装していた。
ストーナーを装甲を備えた上陸用舟艇の壁に立てかけ、パトロールボートは水路に沿って静かに移動していく。

何が起きたのかははっきりしなかったが、突然ポープのストーナーが激しく暴発し始め横倒しになった。目撃者によると事件が始まったとき、ポープは武器に触れていなかったが、ストーナーが制御不能になるほど弾を撃ちだしていた。

近くで横になっていたフランク・トムズは、事故が起きたときは寝りこけていた。彼は暴発したストーナーから、推定6発から10発の弾丸で打たれ目を覚ました。
ウォルター・ポープは、暴走し火を吐き続けるストーナーに飛びかかり、発砲を止めてボートにいるチームメートを守るために自分の体で覆いかぶさった。ポープは暴走するストーナーが吐き出した推定40発もの弾丸を体で止め、パトロールボートの中で跳ね回る跳弾で他の誰かが撃たれるのを阻止したのだ。
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*WALTER G POPE ブロンズスターを授与された歴戦の兵士だった

一等兵曹ウォルター・ポープは即死したが、彼の勇敢な行動は仲間のSEALメンバーを救った。
後にフランク・トムズは傷から回復した。
その後の徹底した調査で原因ははっきり分からず、事故が起こった最も可能性の高い要因しか特定できなかった。
当時のストーナーのトリガーグループのテイクダウンピンは、それ自体の摩擦とピンに付属した小さなバネ止めによって保持されていた。船のエンジンからの振動と水中での船体のピッチングが、ポープのストーナーからテイクダウンピンを動かしてしまったと考えられている。

座った状態で銃口を上へ向け置いていたが、重力とコッキングされたマシンガンのバネの張力が組み合わさってレシーバーの2つのパーツが外れてしまい、コッキングされたボルトが前進してしまった。この状況では、武器が詰まるか弾薬がなくなるまで発射を続けただろう。

フランク・トムズにとって、この日のポープの行動はチームメートを救ったものであり、与えられる最高の賞に値した。
SEALはキャデラックゲージ社とこの事件について、どのようにして起きたのか、再発を防ぐ方法について直接連絡を取った。

解決策としてフィードカバーをストーナーのレシーバーに保持するピボットピンは、保持された取り外しピンとは異なる方法で固定された。
ピボットピンは2つの部品で構成されており、互いにしっかりとネジ止めされていた。さらに、ピン本体の内側にあるバネ止めによって互いに保持されている。ピンを外すには弾丸の先で押して留め金を外し、ピンを外す前に2つの部品のネジを外す必要があった。

このピンはキャデラックゲージ社からすぐにチームに供給され、以前に使用されていたすべてのピンを置き換えるのに十分な量がベトナムへ送られた。新しいピンに交換したストーナーの分解組み立てには、今までより少し時間がかかるようになったが、レシーバーが外れる事による偶発的な暴発は二度と発生しなくなった。

ストーナーマシンガンは、ベトナムのSEALチームが使用した唯一の軽機関銃ではなかったが、最もユニークな武器の一つであった。
ストーナーの製造は1971年までにすべて中止され、キャデラック・ゲージ社は1973年にウエポンシステムの記録を閉鎖した。
ストーナーは1980年初頭までSEALの武器庫に残っていた。1983年までに、SEALの手に残っている最後の数丁のストーナーは、部品と武器を作動状態に維持するためのサポートの不足により、現役任務から外された。

Small Arms Review
THE SEALS AND THE STONER
By Kevin Dockery



ベトナムSEAL 手榴弾携行方法について

本日のお題ですが、ベトナム戦時のSEALがどのように手榴弾を携行したかについて書いてみようと思います。

通常歩兵は手榴弾を2個携行します。
1966年、SEALチーム1がベトナムのメコンデルタ地帯へ正式に派遣され、泥の中で共産勢力と戦い経験を積んでいきます。
その後、アメリカ本土からSEALチーム2の部隊がベトナムへ増派され、戦線は拡大していきます。
そこでSEALチーム2の隊員は、先遣として戦ったチーム1の隊員から訓練を受け様々な事を学んでいきました。
これに関しては、この記事を参照してください。

1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その1
1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その2

作戦へ出る隊員は、攻撃型手榴弾を4個は携行すべきとあります。
手榴弾は手軽で強力な攻撃手段なので、多く持っていったのでしょう。
そこで、どのように手榴弾を持っていったのか。

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米軍のマガジンポーチの横には、手榴弾のレバーを差し込み保持するループが取り付けられています。
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LC-2マガジンポーチですと、手榴弾をしっかりと保持できるポケットが付いていますね。

それ以外に、手軽な携行方法としてサスペンダーやピストルベルトへ手榴弾のレバーを差し込むという方法があります。
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手榴弾自体重さが450gほどありますが、やはり激しい動きなどをしたら落としてしまう恐れがあります。
そこで、こんな事をします。
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用意するのは、太目の輪ゴム。
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手榴弾のレバー下部を少しだけ曲げて引っかかりを作ります。
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こうして輪ゴムをかけて脱落防止をします。

以前Cレーションのスプーンを使った脱落防止法を紹介しましたが
記述してある英語の誤訳
実際に行われたのが確認されておらず、この輪ゴムを使った方法が一般的だった
というご指摘を頂き、ここに訂正させていただきます。
ご指摘くださったDJ-Vietnam様には深く感謝致します。
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