買い物狂いの忘備録

40代の物欲にまみれたオッサンの忘備録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など忘備録的に書いてます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

NAVY SEALs関連記事のまとめ

昨年から、ベトナム戦争時代のシールチームの歴史や色々な考察を書いてきました。
今まで日本ではほとんど知られていなかった、NAVY SEALsの初期の歴史や作戦行動などを色々書けて、僕自身も大変勉強になりました。
ただその該当記事に行くのに、このブログのデザインだとえらく面倒だというのに気が付きましてw,改めてこの記事から各ページに飛べるようにしようかと思います。

インターネット見て人の装備マネする前に資料買えよ、という記事w

ベト戦SEALS入門


NAVY SEALsの創設~ベトナム戦争終結までの歴史

NAVY SEALs の歴史 序章
NAVY SEALs の歴史 1 誕生~ベトナム戦争への道
NAVY SEALs の歴史 2 戦火の中へ(1966~)
NAVY SEALs の歴史 3 転換点 テト攻勢(1968~)
NAVY SEALs の歴史 4 ベトナムからの撤退


1968年、テト攻勢下でのNAVY SEALs/UDTの作戦行動についてまとめたお話。

テト(1968) part1
テト(1968) part2
テト(1968) part3
テト(1968) part4
テト(1968) part5
テト(1968) part6

ベトナム戦争下、案外と知られていないUDTチームの事を書いた一編。


UDT in Action

現用勢のリクエストにお応えして書いた、グレナダ侵攻時のNAVY SEALsの行動について。
(もうこの後の時代は自分で翻訳汁wwww)

Seals in action グレナダ侵攻作戦


ベトナム戦争中、暗殺作戦として知られたフェニックス計画とPRU(省偵察隊)についてまとめたお話。

フェニックス 1967-1971

ベトナム戦中、シールチームが使用した武器に関しての記事。

Navy SEALs Weapons
Navy SEALs Weapons 2

SEALチームで使われた有名なシステム23 M60デスマシーンに関しての記事。

死の咆哮 DEATH MACHINE

戦術的、装備的な考察。

1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その1
1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その2


ベトナムSEALsが使用した、有名な装備であるSEALベストとコートに関してまとめた記事。

SEALベストとSEALコートのお話
SEALベストとSEALコートのお話 2


NAVY SEALsのトレードマーク、UDTライフプリザーバーの紹介記事。

UDTライフプリザーバー雑記

同じくベトナム戦SEALsの代名詞となった、シールチームとジーンズに関する記事。

Navy SEALSはジーパンの夢を見るか


とりあえずこのようにまとめてみました。
これからも時間が許す限り、ベトナム戦中のNAVY SEALsの事を書いてみようと思っております。



スポンサーサイト

1965-1966 part2

Part1はこちらから

1965~1966 Part2 SEALチームベトナムへの派兵

1966年2月に、第一海兵師団第一海兵連隊がベトナムに配備されました。その作戦行動には、UDTなどのフロッグマンによって支援された数多くの上陸作戦任務が含まれました。
また同月、米海軍司令部直轄の作戦のためにサンディエゴのSEAL TEAM 1(3名の将校と15名の下士官兵)の小さなグループが、南ベトナムに送られました。
当初、海軍の作戦立案者はこの小グループを、どうすべきかについてまったく分からず、それに運用する作戦計画もありませんでした。
1964年、歴戦の海軍士官Bucklewによって書かれたレポートにより、メコンデルタ地域でSEALを活用するように勧告されましたが、実際にSEALが派遣されるまでに2年の月日がかかりました。
Captain Phil H Bucklew
Cpt Bucklew

SEALsは、Saigon近郊のランサット特別地区(Rung Sat Special Zone [RSS])で活動するベトコンゲリラを標的としました。
この泥だらけのマングローブ沼の広さは約400平方マイル、そして1mちょっとの水深で4ノットの速い潮流が流れていました。
野生生物の棲家だったこの湿地帯は、Saigon近くで行うゲリラ作戦の避難所として、VCが長い間使用してきました。Saigonに向かう航路はこのVCの巣ともいえる隠れ家を経由するので、一般の商船への頻繁な襲撃や砲撃を可能にしてきました。
*RSSZ(ランサット特別区域)は、以前より共産ゲリラの聖域として知られていた。
別名「暗殺者の森」とも言われている。
TheRungSat.jpg


このSEALの小さなグループは、Nha Beの海軍基地から出撃し、最初はD分遣隊という名目で配属されました。
これらの初期のSEALによって蓄積された経験と実績は、ベトナム各地への他の小隊の配備を推し進めました。
彼らの登場は、ベトコンの活動を阻害しました。これは今まで実質的に不可能とされてきた事でした。
VCはもはや、航路の妨害を行う事も逃走することもできなくなりました。
SEALの待ち伏せポイントは、偵察用航空機に設置された「赤いもや」と呼ばれる赤外線装置によって得られた敵の移動を参考にして、それに情報を加味して決定されました。
ベトコンはすぐに、この新しい脅威が彼らの領域で活動を始めた事を察知しましたが、未知の敵の正体が明らかになるまで対抗する事ができませんでした。
この間、RSSZにおけるVCの活動は低下しました。

現時点では、SEALの作戦上の役割は依然として定まっておらず、それによって一般命令の拡大解釈によって大きな柔軟性を得る事ができました。
あるSEAL隊員は、下された作戦の例をこう話しました。
「敵と接触が行われるまでのパトロール。できるだけ多くの敵兵を殺害する事。任務完了後に敵地から脱出する」
SEAL小隊内で、作戦展開地域(AO)や標準的な作戦手順(SOP)を確立する際に問題が発生しましたが、SEALはこれを部隊で実行するために最善を尽くしました。
後に海軍関係者は「SEALパック」と呼ばれるものをまとめました。
このグループは、ボートサポートユニット(Boat Support Units)、機動サポートチーム(Mobile Support Teams)、海軍のシーウルフ武装ヘリコプターなどの支援部隊などで構成されていました。
SEALの典型的な作戦では、これらの支援部隊により敵地に侵入し、そして戻ってくるまで待機する。敵との接触が行われた後、これらの支援部隊はSEALの指示により火力支援を行い、優れた火力で部隊を抽出することがありました。
image077.jpg
ダウンロード (2)
MSTチームワッペン
p32_20170210105013f61.gif
056.jpg

そのような任務は、7名の隊員がVCの野営地がある島に潜入した作戦で見る事ができました。SEALは夜明け前、ボートで潜入しましたが、潜入後ボートは約500mほど沖合で待機していました。
SEALは海岸に上陸しましたが、足が深くはまってしまう泥に遭遇しました。彼らは完全に上陸するのに4時間以上かかりました。そこでSEALは安全を確保し、汚れてしまった武器をクリーニングしました。
それからSEALの男達は、8時間にわたり島をパトロールしましたが、何も発見できませんでした。彼らは川に隠してあったボートで合流地点に戻ったが、その時島の乾いた土地に川と並行して新しい小道を発見しました。
SEALは川に沿って潜入、静かに水の流れに沿って移動し川沿いの草木にカモフラージュして隠れました。

SEALのポイントマンは、チームをそこに留め偵察をしました。彼は2つの小屋を発見し、6人のベトナム人が集まり始めました。その近くに積まれたのは6丁のライフルで、そのうちいくつかは共産国製の武器でした。
この発見を報告するために、ポイントマンは密かに後退しました。チームの隊長は、逃走を図るであろうVCを分断するために、隊を2つに分割しました。1つの隊が小屋の方に展開していたので、もう一つの分隊はVCと反対側の運河にある小舟(サンパン)の中に潜みました。

突然、運河方向に展開していた分隊がベトナム人に発見されました。彼が警報を発する前に、SEALは火ぶたを切りました。5名のVCが射殺され、1人が小屋の中に逃げ込みましたが、その後を追うように手榴弾が投げ込まれました。

その地域を確保しながら、SEALは確保した書類をプラスチック製のバックに入れました。その書類は防水が施されたバッグに入れられ、VCのサンパンに載せられました。大柄なアメリカ人が一緒に乗るにはサンパンは小さすぎたので、SEAL隊員は運河を泳ぎサンパンを誘導しました。
彼らが沖合の支援艦艇と接触する前に、チームはVCの大規模な攻撃を受けました。川沿いにいたボートが丁度到着して火力支援を行い、チームを脱出させました。
捕獲された書類は、ほとんどの場合情報担当者にとって重要な収穫物でした。
このようなSEALパトロールは、現場の生の最新情報を安定して提供しました。

典型的なミッションでは、Seawolfヘリコプター隊の武装ヘリコプター(ガンシップ)や、固定翼の飛行機、陸上からの砲撃、軍艦による砲撃などが火力支援に使われました。
SEALは自分達に有利な環境の中でゲリラと戦い、ゲリラ活動地域の裏庭で激しい戦いを起こそうとしておりました。
小隊単位の戦いは、共産主義者の戦術の裏をかく有効な方法である事が判明しました。予期しない場所での待ち伏せや攻撃は、共産ゲリラに心理的なストレスと圧力をかけました。
SEALは反乱軍にとり戦争が高くつくように、色々な革新的な方法を取り入れ利用しました。
伝えられる所によると、SEALsはある任務で、共産党の上級幹部を暗殺したと言われています。
後に情報部は、その殺害した将校の葬儀の場所、日付、時刻を正確に特定する事ができました。
SEALはガンシップ武装ヘリコプターでその場所に強襲をかけ、仲間の葬儀に出席するために来ていた共産党の高級幹部数名を殺害しました。

1966年3月26日から4月7日まで、UDT2とSEALチーム1からの分遣隊がJackstay作戦に参加していました。
この作戦は、海兵隊がサイゴン川河口への上陸作戦も含まれていました。
jyaxtukusutexi.gif
*ジャックステイ作戦に参加する、海兵隊Recon

UDTチームC分遣隊とD分遣隊の11名の隊員は、危険な河の浅瀬を迂回して上陸用舟艇を誘導するために、払暁から雨の降る朝8時に目標地点に到着した。彼らはその後監視作業を行い、上陸地点の500~800mに渡る地域の地雷などを処理し掃討しました。
SEALsと海兵隊が地域を徹底的に捜索して待ち伏せ準備をする間、UDTも敵軍の逃亡を阻止する4人組の阻止チームを編成しました。これらの部隊は、18時間にわたり該当地域に留まりました。
cffe7ba3373e1e346b7c63c3af0df648.jpg

1つのUDT阻止チームが、待ち伏せポイントでベトコンが乗ったジャンク船を攻撃、6名の乗員との激しい戦闘に巻き込まれました。ベトコンは戦闘で5名が戦死し、1名が捕虜となりました。
その後、部隊はベトコンの待機所を破壊するように命令を受けました。
Jackstay作戦は、UDT,SEALs,海兵隊Recon、および海軍からの部隊が参加したベトナムにおける最初の大規模な作戦として記録されました。
更にベトナム軍海兵隊支援のため、L.D.N.N(ベトナム海軍特殊部隊)とその顧問がRSSZに送られました。彼らには、3つの河川偵察作戦が与えられました。
その作戦は、参加部隊の優れた連携により、かなりの数のゲリラ活動を抑止し成功を収めました。

これまでSEALの待ち伏せチームは、NhaBeの基地から地元の民衆から見られやすい時間に、川を舟艇で行動し作戦を行わなければなりませんでした。
このような作戦行動をとるとベトコンに素早く警報が行き、初期の段階の待ち伏せ作戦は上手くいきませんでした。
ベトコンの情報網に対抗するためにとられた方法の1つが、NhaBe基地から武装したボートのみを出撃させ、チームメンバーをサイゴンまで車で送りだして移動させたやり方でした。この欺瞞作戦が4月18日と19日に初めて行われた時、SEALパトロールチームはRSSZ内で移動していたサンパンで、3名のベトコン兵士を射殺しました。
しかしながら、初期のこのような問題は以前として続いていました。
南ベトナム情報機関は情報源を厳重に秘匿していたが、4月13日RSSZにて、その情報提供者が夜間単独で灯りをつけずにサンパンで行動していたのを、SEAL部隊が待ち伏せ攻撃で殺害してしまいました。
米海軍はSEALの待ち伏せ作戦も厳重に秘匿していましたが、その後このような間違いを防ぐために、両国の連絡を強化する必要があるとみなされました。

4月27日に行われたOsage作戦にて、UDT11D分遣隊がDanangから北へ20マイルのPhuの偵察を行いました。そこで完全な水中破壊工作部隊の分遣隊がベトナムで最初に活動した事を祝して、UDT11はD分遣隊とともにC分遣隊を増援しました。
Osage作戦は、驚くべき事に敵兵力の捕獲を計画した、敵支配地域への水陸両用作戦の1つでした。この作戦の後に、夏に始まったDeckhouse作戦が続きました。
6月16日~18日まで行われたDeckhouse作戦の間、UDT11はSongCai川の岸にて、USSクックから出撃し極秘の偵察を行いました。
ベトコンの逃走を阻止するJunk Foce21にもUDTは参加しました。7月16日~18日まで、DeckhouseⅡ作戦の一部隊として行動し、その後Hastings作戦を支援するための作戦行動にも参加しました。
この作戦はDMZ(非武装地帯)から浸透してくる敵兵力の阻止の為に行われたが、北ベトナムは南部の反乱の支援を止めるつもりはありませんでした。
その結果6月にジョンソン大統領は、政治的圧力を高めるため北ベトナムのHanoiとHaiphongの石油基地の爆撃を行い、
戦いは拡大していきました。そして北ベトナムは、和平会談の提案を拒否し続けました。

6月15日早朝、SEALのパトロールはRSSZの東端にあるCo Gia川にて、サンパンを待ち伏せしました。1名のベトコン兵が死亡1名が負傷し、最後乗っていた1名が逃げ出しました。
ベトナムに派遣されたSEALチーム1は増強され、士官と20名の水兵がRSSZへ派遣されました。

7月27日正午、Can Gio村西側の川を、6名単位のSEALチーム3ケ分隊が行動していました。各分隊が静かに巡回していたら、1つの分隊が新しい足跡のついた小道を発見しました。
15時30分、SEALのポイントマンは3名の敵兵と接触しました。彼はM79グレネードランチャーを発射し、1名のベトコン兵を殺害しました。この地域を掃討している間、フロッグマン達は敵小隊を収容していた基地を発見しました。
最大で80名の兵士を収容できる規模の基地でした。
武器、装備品、米200ポンド、書類と共に大量の弾薬が鹵獲されました。
これらの鹵獲品と基地は、この後破壊されました。ここで鹵獲された文章は、Long Thanh半島のベトコンによって設置された防衛網と基地の位置を明らかにしました。

人的資源の増加に伴い、Nha BeからRSSZで行動しているSEAL分遣隊がG分遣隊として任命されました。
G分遣隊のパトロールは、RSSZのベトコンを苦しめ続けました。
8月5日Nha Beの南東16マイルの地点にて、払暁の待ち伏せで3艘のサンパンを鹵獲し(そのうち2艘はモーターを搭載していた)、積まれていた6000ポンドの米も捕獲しました。
サンパンを先導していた敵兵士は危険を察知し、仲間へ警告するために発砲しました。その後3人の敵兵が水に飛び込み、マングローブ沼地に向かって逃走しました。SEALは追跡しましたが、共産主義者は逃げおおせました。
8月7日、6名のSEAL隊員がジャンク船とサンパンを襲撃し、7名のベトコンを殺害しました。
18日の朝、パトロールチームは、306,000ポンド以上の米の備蓄を含む2つの巨大なサイロを発見しました。この地域へ空軍と海軍の砲撃支援要請され、そのサイロを破壊しました。
後にSEALは損害を評価し、徹底的に破壊するために再度派遣されました。

1965-1966 

 先に1968年のテト攻勢を翻訳したのは間違いでした(白状)
 米軍ベトナムという国に介入し始めたのは1950年代のころでした。米国海軍、UDT(水中破壊工作隊)が派遣されたのは、1960年代に入ってからと言われ、ベトナム共和国の海軍軍事顧問などとして活動しておりました。
 実際にアメリカが本腰を入れ始め、本格的な派兵が行われた1965~1966年のUDT/SEALのお話を何回かに分けて書いてみようと思います。

*********************************************************************************************
1965~1966  Part1  戦いのはじまり


 1965年1月26日、北ベトナム領海内での通商破壊作戦の為、10艘のパトロールボートが南ベトナム政府に与えられました。
パトロールボートは、DaNangの海軍基地をベースにして活動しました。DaNangに駐留する間、アメリカ政府が船を管理しアドバイザーとして存在しました。
a8b1850454c0d7cebdec08801c99f0da.jpg
パトロールボート

 パトロールボートは南ベトナム軍の特殊部隊隊員により操船され、任務に従事しました。
ベトナム側が反政府行動を支援し続けたので、南ベトナム政府は海からの急襲を継続して共産主義者へ圧力をかけ続けました。

 北ベトナム政府は1964年の間、南ベトナムに対し劇的な量の軍事物資とゲリラ兵士などの人員を浸透させました。しかし共産主義者のこの行動をアメリカ側は察知していませんでした。
この事を知ったのは、1965年の初頭の頃でした。
 2月、米軍のヘリコプターが南ベトナムのQuiNhon南部のVungRo湾にて、共産主義者が乗った16艘のトロール船を発見し、軍が行動を起こしました。
vanguro bay

 トロール船へは航空攻撃が行われ、最終的には転覆沈没しました。
 数日後、増援で南ベトナム軍が呼ばれ湾を包囲しトロール船に迫ったので、数日にわたりゲリラから強力な抵抗を受けました。
戦闘中、ベトコンがトロール船に積まれた物資の多くを廃棄したにもかかわらず、最終的にソ連と中国製の大量の武器弾薬を軍は発見しました。
 米海軍SEALの軍事顧問によれば、15名のL.D.N.N(南ベトナム海軍特殊部隊)隊員がこの武器弾薬の証拠を回収し、北朝鮮などが南ベトナムの反政府勢力に対する積極的な支援をしている証拠を、米国で報道する上で大きな役割を果たしました。

 1965年3月8日、最初の米軍戦闘部隊がベトナムに派遣されました。同日、第3海兵師団第3連隊がDa Nang近くに上陸しました。
この海兵隊の任務は、Da Nangの空軍基地をベトコンからの攻撃から守る事でした。海兵隊は上陸用舟艇から完全な戦闘装備でDa Nangの海岸に上陸しました。そこで彼らは、アメリカからの報道陣や地元の歓迎に迎えられました。
その横で、UDT12のフロッグマンたちはその騒ぎを傍観してました。
e614583b4fbd3a24a37b67b1565b99a7_20161208160801d04.jpg

 UDT12のフロッグマン達は、海兵隊員の上陸する海岸を確保する為、先頭に立って海岸調査へ赴きました。
彼らは第二次世界大戦を戦った先達の伝統に従い、海岸の砂にゴムボートとパドルを飾り上陸する海兵隊員へ潜水夫からの挨拶としました。
「ようこそ海兵隊 UDT12」

 派遣されたアメリカの地上軍は、長い間作戦行動に移りませんでした。4月、海兵隊員と他の部隊は、敵ゲリラ部隊の行動を阻止するために活動を開始しました。海兵隊と彼らの作戦行動支援の為、UDT分遣隊は海図を参考に、南ベトナムの海岸線の調査を始めました。
 このような水路調査は、ベトナム戦争の初期でも武装勢力の抵抗にしばしば遭遇しました。
1965年4月23日、海兵隊偵察隊フォースレコンは、Saigonの北370マイル,QuangNamとQuanTin行政区の間にある海岸、SongTra Bongにて調査を行おうとしておりました。
sonntorabonng.jpg
SongTraBong

調査グループは25名のベトコン部隊から、よく調整された攻撃を受けました。敵からの接触を断とうとしている間、海兵隊員はその地域からの後退を強いられました。
包囲された部隊を救助する為、USSクック(APD190)から救援部隊が送られました。
撤退するボートに仲間を乗せていた1名の海兵隊員(Lowell Merrell)と2名の水兵(EN2 Richard Langford TM3 William Fuhrman)がこの作戦行動中、致命傷を負いました。
Merrellは、海兵隊の精鋭フォースレコンのベトナムにおける最初の戦死者となりました。

*海兵隊の精兵であるフォースレコンは、潜水艦からゴムボートで敵地を偵察する任務も行っていた。
images_20161208161727054.jpg
0848523.jpg
ar5152b.gif
画像は1950年代の訓練風景である。

 水路調査という任務の性質上、潜水夫はナイフ一本という軽武装のままでした。
作戦立案者にとってこれらの最初の死傷者は、UDT任務に伴う危険性と彼らの警護を提供する重要性を認識するものでした。
 5月には陸軍の173空挺旅団がベトナムに到着しました。こうして、米軍の役割が拡大し続けました。
戦闘が東南アジアで拡大していったので、アメリカ西海岸のUDTチームはフィリピンにて部隊展開をし始めました。
 各UDT部隊は西太平洋戦域で6か月の任務に従事し、そこで艦隊運営を支援してから西海岸に戻り追加の訓練や再編成を行いました。

 UDT分遣隊は、フィリピンのスービック基地を利用してさまざまな任務を行うために、西太平洋戦域にて色々な場所に配置されました。
 スービック湾に置かれた司令部は派遣されたUDTチームを支援し、本部にA分遣隊(Det A)が配備されました。A分遣隊は隊の運営を支援して他の分遣隊を訓練し、器材の提供やメンテナンスを行いました。
 B分遣隊は第七艦隊の作戦運用の為、水陸両用戦隊(Phibron)の一部として、高速輸送船であるAPDに配属されました。このフロッグマンのグループは、必要に応じて海岸偵察と調査を行いました。

 C分遣隊はUSS Perch(潜水艦)に配属され、後にさまざまな任務に対応するために改造されたUSS TunnyとUSS Grayback潜水艦から、小規模なコンバットスイマーチームとして行動しました。

USS_Perch;0831308
USS Perch
uss タニー
USS Tunny
USS_Grayback;0857404
USS Grayback

 海岸偵察を行う彼らの任務は、2つの基本的な方法を駆使して行われました。
 第一の方法はある程度の深さの海中から、潜水艦の脱出ハッチを使いコンバットスイマーが「締め出される」ように潜水艦の外に出る方法でした(”底打ち”とも呼ばれていた)
水路調査を行うため、コンバットスイマーは36フィートの深さからゆるやかな登り坂を上るように海面へ浮上しました。任務終了後、このプロセスを逆に行い潜水艦に戻りました。
 第二の方法は、潜水艦を浮上させ水面上に停泊したのち、UDTのスイマーは潜水艦のデッキに固定されたゴムボートに搭乗します。それから潜水艦は潜航し、ゴムボートは船体から切り離されます。そしてコンバットスイマーが目標とする作戦地域までパドルを漕いで移動し、任務を完了することができました。
 スイマー達は水中の潜水艦の位置を把握し、ロープを潜望鏡に引っ掻ける事がありました。このようにしてゴムボートを安全区域まで曳航したりする事もありました。

 D分遣隊は南ベトナムの北岸、Danang近郊のキャンプTien Shaに配備されました。
D分遣隊の隊員は戦争を通じ、何百もの敵のバンカー(掩蔽壕)を破壊する任務を与えれらました。
 キャンプはまた、他のUDT分遣隊の休暇(R&R)センターとしても機能しました。E分遣隊とF分遣隊は両用即応グループ”Amphibious Ready Group (ARG)"の一員として活動し、昔ながらのUDTの水路観測任務に従事しました。
 G分遣隊、H、I分遣隊はベトナム戦争の後期に、ベトナム南東部カウマウ半島南端の河川海軍に参加しました。彼らの任務は敵バンカーの破壊だけでなく、その分隊はカウマウ半島の運河、川、沼地を調査するコマンドチームとしても用いられました。

 UDT11は、1964年1月28日から1966年9月5日までの間に行った作戦行動を称えられ、海軍から表彰されました。
授章の理由は、UDT11がベトナムで行われた8つの主要な強襲上陸作戦に参加した事を称えての事でした。
 チームは110マイル以上に渡る海岸線、河川、港の調査を秘密裡に行いました。また他のUDTの作戦行動は、南ベトナム沿岸すべてを網羅していました。
 UDT12のB分遣隊は、8月のOperation Piranha、9月のOperation light、10月のOperation Dagger Thrust、11月のOperation Blue Marlinなど、その年に行われた主要な上陸作戦すべてに参加しました。
 これらの作戦のそれぞれは、米海兵隊とその水陸作戦能力をベトナム戦争遂行に深く反映させました。 これ以降より多くの米軍がベトナムへ派遣され、この戦争において他のSEATO加盟国(東南アジア条約機構)や同盟国からの援助を米国は歓迎しました。
 その年の終わりに、オーストラリア、ニュージーランドと韓国の軍が共産主義者に対抗して、ベトナムへ派兵されました。ですがベトナムにおける最大の軍事力は米軍が占めていました。

 1965年後半にかけUSS Perchは、極秘の海岸調査を行うUDT隊員の発進基地として利用されていました。
最初の公式活動は、南ベトナムの沿岸で行われました。
 10月に行われたDagger Trust作戦は、第七艦隊司令長官D.L.Wulzenによって指揮されました。
夜明け前に行われた極秘偵察は、Prech号に乗り込んだUDT12のD分遣隊の男達が行いました。

 フロッグマンチームは甲板にいた乗組員とともに、潜水艦の後部デッキにあったゴムボートを膨らませて準備し、水面に浮かべました。ゴムボートから伸びたロープは、潜水艦の潜望鏡に結び付けられていました。
 すべての準備が完了し、潜水夫たちはゴムボートに乗り込みました。そして潜水艦は海中へゆっくりと潜航していきます。潜航した潜水艦に牽引されながらゴムボートはゆっくりと目標の海岸へと曳航され、近づいた所で潜望鏡のロープを解きました。
 UDT隊員は彼らの任務を遂行するため、静かにかつ慎重にパドルを漕ぎ続けました。その間Perch号はUDTにいかなる支援を行えるようにその海域に留まり、航空支援の無線誘導の支援も行いました。
作戦地域の水路のデータや貴重な情報は、海軍のデータベースに集積され周知されました。
 UDT隊員は海兵隊の上陸が行われる夜明けまで上陸地点の警護の為海岸にそのまま残り、無事任務を遂行する事ができました。
 このような極秘の調査は、海軍の水陸両用部隊が海岸への上陸作戦をスムーズに行う事ができた重要な理由であり、これらの作戦はフロッグマン達の主な役割であありました。
UDT12-A分遣隊は1964年12月1日から1965年5月29日まで、極秘の水路調査や海岸偵察任務を行い表彰されました。

 同じくUDT12-D分遣隊は、1965年5月21日から7月8日までの期間同様の作戦行動を行い、同じく賞賛されました。
UDT隊員は戦闘行動の他に、他の重要な仕事にも従事する事となりました。
 当時南ベトナムでは訓練を受けたダイバーが不足しており、フロッグマン達に熱い視線が向けられました。その結果、船のサルベージ作業や海難救助任務を行う事を求められました。
 1965年の後半2名のUDT隊員はChu Lau地区にて、約1.3kmの燃料パイプの修理を支援しました。海中の視界は悪く海面も荒れていましたが、UDTダイバーの専門家の協力で貴重な燃料パイプの修理が完了しました。

 当時南ベトナム軍の特別攻撃隊はDa Nang海軍基地をベースにして、北側への破壊工作任務を行っておりました。基地は偽装工作を行い通常の警備をしておりましたが、他の米軍基地のように共産主義者の注意深い監視下に置かれてました。
 10月28日、ダイビング用の新型器材のテストを行う為、第二次世界大戦の時に海軍に入隊した経験豊かな潜水夫であり、Da Nang基地の保安担当であったロバート J フェイがジープに乗っていた所、ベトコンからの迫撃砲による攻撃を受け死亡しました。
 彼は1951年の朝鮮戦争から従軍し、UDT2を含む各UDT部隊に勤務しました。彼の経験は、1965年4月にMACV-SOG( 南ベトナム軍事支援米軍令部-研究/観察グループ)のアドバイザーとして重要な役割を果たしていました。
彼は、ベトナム戦争で死亡した初めてのUDT隊員となりました。
Da Nangの米海軍基地とモンキーマウンテン前進基地などのSOG基地は、キャンプフェイと名付けられました。

*モンキーマウンテンは、Da Nang基地と海岸を見下ろすソンチャク山に作られた基地で、SIGINT(傍受)施設が作られた。
Monkey_Mountain_SIGINT_facility_in_Vietnam.jpg


 12月、ホワイトハウスは北ベトナム政府への軍事的圧力をかけ続け、平和交渉へ誘導しようとしたが北の政府は申し出を拒否しました。
その結果、アメリカ合衆国は北ベトナムの限定された地域への爆撃を、1966年1月に再開しました。
通常戦力による作戦行動は南ベトナムで拡大し、そして特別攻撃隊による北ベトナム海岸線への襲撃が続けられました。
 1965年12月1日、ナスティボート(快速パトロール艇)が作戦行動の最初の犠牲となり失われました。そしてすべての特殊作戦部隊と共に、ベトナムへの米国政府の関与は日々増え続けました。

 1966年の初頭ベトナムでの任務は、米国本土でBUD/S(基礎水中爆破訓練)を受けた男達の目標となるゴールでした。
 BUD/S卒業生でもコンバットダイバーになるのは難しく、彼らは東南アジアの紛争に参加すべく困難に耐えました。
1965年12月3日、このトレーニングコースから卒業した一人の若い海軍士官、3等海尉Theodore Roosevelt IVは偉大なテディ・ルーズベルト大統領のひ孫でした。
ハーバード大学を23歳で卒業した彼は、当初海軍を経歴にする計画をしなかったのですが、ベトナムでの任務が彼を必要としていました。
彼と他の候補生が最初のUDT/SEALトレーニングを受けている時、この選抜コースのインストラクターは候補生の特性や性格を見抜いていじわるする事で有名でした。
彼の曽祖父の外交政策(でかい棍棒を持って静かに話せ "speak softly, but carry a big stick")を思い出し、そのインストラクターはコースの途中で3フィートの長さの丸太を担ぐよう命令しました。

 1966年1月21日、UDT11-C分遣隊は主要な沿岸地域のPhan Thiet,Cam Ranh、Nha Trang、Qui Nhonの調査を行いました。1966年1月21日から28日にかけ、もう一つの大規模な水陸両用作戦が行われました。
1_201612081622096a3.png

 南ベトナム第Ⅰ軍が管轄するQuang NgaiとTam Ky近くの海岸にて、海軍は朝鮮戦争の仁川上陸作戦を越える規模の陸上兵力を上陸させる計画を立てていました。
USS Perchは今回もUDT11-C分遣隊を海岸に送り込み、偵察行動を取るよう命令が下されました。
潜水艦は海岸から沖合数キロの海中で待機し、それからサポート要員の潜水夫が脱出ハッチから出てゴムボートを
用意しました。
 スキューバ装置を利用して、支援要員は潜水艦の外側に器材と誘導用のラインを用意します。すべての準備が整い次第、潜水艦の乗組員に合図が送られました。UDT隊員は脱出ハッチから潜水艦を出て、支援要員が準備したスキューバ装置から呼吸しました。
 ゴムボートは海面に浮上し膨らみました。フロッグマンは海面に浮上し、ゴムボートに乗り込みますが、この乗り込むプロセスで武器、無線機、器材は特に厳重に保護されておりました。準備が完了すると、フロッグマン達はボートから音波発信機を水中に垂らしながら目標の海岸へ進みます。
 潜水艦はゴムボートからの音波信号をキャッチして正確な位置を把握し、上陸地点の海岸へ航空機を無線誘導しました。そこでUDTチームの極秘偵察が始まります。
 このような手順は、かなりの専門知識と長時間にわたるリハーサルを必要としました。Perchの乗組員とUDT隊員の両方によって培われたチームワークは、ベトナム戦争の初期には特に必要とされるものでした。

 成功裏に終わった偵察の後、フロッグマン達は外洋へゴムボートで漕ぎだし、ゴムボートにロープを付け、信号で待機しているPerch号に合図を送り、沈降している潜水艦の潜望鏡にロープを引っ掛けボートを曳航してもらいます。それから更に外洋に向かい安全な海域で潜水艦は浮上し、フロッグマンと装備を回収しました。


続く


フェニックス 1697-1971

 先日こちらで書きました「テト 1968」にて、翻訳している最中に疑問点が色々と湧いてきました。
SEALの作戦行動にいつも参加しているPRU(省偵察隊)の存在と、一般人を標的にした「フェニックス計画」についてです。
日本ではPRUをフェニックス計画のために設立された暗殺部隊という表現が多いのですが、ならば何故その暗殺部隊がSEALと共に戦っているのでしょう?
まるでCIDG(簡単にいえば民兵)みたいな部隊ではないのか?あとフェニックス計画とは、何なのだろうか?
そう思い色々とネットの海を漂っていたら、よく纏められた資料を発見しました。
凄惨な歴史であり、極秘事項の事柄ですので、40年過ぎた今でも全容は分からないかと思います。
ですが、読んでみて今までの認識が改まりました。
色々な方からご意見を頂き、纏めさせて頂きました。また新たな資料を発見したら付け加えさせて頂きます。
では、本編の始まり~

**********************************************************************************************

ph[1]

 1967年、CIA(アメリカ中央情報局)極東支部内の極秘セクション内にて、後に秘匿名「フェニックス」として知られる計画が開始されました。
MACV(ベトナム援助軍司令部)は、民間計画革命開発サポート”CORDS"を通じ、CIAがスポンサーとなった"Phung Hoang (すべてを見渡す鳥 の意)”もしくは”Phenix"と呼ばれた計画を支援し、ベトコンの上級幹部の除去を計りました。
CORDS Phoenix

後にこれらは暗殺計画と批判されましたが、"Phung Hoang"の目的は「破壊的分子を特定しそれを無効化するために、地方の警察と民兵組織グループの協力を得て行動を調性する」ことにありました。

 計画は、すべての南ベトナム人とアメリカ軍、ベトコンのインフラに対抗する警察と情報組織による協調攻撃を伴いました。CIAの資金は、計画のための触媒となり、ウィリアム・E・コルビーはその資金運用の監督に重要な役割を果たしました。

WilliamColby.jpg
ウイリアム・コルビー

 新しく創設された地区作戦情報コーディネーター委員会の勧告に基づき、警察と村落の職員からなる当局は、ベトコン幹部に名前と重要度を計るランクを付け、必要に応じて軍を使い逮捕する事でした。
様々なベトナム共和国の政府機関は、国家警察、軍のセキュリティチーム、武装した軍の宣伝チーム、国勢調査を行う幹部、そして特にCIAから訓練を受けた省偵察隊(PRU)などが計画を実行しました。
フェニックス計画は、おそらくベトナム戦争の間、アメリカ合衆国とベトナム共和国政府によって着手された最も誤解され論争の的となった計画といえます。
ベトナムにて、Lao Dong党(ベトコンの基盤でもある組織)の政治基盤を迅速かつ簡単に破壊したのは、この一連の計画でした。
 フェニックス計画は、報道やその他の伝聞情報で得られる話が逸話的であったり、証拠が得られなく間違っていた為、誤解されました。
アメリカ合衆国の反戦活動家や学者などの知識人が、それを一般人を対象とした不法で不道徳な暗殺プログラムのように伝えたので、計画は常に論争の的となりました。
 フェニックス計画は、いくつかの宣撫工作の1つとして、CIAが1960年代の間に南ベトナムで行った地方のセキュリティ・プログラムでした。
その内容は、南ベトナム政府とアメリカ合衆国政府が地元の農民をベトコンから保護するために、彼らの身を守るために軍事訓練するよう農民を説き伏せられるならば、南ベトナムの田園地方の広域が守られることができ、米軍によって事前の取り決めなしで敵から土地を取り戻す事ができるということででした。

 1967年までにベトナム米国軍事援助司令部(MACV)は、1つの組織に軍と民間の宣撫活動を一体化し、それは「民間計画革命開発サポート」”CORDS"と呼ばれました。
CIAとMACV、そしてサイゴン政府は、CORDSに強く関わっていきます。

 ロバート”トーチランプ”コマーが、ベトナムでの彼の点数稼ぎのためにフェニックス計画に飛びつくのに長くはかかりませんでした。
Lyndon_Johnson_and_Robert_Komer.jpg
ロバート(ト-チランプ)コマー 横にいるのはジョンソン大統領 

彼はリンドン・B・ジョンソン大統領の耳として活動しており、そしてこれは彼を政治的に強い立場にしていました。
彼を邪魔する人間は、ブルトーザーで轢かれるように排除されました。
もし誰かがこの計画を始めるとするならば、この横柄で尊大な元CIAアナリストでした。
コマーはベトコン組織への「散弾銃」のような広範囲なアプローチよりも、「ライフル弾」のように範囲を限定した捕えるような働きをしました。
CORDSの先頭にコマーは立ち、ウィリアム・E・コルビーの下で活動し成功を収めました。後の1968年、フェニックス計画はウィリアム・E・コルビーが引き継ぎました。

 ウィリアム・E・コルビーは、1959年から1962年の間、サイゴン支局のチーフとして、そしてCIAの極東課の部長として知られていました。
コルビーは、アメリカ合衆国が南ベトナムの村々から共産主義政治勢力を排除しなければならず、農村地方でのベトコン組織基盤を根絶しなければならないと考えていました。
また、CORDS「民間計画革命開発サポート」に取り組み、土地のインフラ整備や経済発展、それにベトコン組織基盤の根絶にかなりの資源を投入しました。

 CORDSのもう一つの構成要素が、フェニックス計画でした。
フェニックスがサイゴン政府によって動き表面上管轄されましたが、CIAがその計画に資金を提供し管理しました。
フェニックスは、野戦警察と地方の民兵組織の単位でベトコン組織に関する情報を収集し、その情報が南ベトナム全土の100以上の州や地区の、CIAによって組織化された情報委員会によりネットワーク化されたものを基盤としていました。

 基本的にこれらの情報委員会は、その地区で名の知られたベトコン組織の構成員のリストを作成しました。
個々の構成員の名前、階級と所在地が明らかとなったら、CIA準軍事組織のメンバーまたは南ベトナム野戦警察、または軍隊がこれらの構成員に対し、共産主義組織の実態と行動に関して情報収集の為尋問しました。
作成されたリストは、Tay Ninhや色々な所で行動するフェニックス野戦軍(南ベトナム国家警察、米海軍SEALs 米陸軍特殊部隊を含んだ)と地方の情報委員会に送られました。

 これらの軍事組織は村落に行き、名前を挙げられた個人を特定し、彼らを「無効化」しようとしました。
*活動できないようにする事。捕虜や拉致、対象者の殺害など広範囲の意味がある。
リストに書かれた人々は、尋問のために逮捕されたか捕えられました。また抵抗する者は殺害されました。
まず初めに、CIAはベトナム政府の援助で、地方または地区レベルで尋問を開始しました。
後に計画がサイゴン政府に渡された時、情報委員会だけが情報を取扱いました。
結局、約600名のアメリカ人(CIAと米軍関係者含む)がベトコン容疑者への尋問に直接関与していました。
Ogg PRU advisors
PRUのアドバイサーとして参加したアメリカ人


 ベトナム戦争のさ中、勇敢なベトナムの特別な警察組織(米軍とCIAによって指揮されていた)の小さなチームは、共産党員が主導する政治的な活動に対して、主に秘密戦争を仕掛けていました。
これらの警察隊は地方偵察隊”PRU"と呼ばれていました。そして彼らPRUは、ベトナム戦争において危険で難しい作戦を行いました。
521950b42df43631e7fd62b49157f58e.jpg
PRUの部隊章

 彼らは当初南ベトナム政府とCIAによって、1964年に作られた特別な準軍事組織でした。まず最初に、彼らは対テロチームとして知られていました。
 結局、PRUは南ベトナムの44の行政区において4000回以上の作戦行動を行い、1969年11月まで米陸軍将校と下士官の指揮下で行動し、後にCIAのアドバイザーの指揮下におかれました。
59fa16545eaec11de1c289264d084956.jpg
PRUを指揮するSEALチーム2の兵士
cb1f97c81dc77ecfc52b414ab6d7c639.jpg

PRUは、フェニックス計画において最も論争の的となった存在でした。
これらの組織がCIAによって創設され、訓練され管理下に置かれたので、PRUは秘密裡に行動しました。
そのような行動が、彼らの活動に神話的な要素と嘘の話を付け加えてしまいました。
PRUのこれらの神話と嘘はベトナム戦争に於いて、多くの歴史家が詳細な調査をせずに額面通りに受け取ってしまいました。
 この認識不足は、ベトナム戦争中のアメリカの政治的な対立の為更に複雑になっていきます。
そしてそれは米国内の反戦論者に、アメリカおよび南ベトナム政府によって行われる共産軍への全非聖域化に対して、悪質な間違った請求を出させ政府に受け入れさせました。

 PRU隊員の補充は、地元行政区にて行われました。
多くのPRU隊員は、以前ベトコン兵士であったりARVN(ベトナム共和国軍)兵士でした。
幾人かが、正規のARVNに加わるのを嫌い、彼ら自身の出身地の行政区にて志願するのを希望した地元の若者であったり、また南ベトナム軍の特殊部隊兵士であったり、または民間不正規戦グループ"CIDG"のメンバーでした。
6c5cc43649406f592edb505b626c2629.jpg

2・3の行政区では、一部の仮釈放された囚人がPRUに加わる事が許されましたが、そのようなメンバーの数は僅かで、1968年以降は大いに減りました。
PRUは、カトリック教やカオダイ、モンタニヤード部族民などに対し強い宗教的コミュニティを提供し、共産党の天敵を作りました。
a677c8ac230e47572f90077a113ef2b7.jpg

 ベトナム戦争へ米軍が関与するのを批判する者たちは、PRUが暗殺チーム以外の何物でもないと主張しました。
しかしフェニックス計画にて殺害されたベトコン構成員のうち、PRUが殺害したのはわずか14%でした。
残りの大部分は、南ベトナム軍兵士と警察、米軍が行った衝突と急襲で死亡しました。

 1971年コルビーは、1968年から1971年5月までの間でフェニックス計画がベトナムにて20587名を死に至らしめたと明らかにしました。
例えば1969年、CIAの命令で南ベトナムの特殊部隊チームが、タイのKhac Chuyenという人物を2重スパイという理由で標的にしました。
結果特殊部隊により、男は「無効化」されました。

 フェニックス計画のは後に成功と評価されました。
スタンレー・カロウは数名のベトナム共産党幹部にインタビューし、フェニックス計画を以下のように評価しました。
約6万のベトコンのスパイと支援者を排除し、共産党の幹部数千名を犠牲にする、邪悪で容赦のない活動だったと。
グェン・コ・タク(1976年以降のベトナムの外務相)は、フェニックス計画が北ベトナム軍とベトコンを容赦なく一掃し、カンボジアの聖域までの撤退を強いた事を認めました。

W・R・コーソン中佐によると、フェニックスに関わった海兵隊のパトロールの経験はいくらか異なりました。
「第一軍の進軍の後にフェニックス計画の分隊が加わり、村落の人々と海兵隊の関係は冷え切ったものでした。
村の調査を始めると同時に我々は、村の住人が「フェニックス・チンピラ」が来て連行されるのを酷く怖れていたのに気が付きました。
フェニックスの遂行は何ももたらしませんでした。または恩恵はより少なく、アメリカのドル紙幣で雇われた山岳民族ヌン族を雇い、フェニックス計画は無実かまったく無関係の人々を殺害していきました。」

 評論家は、CIAが政治的な暗殺を武器としていた事を非難しました。
ベトナムでの行動の多くは、ベトコン組織の基盤を破壊する過程において、一般人の共産党員を暗殺しました。
CIAが行うフェニックス計画は主に、誘拐や暗殺を含むベトコンのテロ行為戦術に対応し、ベトナムにてアメリカが行う政治的な暗殺のために数多く行われました。

 1972年、コルビーは「米国援助軍司令部とCORDSの支持で、フェニックス計画はCIAでなくベトナム政府によって行われた」と書きました。
フェニックス計画は暗殺プログラムではありませんでした。
それは、政府転覆を狙うベトコン組織に対処し、その指導者を標的にしたプログラムでした。
いくつものケースでは、ベトコン組織からの離脱や寝返る説得し勧誘していましたが、しかし相当な数のベトコンメンバーが軍事行動にて殺されたか捕虜になるのを抵抗していました。
戦闘犠牲者の間で、ベトコンの組織的なテロリズムによる犠牲者とフェニックスで失われた犠牲者の間で膨大な差がありました。

 1972年にCORDSは、1968年のテト攻勢からフェニックスが行動し、5000名以上のベトコン要員を除去したと報告しました。そして従来型の軍事行動(フェニックスにより支援される)より、20000名以上無効化されました。
MACVは、フェニックスとテト攻勢への米軍の反撃が、他の地方の警察やCIDGプログラムとともに離反や寝返りを防ぎ、少なくとも80000名のベトコン要員を排除したと主張しました。

 その掲げた数字は予想の値よりも高いものでした。そしてその数字の根拠は、信頼性の低い統計に依存していました。
しかし、多くの活動によって、フェニックス(1971年に終了)と他の非聖域化プログラムは、ベトコン組織の効果的な活動を阻害し地下に追いやりました。
1972年の北ベトナム軍によるイースター攻勢と1975年のベトナム戦争終結時の攻勢の際、フェニックス計画はベトコン組織に壊滅的ダメージを与えていたので、ベトコンによる組織的な攻撃は2度と行われませんでした。






追記

暗黙裡に決められた入隊資格は、軍事、経済、社会事情など、ベトナムの表と裏も知り尽くした者で、ベトナム戦参加2回以上のベテランということになり、必然的にグリーンベレーを主体に、PRUはできあがったのである。
(並木書房 特殊部隊ーフェニックス作戦ー エリック・ヘルム著 北島護訳 監修 三島瑞穂 より抜粋)

フェニックス軍に参加した兵士は、カンボジアや山岳民族出身の傭兵も含まれていたという話も存在する。
対象を無効化する際、近隣の基地から適当に兵士をスカウトして狙撃をさせたという話もあるし、サイゴンで休暇中であった三島瑞穂氏も暗殺の依頼を受けたと、著書「グリーンベレーD446」にて記している。

ベトコン容疑者となった者達は収容所に収容されるのだが、その収容所内ではおぞましい拷問が行われていた。
女性に対しては暴力的なレイプや輪姦、ウナギやヘビなどを性器に挿入する、身体の中で敏感な部位(たとえば舌)や性器に電極をつけて電流を流す、水道のゴムホースなどで体を殴打する、など行われていたとの目撃例もある。
ある対象者の耳に棒を垂直に差し込み死ぬまで打ち込む、その地域の政治的な中核メンバーであると疑われた女性を監禁し餓死させた、睾丸や膣などに電気を流しショックを与えたなどの凄惨な行為も行われたようである。

国家野戦警察などがリストを元に対象者の自宅に行った際、玄関にて対象者の名前を2度呼び出てこなかったら、手りゅう弾を家に投げ込み爆殺したとの目撃例もあった。
ベトナム戦争終結後、ベトコン狩りで怨嗟の的であった国家野戦警察のメンバーは共産軍に捕えられ、収容所で強制労働に就かされ生きて帰ってくる者はいなかったとの事である。

フェニックス計画も官僚機構の腐敗により、しばしば間違った無実の人間が逮捕されていた。
場合によっては、地区当局はベトコンから賄賂を受けわざと取り逃がしていたとの話もある。

このような悲劇的な事例もあったが、フェニックス計画はベトコン組織の壊滅に最大限の効果を発揮したともいえよう。


*翻訳間違いや何かのミスは、極秘裏に無効化し処理していきますw
あと伝聞情報ばかりの掲載で本当に申し訳ありません。
読んで頂き、ありがとうございました。

テト(1968) part6 

前回まではこちらをどうぞ
テト(1968) part1
テト(1968) part2
テト(1968) part3
テト(1968) part4
テト(1968) part5


Part 6  最終回  Man Hunters


 とある晩、18名のPRU(省偵察隊)を指揮していたSEALチームは、地区レベルのベトコン幹部と3人の村長が集まる会議を急襲するために攻撃準備をします。
PRUは地区をSEALの攻撃のために封鎖しました。
 突然ベトコンの分隊は、接近するSEALの後方部隊に銃撃を開始、SEALが応射し銃撃戦が始まります。
PRU部隊はすぐにターゲットの村長と幹部を発見しますが、突発的な戦闘で奇襲の要素は失われてしまいました。
この銃撃戦で、4名の敵兵を射殺しました。

 8月の最後の週、ST-2から第4小隊が第9小隊の救援のためデルタ地帯へ移動しました。1968年のこの時点で、ベトナムツアー(従軍)を行っていなかったSEALをみつける事は稀な事でした。
1a084lz2.jpg

 9月9日、他の2個分隊のチームはお互いの連絡を取りながら、待ち伏せ攻撃で2名の敵兵を射殺しました。
9月14日、L.D.N.N(南ベトナム海軍特殊部隊)パトロールチームを率いている時、ST-2のフレドリック・トレイン大尉がブービートラップにかかり戦死しました。
内偵中ベトコンに捕えられたが脱走し、ベトコン支配下の村に潜伏しているPRU工作員からの救助要請が第3小隊にありました。隠れているPRU工作員は、今か今かと救助を待ちわびていました。
 9月15日、SEALsはその村まで移動し工作員の救助に成功、その救出作戦中3名の敵兵士を射殺し3名のベトコン幹部を捕えました。
この時捕えたベトコン幹部が武器貯蔵庫の位置を自白し、数日後PRUとSEALは武器弾薬庫へ向かいました。
鹵獲した武器は以下の通り。
82mm迫撃砲 1基
60mm迫撃砲 1基
ロケットランチャー 2基
機関銃   3丁
AK小銃   4丁
対戦車手榴弾 40個
小銃弾   5800発
 2日後の晩、第3小隊から分派された1個分隊のチームが、Long Tau運河で発生した商船へのロケット攻撃に対応します。
SEALはRSSZ(ランサット特別地区)で夜間待ち伏せを実行、ベトコンのロケット攻撃チーム員6名を全員殺害し武器を鹵獲しました。
 
2週間にわたり第二軍の指揮下にて、Qhi Nhon半島でSEALは有益な活動を行いました。
1 クイニョン
 19日にはSEALチームは、都市部への攻撃を準備していたベトコンの迫撃砲チームの待ち伏せをQui Nhonで行います。
29_lg.jpg
待ち伏せ攻撃は、敵の活動を効果的に妨害していました。
地元のベトコン組織構成員リストが記された、重要な文章10ポンド分も鹵獲する事に成功します。
 10月3日My Thoから南西に6マイルの地点にて、5名のSEAL隊員と2名のL.D.N.N隊員がパトロール中小規模の敵と接敵、増援として35名のPRU隊員の支援を受けました。
この戦いで7名のベトコン兵士を射殺し、武器と機密文章を鹵獲しました。
 これらのいろいろな活動は、SEALチームが行った作戦行動が上手くいっている事を示していました。
このようなSEALの行動は、SEALが確立していた地元の情報ネットワークからの情報に基づいて行われました。
大部分の地域でSEALは地元住民の信頼を得ていて、しばしば重要な情報を地元から得る事ができました。
 
 10月上旬地元のベトナム人女性から、彼女の夫が捕えられていた捕虜収容所に関して情報を得ました。
Con Coc島(サイゴンから南西に77マイル、Bassac河上)に存在する捕虜収容所への急襲を行うため、10月6日払暁にSEALとPRUの合同部隊が送りこまれます。
condao2(1).jpg
合同部隊は収容所に突入、2名のベトコン衛兵を捕え大量の機密文章と金銭を鹵獲します。
後に捕虜収容所キャンプと、併設していたベトコン徴税吏施設を破壊しました。
44名のベトナム人囚人(1968年初頭のテト攻勢時に捕えられた数名の捕虜を含む)は、無事救出されました。
 同日、My Thoから12マイル北の地点にて、SEALの別のチームと(SEALの指揮下にある)PRUとの合同チームは、捕虜収容所に捕えられた囚人の妻に案内され、もう一つの捕虜収容所へ侵入します。
一行はBassac河を3時間かけて、高速舟艇にて目標地点まで移動しました。
SEALチームは、衛兵から捕えられた囚人を素早く引き離すために、最終的な攻撃を誘導します。
収容施設での攻撃を避け、ベトコン兵士が囚人の檻への発砲を妨げる事により、交戦の間捕虜を安全に保護する事ができました。
 SEALは最初の攻撃時、偶然に捕虜を撃たないよう高精度の銃(狙撃銃)で敵を狙い攻撃の火ぶたを切りました。
こうして攻撃が始まり、7名のベトコン兵が死亡し2名の衛兵を捕え大量の文章を鹵獲、26名のベトナム人囚人が解放されました。
 
 10月から11月にかけ、作戦名「ボールド・ドラゴン」と名付けられた大胆な作戦が行われました。
02cfecb668d3498206beb158a3718175.jpg
この作戦はベトナムにおける海軍作戦部長が直接統括し、部隊の調整を行いました。
作戦部隊は、沖合で行動する米軍の艦艇と陸軍と海軍の武装ヘリコプター(ガンシップ)に支援されるSEAL2個小隊を含みます。
作戦は2段階で行われ、フェーズⅠはLong TauとBa Xuyenから開始され、フェーズⅡはPhu Quc島で作戦が実行されます。
3 ロンタウ
*フェーズⅠ Long Tau
2 フーコック島
*フェーズⅡ Phu Quc島
 また、10月から11月を通してベトコン部隊に対し多数の待ち伏せ作戦を行い、牽制しベトコン部隊をその場に留めさせました。
SEALチームB分遣隊(PRUアドバイザー)は1名の所属士官から12~13名の士官に増員され、10月4日には21名の隊員が増援されました。
 10月から11月の作戦期間中、ゲイリー・ギャラガー伍長はメコンデルタで活動するPRU部隊のアドバイザーの一人として行動していました。
部隊の目的は、情報収集のため敵の捕虜を捕える事でした。PRUはパトロールを行い、数名の敵の捕虜を捕え拘留しました。
部隊は2つに分かれ、運河のそれぞれの土手に沿って前進しました。ベトコンはすぐ近くに潜伏していると考えられていましたが、その時捕えた捕虜の一人が大声で仲間に警告を叫んでしまいました。
ギャラガーの位置から向こう岸のパトロール隊は、すぐに数的にも優位な敵から、猛烈な十字砲火を浴びてしまいます。
ギャラガーは、安全にこの場所から後退するには、即座に部隊間の連絡を取らなければならないと決断しました。彼は捕虜を引き立てながら運河の反対岸にチームを移動させます。
向こう岸でギャラガーは部隊を再編制し、部隊の火力を敵に向け正確に指向させました。
ギャラガーの正確で猛烈な十字砲火は敵を一時的に制圧し、部隊を無事に撤退させる事ができました。
脱出する前に、彼は重傷を負った隊員の応急処置をして、8km徒歩で後退し無事に脱出しました。
後にこの戦闘の功績で、ギャラガーは海軍殊勲章を授与されました。
 10月21日、Saigonの南10マイルで同時に行われた3つの作戦行動は、4名のベトコン兵士を射殺し4艘のサンパンを破壊しました。
 その月の終わり10月29日SEALとPRUの合同作戦中、ST-2第4小隊のロベルト・ラモス2等曹長が戦死し、不運な月末となってしまいました。
ラモスは100名規模のPRUを指揮しているSEAL隊員の一人として、ベトコン大隊と接敵していました。
彼はLong Xuyenから12マイル南方で交戦中、敵の小銃弾に斃れました。
固定翼機とコブラ武装ヘリコプターが部隊の支援にあたり、PRUの後退を助けました。
 ST-2第5小隊は10月下旬、My Thoに10回目の支援派遣を行いました。
ベトナムに派遣されて6か月となる第5小隊ですが、分隊規模の作戦にて平均的なSEAL分隊の成果を上回る戦果を上げる事となります。
 敵地への潜入の際、地元住民が使用しているサンパン(定期的に外観の偽装を変えている)を使用し大いに成果を上げました。
第5小隊は他の小隊からみると、まるで敵兵士と同じような格好の現地生産の黒パジャマを着用してソビエト製の武器を携行し、敵支配地域内の住民からベトコンの活動に関する情報を得ました。
bae5d9e305f64b689a55f7ffe4208ad7.jpg
 ベトコン部隊が場所を頻繁に移動したので、11月15日My Thoの南西4マイルの地域で行われたSEALの待ち伏せ作戦は、10名のベトコン部隊を捕捉して行われました。そして突発的な銃撃戦は、敵兵5名を射殺して終わりました。
SEALがヘリコプターで作戦地域から抽出された後、迫撃砲による制圧射撃がその地域に加えられました。
newpicture2f.jpg
 
 6名のベトナム人と数名のSEAL隊員から成るSOGチームは、報告された敵村落を捜索するため、11月21日Le Hong Phongのジャングルに14km侵入しました。
レポンゴン地域を望む
*Le Hong Phongを望む
 他の作戦にてSOGチームは捕虜を捕え、尋問により今まで知られていなかった村落の存在が明らかとなっていました。
その地域は砲兵の支援区域から外れており、今まで米軍や南ベトナム軍はジャングルの中に危険を冒してまで入りませんでした。
夜間に侵入したチームは報告にあった村落を発見、数名のベトコンを殺害しベトコン村に関する完璧な資料を鹵獲しました。
11月22日Saigonにて、ST-1に所属するジェームズ・サンダース伍長は戦闘任務以外の事故で死亡しました。
それから2日後、ST-2第4小隊から成るアルファ・チームがカンボジア国境近辺に夜間侵入をしました。
dadanngu.jpg
*Da Dung山遠景
 その任務は敵ベースキャンプを発見し、情報収集の為監視下に置く事でした。チームは事前に定めた監視地点に遮蔽物の無い野原を移動中、夜明け前の瞬間一人で行動していた敵兵を発見しました。
2名のSEAL隊員が敵兵の跡を追跡し、捕虜にするために送り出されます。
ベトコン兵士は追跡に気が付き発砲、短い銃撃戦は敵兵の死で終わりました。
この銃撃戦の後、Da Dung山の敵ベースキャンプは完全に攻撃態勢となり追撃を始めました。
50口径機関銃、迫撃砲、40mmグレネード、それに自動小銃による猛烈な制圧射撃が彼ら2人を襲います。
SEAL偵察チームの本隊は、分派された潜入チームの後退を援護するために応戦しました。
 チームは撤退しましたが、大規模なベトコン部隊の追撃が始まりました。
武装ヘリコプターを航空支援で呼びました。ヘリコプターによる支援の間、SEAL偵察チームリーダーともう一人のメンバーは本隊から離れ、2名の潜入チームの位置を把握し呼び寄せ、本隊と合流させました。
それから無事に、偵察チームは脱出しました。
63e3b63907674674b47e150171587efc.jpg
敵の激しい抵抗は、そのキャンプの重要性をSEALに確信させるものでした。
 12月7日、SEALはもう一度ベースキャンプに戻り、気が付かれずに監視所を準備しました。
武装ヘリコプターが、キャンプ地の敵兵の気を引くために呼ばれました。
それから1時間後、SEALsが自動小銃と迫撃砲で攻撃する際にも武装ヘリコプターの支援を受けました。
敵は重火力による反撃を開始、SEALsは敵の包囲を避けるために後退し、即座に脱出しました。
後に15名のベトコン兵士の死亡と29名が負傷したと確認されました。

 12月16日~23日まで、UDT-11 Bravo、Golf、India分遣隊の合同チームは、Silver Mace作戦の支援にあたりました。
UDTは初の内陸作戦を実行し敵施設への破壊工作と襲撃を実行、12月11日には分遣隊により水路調査が行われ、その後D分遣隊は14マイルにわたり敵に支配された水路を解放しました。
1968年の終わりごろ、ST-2第6小隊は、Binh Thuyの第3小隊の支援を行いました。
 
1968年の間を通し海軍特殊作戦部隊の実力は、それらの作戦行動能力の最高点にありました。
敵へのランダムな攻撃と失敗、ベトナム派兵初期からの待ち伏せ作戦やパトロールのやり方は、情報や経験を経て改められました。
そのような情報の多くは、作戦地域でSEAL小隊が作り上げた情報ネットワークから得られました。
 待ち伏せ攻撃が多く行われましたが、より多くの急襲作戦が特定の攻撃目標を叩くために実行されました。
ベトコンは、より洗練された攻撃やSEAL・PRU・L.D.N.Nの合同作戦などにより、重要な武器貯蔵庫や大量の武器、医薬品や施設を失いました。
小部隊単位の活動は敵支配地域の深部で行動し、敵を容赦なく狩りたて高い代償を払わせました。
 1968年のSEALチーム内の戦闘経験は、極めて効率の高い小部隊を生み出しました。
テト攻勢の間、ベトコンと共産主義者はSEALsと激しく戦い、しばしばSEALsに重い損害を与えました。
しかしSEALsは全期間を通じ共産主義者に強烈なしっぺ返しを与えました。
 ST-1からは9名、ST-2から6名の戦死者、UDT-12は指揮官を失いました。
すぐに終わるはずであった戦争は、多くの犠牲者を生みながら更に激化の一途を辿っていきます。


テト (1968) 終
次のページ

FC2Ad

まとめ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。