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買い物狂いの備忘録

40代の物欲にまみれたオッサンの備忘録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など備忘録的に書いてます。

ベトナム戦争における海軍EODチームについて

非常事態宣言の中、読者の皆様はいかがお過ごしですか?
はい物欲です。
私の住む県は、新型コロナの患者さんは首都圏に比べてまだ少ない方なんですよ。だけど、油断しないで日々を過ごしましょう。
ここで、ベトナム戦争における海軍EODチームについて書かれた文を見つけましたので、翻訳してみました。
きっかけは所属するチーム”SEA HOUND"の隊長との会話で、「ベトナム戦争時代のEODってどんな事をやっていたのか」という問いからでした。
今は検索をかける時に、”希望するワード pdf"と入れると、しっかりした資料が出てくるのですよね。
今回はそれを翻訳....かなり専門の言葉が入ってしまい、原文の一部を抜き出して翻訳する抄訳という形を取らせていただきました。
拙い文ですが、皆さまのお暇潰しになれば幸いです。
尚、原文はこちらとなります。お時間がある方は是非ご覧ください。

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ベトナム時代の米海軍EOD

ベトナムにおける米海軍の役割は、1965 年にはサイゴン港の海軍支援活動(NSA)に配置された建設、医療、 ベトナム海軍・海兵隊の助言活動などの支援機能の小部隊から、北ベトナムから南ベトナムへの海路での兵力・物資の 流出を阻止することを目的とした「MARKET TIME 作戦」と「SEA DRAGON 作戦」を実施する大部隊へと大きく変化していた。
CTF71、およびその後のCTF115はMARKET TIMEおよびSEA DRAGON を担当し、沖合および沿岸の哨戒・ 阻止作戦を計画・実施した。
同年後半には、敵対行為の継続的な激化と内陸水路のベトコン制圧を受けて、メコンデルタやランサット特区水路の河川域への海軍の作戦が拡大し、1966 年には水路巡視の南ベトナム部隊を補完するための作戦「GAME WARDEN 作戦」が開始された。
ベトナムにおける米海軍の任務の増加に伴い、ベトナム軍事支援司令部の統一指揮下に別個の海軍部隊司令部を設置する必要があった。
1966 年、ベトナム海軍軍司令官(COMNAVFORV)が設置され、サイゴンに本部が置かれた。やがて 1968 年にはタスクフォース 116 が結成され、北ベトナムの補給ラインを混乱させ、弱体化した北ベトナム軍を孤立させて破壊することを目的とした海軍大作戦 SEALORDS(Southeast Asia Lake, Ocean, River, and Delta Strategy の頭文字をとったもの)が実施された。
このようなベトナムでの海軍軍の増強と新司令部・作戦の開始と同時に、ベトコンの破壊活動や潜水工作員による攻撃の脅威に対抗するため、海軍の EOD 分遣隊がベトナム全土の主要地域に配備されていた。
また、EOD支援はすべての主要な陸上施設や港湾にも必要とされ、陸軍や海兵隊の陸軍部隊を支援するための海軍 EODの需要は指数関数的に増加した。
ベトナムにおけるすべての EOD 活動は紛争の性質上、非常に危険で過酷なものであった。海軍のEOD担当者は、新しい独創的なタイプの兵器や即席で作られた爆薬に直面していた。即席の水雷やリンペット弾は、海軍EOD隊のお馴染みの武器となった。
ベトコンは、米軍の不発弾や拿捕された兵器から製造することができたからだ。これらの装置の多くは時限発火または手動による点火であり、様々なユニークなヒューズや回路を採用していたため、標準的な爆弾解除の手順が適用されなかったのだ。
海軍のEOD担当者は継続的に船底捜索と機雷回収活動のために、水路や港での船底捜索と爆弾の回収活動を要請された。
当初回収された爆発物の多くは、作られた爆弾から情報を得る諜報活動や、手製爆弾対策の手法確立のために安全な状態にしなければならなかった。非常に危険な状況にもかかわらず、EODダイバーはこのように回収したのだ。
ベトナムの艦底や無数の水路から数え切れないほどの爆発物が存在し、海軍EODチームはこれらの脅威に対する唯一の有効な対抗手段であったため、戦争の残りの期間を通じて不可欠な戦力となった。

しかし、ベトナムにおける EOD活動は爆発物対策に限定されたものではなかった。
海軍と海兵隊は、海軍人事局(BUPERS)に対して自らの作戦を支援するために、 EODチームを前線へ配置するように要求を強めた。
その事を反映し海軍人事局はEODグループに対し、EODチームを紛争地に配備する頻度と期間を増やして配備するよう圧力をかけた。
この事は、EODグループと部隊を支援するEODユニットの両方の人員レベルに深刻な影響を与えた。
その結果多くの海軍 EOD 技術者は、メコンデルタの河川部隊やダナン周辺の北部RVN 地域の海兵隊などの部隊と活動する際に、頻繁に敵の砲火へにさらされることになった。
EOD要員が1970年にベトナムのベンチェ省に赴くことも珍しくなかった。(サイゴン市の南西約86kmに位置する都市)
ネイビーシールズの作戦と連動してブービートラップ解除をした。彼らはまた、陸軍、空軍、海兵隊のEODと一緒に戦闘状況下で参加をした。
ベトコンの潜水攻撃によって仕掛けられた爆発物の解除にも参加していた。
EODへの要求は数多く、多様であり、それぞれの事件には独自のアプローチが必要であった。
ベトナムにおける軍のEODコミュニティの能力は一様に傑出しており、メリーランド州インディアンヘッドの訓練と技術支援プログラムに、その個々の技術や組織への大きな信頼が反映されている。
ベトナムでの停戦後、海軍EODは1973年の北ベトナム海域からの爆発物除去作戦であるEND SWEEPで重要な役割を果たした。
ベトナム戦争中海軍のEODは、現地および地域対応、有事対応、および米国シークレットサービス支援の両方で艦隊司令官を支え続けた。(EODチームはシークレットサービスを支援し、大統領の旅行先の法執行機関と協力し爆発物対処を行っている)
海軍のEODは、ベトナム戦争で日常的に空爆を行う空母と弾薬船を支援する EOD船上ユニットからの派遣も継続していた。
また1970年のナムカン運河周辺では、いくつかのEOD チームが武器処理作戦を実施していた。
ミクロネシアとフィリピンでは、第二次世界大戦中の日米が残した爆弾、大砲、迫撃砲、小火器、魚雷、地雷の清掃が行われていた。

軍事支援司令部は、タイのEOD要員に助言的な役割を果たしている。
朝鮮戦争後の部隊の人員削減に伴うEOD技術者の不足のため、またベトナムの作戦上の必要性によって生じた需要を満たすために、太平洋と大西洋の部隊で大規模な採用活動が実施された。
EOD-Recruiting Teamsは、ベトナムへの派遣の合間に陸上勤務に割り当てられたEOD技術者によって運営されていた。
プレゼンテーション、スクリーニング、およびスイムテストは、ジャクソンビルと五大湖の「学校」で実施された。
1974年中東戦争でスエズ運河が閉鎖されるまで、EOD部隊は別の大規模な作戦の参加が無かった。

. ベトナムの作戦
本部支援活動(HSA)と海軍支援活動(NSA)サイゴン(1964-1972年)

海軍のEODは、1964年にベトナム共和国(RVN)でデビューし、HSA, Saigon(後にHSASが退役してNaval Support Activity, Saigon となる)の爆弾処理班に配属されたEOD技術者の小さなチームから構成されていた。海軍はサイゴンの港を担当していた。
このチームは、首都市区(サイゴン/チョロン)のすべての爆発物の危険に対応する責任があり、陸軍第716憲兵大隊の作戦管理下にあった。チームはまた、引き揚げ、遺体の回収、小規模な水中船の修理を含む潜水作業を提供した。
チームの事務所兼作業場兼保管場所は、チョロンの海軍情報部員のための別荘の後ろにある使用人の居住区にあった。
幅約10フィート、長さ約40フィートの細長い建物で、事務所、作業場、倉庫に分かれており、保管エリア/博物館としていた。
その『博物館』は、チームが対応したEOD事件で拾った即席爆発物(IED)や米国/外国の武器の実地訓練用展示であった。
建物の外には2つのコンテナボックスがあり、1つは不活性化されるのを待っている外国の兵器が入っており、もう1つは雑多な装備品が入っていた。
同じ一般的なエリアには、大きな柵で囲われたケージがありました。その中には、チームのマスコットである12フィートのロックパイソンの「チャーリー」が住んでいた。
このようなささやかな始まりから、海軍のEODは戦争の残りの期間中、米国の作戦に大きな影響を与え始めた。
HSAS 爆弾処理班は、不発弾の処理、ベトコンのボビー・トラップや即席爆弾の解体、市内での爆弾攻撃の爆発後分析などを行った。
Vietcong_bombing,_1964

彼らの対応の多くは、陸上や都市部で行われていた。
彼らの道具は現在の基準では粗末なもので、敵の爆弾の疑いのあるものを調査するためにロボットや爆弾スーツを使うのではなく、多くの場合ハンドツールや素手での進入や遠隔操作の手順、そして多くの知識と工夫を用いていた。
このチームは毎月約70件のEOD支援の要請に対応していた。EOD技術者の一人は、対応の約半分が爆発物に関係するものだったと振り返っている。手榴弾、地雷、爆弾のような標準的な軍用兵器、または即席の爆弾やブービートラップが仕掛けられた兵器のいずれかであった。

そのほとんどは、標準的な発射回路を制御する改造時計や目覚まし時計のタイマーで構成されていた。即席の装置に安全装置が組み込まれていることはほとんどなかった。多くの場合主な弾薬は、様々な大きさのブロックに製造されたTNT爆薬で、破片を生成する榴散弾や中国製の地雷のいずれかであった。
HSAサイゴンは陸軍がサイゴンを担当するようになって退役し、1966年4月1日第1兵站司令部の到着に伴い、米陸軍 EOD がサイゴン地区の爆撃部隊としての任務を引き継いだ。
HSA サイゴンからの海軍 EOD チームはニャベ海軍基地に移動したが、その後も多くの海軍 EOD チームがローテーションして、サイゴン港での海軍支援活動サイゴンを支援する EOD 対応を継続した。
最終的には、全国の海軍EOD チームを支援する EOD技術者で構成される後方支援チームに加えて、3人で構成された2つのEOD チームが、海軍がサイゴンでのプレゼンスを維持していた残りの 8 年間、一貫してローテーションして任務にあたっていた。
これらのチームは当初のEOD施設を司令部として使用し、メコンデルタ南部から南北分断線の南にある最北端のクアントリ県まで、最大で 2 週間にもわたってベトナム共和国各地に派遣され、任務を遂行した。


ニャーベー海軍基地

ニャベーはサイゴンの南10マイルに位置していて、海軍基地の場所として選ばれた。
ニャーベーの川の堤防は、乾いた床を作るために浚渫された。
基地建設の目的は、サイゴンへ向かう貨物船を護衛するためにサイゴン川に沿って海軍と河川の存在を確立し、45マイルの川に沿って海上保安活動を行うことであった。
具体的にこの部門の海軍は、軍の海上輸送サービスとサイゴン港に大量の重要物資を輸送する友好的な商船に、ロンタウとサイゴンの航路を開放しておくことを担当していた。
COMNAVFORV(在ベトナム海上軍) に所属する海軍EODがニャベーに派遣され、PBRとSWIFT ボートを使って、大小さまざまな船に積まれた不審な貨物を識別するための作戦を実施した。
常に3人のEOD チームが存在していた。
必要に応じてEOD技術者をサイゴン川の河口域であるランサット特別区に送り込むために、ナーベーのヘリコプターパッドを使用しなければならない支援の要請が何度もあった。
海軍のEODが、特にソイラップ川とロンタウ川で、貨物船や海軍艦船を狙って河岸に仕掛けられた即席・通常の浮遊機雷や火炎爆弾を発見し、安全な状態にしたという事件が何件かあった。
ニャーベーからの海軍 EOD活動で最も有名事件は、ロシアの浮遊機雷への対応であったと思われる。
この事件は、北ベトナムとベトコンがソビエトや中国から兵器や兵器を供給されていたことを裏付ける多くの事例の一つであり、重要な意味を持っていた。以下、事件の抜粋を紹介する。
1966年米海軍ベトナム司令官には、米海軍爆発物処理チームのフランク・タラリコ中尉(米海軍)とアンソニー・オコネル中尉(米海軍)が所属していた。
1966年12月31日1200 時頃、ニャベー作戦センターは、陸軍のヘリコプターの乗組員が、ロンタウ川に浮かんでいる円筒形の物体を目撃したとの連絡を受けた。その物体はサイゴン港の複合施設に向かって漂っていた。
EODチームはすぐにオペレーションセンターに呼び出され、担当官から事件についてのブリーフィングを受けた。ブリーフィングの後チームはロンタウ川に進み、物体を調査するように命じられた。
武装したPBRリバーボートが支援のために待機していた。ジープがチーム、装備、筆記用具、ライフルを近くの漁村に運ぶために提供され、ベトナム人漁師が川岸の安全な場所に彼らを運んだ。
双眼鏡を使って観察すると、対象物を外国製の化学ホーン接触機雷であることを確認し、その事実を作戦センターに報告した。
タラリコ氏は後に、これがベトナムで発見された唯一の化学触角機雷であると述べた。
オペレーション・センターはPBR の無線を介して、EOD チームに安全な状態にするための情報を伝えた。
PBRの乗組員は川の両側を見張り、敵からの攻撃に遭遇した場合EOD チームを支援回収する準備ができていた。
チームは機雷まで泳いで行き確認した後、武装したロシアの MKB 化学式触角機雷であることを確認した。彼らはアンカーワイヤーが切断され、擦り切れていることに気づいた。触角はすべて無傷で、触角カバーガードが取り付けられていた。
彼らは吊り上げ用リングの一つに長いロープを固定して、機雷を岸に近づけて慎重に曳航した。これにより作業を開始する前に、泥の上に立って安全な足場を確保することができるようになった。

タラリコはPBRに電話して作戦センターに機雷の識別を通知した。この種の機雷はベトナムで発見された唯一のものであり、安全を確保する準備ができているとのことであった。
タラリコはPBRに、チームが回収の準備が整うまで安全な距離を保つよう指示した。PBRが数百ヤード離れたところで待機していたにもかかわらず、彼らはまだ危険を感じていた。
EODチームは触角機雷の隣で水中におり、ベトコンが潜んでいると思われるジャングルから丸見えであった。機雷はフジツボで覆われ、水銀スイッチプラグとブースターカバープレートは錆びていた。チームはブービートラップを警戒しながら、カバープレートを壊すためにレンチに圧力をかけなければならなかった。このエリアは安全ではなく川の真ん中で作業していたので、できるだけ早く安全に機雷を解除しなければならなかった。
ブービートラップがないか慎重にチェックしたが、何も見つからなかった。
チームは慎重にブースターのカバープレートを取り外した。それを取り外すと、起爆装置を固定しているスプリングの圧力で起爆装置が突然押し上げられ、彼らは心臓を飛び跳ねるほど驚いてしまった。
タラリコは慎重に起爆装置とブースターを引き抜き、リード線を切断してテープで固定した。
PBRへ機雷を巻き上げるように呼び、乗組員の助けを借りて彼らは慎重に機雷を巻き上げた。彼らは機雷を防水シートで覆い基地へ帰還し、機雷とブースターはドックに積み込まれた。
ブースターと機雷は、後にメリーランド州インディアンヘッドのEOD学校に運ばれる事となり、後にスタンプネックでの水中兵器実地訓練に組み込まれた。
この機雷がどのようにしてそこに到達したのか、スタッフとチームによってブリーフィングが行われた。機雷はフジツボで覆われていたし、アンカーワイヤーが切断されて擦り切れていたので、機雷はアンカーから抜けたか、または船のスクリューによって切断されたと推測された。
この機雷はベトナムで発見された最初で唯一の外国産の化学式触角機雷であった。ロンタウ川で発見された他の機雷は、遠隔操作で起爆されたものや、船舶に取り付けられた粗悪な装置でタイミングを計って起爆されたものなのであった。
このチームは、ベトコンのはびこる危険地域にあるロンタウ川から機雷を発見し、安全を確保し、撤去したことを評価された。これはオコネル中尉のEOD学校卒業後の初のEOD任務であった。
タラリコ中尉にはブロンズスターが、LTJGオコンネルには海軍表彰メダルが授与されました。

河川機動部隊(オペレーションズゲーム・ウォーデン、シーロード )

海軍のEODは GAME WARDEN 作戦に参加し、ベトナム共和国海軍(VNN)を支援して RAN 水域の海上保安活動を行っていたが、1968年10月8日に始まった SEALORDS 作戦の開始に伴い、河岸戦争に影響を与えるようになった。
最低でも3人編成のEODチーム2チームが常にRiverine Flotilla ONEに割り当てられ、彼らは司令部の巨大な海上基地に取り付けられたはしけで生活し活動していた。
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彼らの任務は、海軍の河川部隊と海上封鎖部隊、第9歩兵師団第三大隊、ベトナム共和国海兵隊、ベトナム共和国陸軍、陸軍レンジャー、および一般部隊にEODと潜水支援サービスを提供することであった。
河川部隊を支援するためのEODの戦術的運用として、パトロールを行うボートとの緊密な連携が含まれていた-これらのボートはマインスイーパー(爆弾の清掃屋)として指定された。
技術者で編成されたチームは、河川中隊のPBRパトロールや掃海艇に乗り込んで特定の任務に同行し、河を航行する”貨物船団”が目撃した陸、岸、水中にある不審物の識別を行うほか、 掃海作業でそれらの艇を支援する。
兵士や海兵隊を上陸させるための作戦が進行中であった場合、掃海艇は上陸作戦中に支援艇へ転換し、海軍のEODは遭遇した危険な爆発物を除去するために、前線または浜辺への呼び出しを受けるために待機していた。
ナムカン運河の作戦地域では、いくつかのEOD分遣隊が南ベトナムレンジャーと共和国海軍水中任務大隊(VN海軍のEOD中隊)と共に一貫して投入された。ナムカンはベトナム共和国の最南端に位置しており、戦争中ずっと熱い戦いが繰り広げられていた。
多くの場合海軍EODは、RIVFLOT ONEによって上陸した陸軍のパトロールに同行した。
EODオペレーターはパトロールを支援するために、ブービートラップの無効化、不発弾処理、バンカーの破壊を行った。また、ドンタムにある RIVFLOT ONEのEOD分遣隊とミートーにある川下の SEAL 分遣隊との間では、カンボジア国境に近い場所で活動するベトコンと北ベトナム軍が潜伏する地域の識別と破壊を行うための調整が頻繁に行われていた。
また他の戦域と同様に、RIVFLOT ONE に所属する海軍 EODは、浮揚していた基地と水上艇(PBR や SWIFT ボートなど)の水中船体チェックを毎日実施した。複数の証言によると、RIVFLOT ONE に配属された EOD 技術者は、ベトコン部隊がアンカーチェーンを引っかけたり、基地や水上艇に直接影響を与えるような浮動機雷を使用した攻撃へ対処した。
これらの爆発物は、ビニール製シートに包まれたプラスチック製の爆発物で、電気発破の雷管が取り付けられクレイモアの起爆スイッチを使用し遠隔操作で起動されることが多かった。

海軍支援活動(NSA)ダナン

サイゴンに最初の海軍EOD チームが設立されて間もなく、EOD技術者が北部のダナン市で雇われ、米海兵隊第1アムトラック大隊とⅢMAF(海兵遠征軍)を支援し、解体作業、河川での危機対応、第1軍団の北方戦域と DMZ(クアベト川)全域での要請に応じた対応を行った。
ダナンは米海軍支援活動の最北端で主要な航空基地であり、また北ベトナムとの境界線のすぐ南にある最北端のクアントリ省への活動のための拠点として重要な役割を果たした。
ダナンに継続的に派遣されたチームは、複数の部隊と一緒にパトロールを行い、前線と方面軍の両方の IED 通報に対応した。
この地域におけるIED攻撃は最大の脅威であり、米国製対戦車地雷や砲弾から即席で作られた物も存在し、これに遭遇した場合には速やかに安全が確保された。
このIEDの中には、対大型車両用の成形炸薬弾が組み込まれているものもあった。
ダナンの海軍EODチームはベトナム共和国の他の地域と同様に、ダナン川に浮かんでいる遺体にブービートラップや武器がないことを確認するため頻繁に招集されていた。ダナンのチームは地形の制約から、第一軍団の作戦区域内の移動は主にヘリコプターを使用した。

STABLE DOOR作戦

ベトナムにおける米軍の活動の鍵を握っていたのは、ブンタウ、ダナン、キホン、ニャチャン、 カムラーンなどの海港であり、これらの海港からは装備品、物資、兵力、援助が流入していた。
各港には米海軍支援活動があり、各NSA にはこれを支援して船体・桟橋捜索、IED 対応、不発弾対応を行うための最低3人のEOD分遣隊が所属していた。
しかしこれらの EOD 分遣隊はいずれも需要が高く、隣接する陸軍または海兵隊を支援する任務に就く傾向があった。これらの分遣隊のいくつかは任務遂行能力を高める為米海軍のダイバーに支援され、一方で EOD チームのメンバーは、直近の港湾地域外の行動を支援する任務に就いていた。
これらの港での港湾警備は通常、敵の吸着爆弾や浮動機雷がないことを確認するために、味方船(輸送船や軍艦)のアンカーチェーン、スクリュー、舵などを含めた夜間潜航を行うことで構成されていた。
EODはまた、Quin Nhonのような陸上施設に電力を供給する発電機船の捜索も担当した。
船のチェックに加えてEODは、緊急での潜水任務の要請に対応し、港周辺の不審物を発見し、水路に漂着した友軍の遺体やベトコンの遺体を回収した。またNam Can の分遣隊は、近くの河川の掃討を行う地元部隊を支援するために、敵潜水部隊の潜水作業を妨害するための爆弾を10~12個ほどを投入し、川の上や下の方で爆弾を船外に放り投げるという任務を一貫して担当した。

これらの分遣隊は、南シナ海や河の上で撃墜された米軍機を探し出して引き揚げるために多くの対応を行った。これらの任務は長時間にわたり大変困難であったが、その目的には実際の航空機の回収に加えて、水中での武器の回収と廃棄、フライトレコーダーの回収、情報収集が含まれていた。
特筆すべきはブンタウに駐留していたEOD部隊であった。
ブンタウは海岸に沿って南に位置しているため、当初は比較的脅威の少ない港であると予想されていた。
NSA Vung Tau は米海軍EODチームの代わりにオーストラリア海軍クリアランス・ダイブ・チーム3(CDT-3)を配属し、オーストラリア海軍は戦争中いくつかの EOD チームをローテーションして港に派遣した。
ダウンロード (1)
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しかし戦争が進むにつれ、ヴンタウは何度もベトコンの標的となり、CDT-3 は EOD の仕事で忙しくなった。
またサイゴンやニャベーにある米海軍 EOD 分遣隊とブンタウにある CDT-3 分遣隊との間では、一貫した交流が行われていた。

ダナンとカムラーン湾
エンドスイープ作戦 (1973)


「ベトナム化」における海軍EODの役割:RVN EOD技術者の形成

1968年にニクソン大統領が当選した直後、米国は「ベトナミゼーション」と呼ばれる政策を追求し、南ベトナム人へ戦争の責任を移すことで、米国が戦闘部隊をベトナムから撤退させることを可能にするようにした。
このことはベトナム共和国軍(RVN)を訓練し独自に作戦を実行させるために、米国が訓練をさせ軍備をさせる事を意味していた。
海軍のEODはこの新しい政策から免除されることはなく、国内の他のほぼすべての部隊と同様に、ベトナム海軍のメンバーをEOD技術者として訓練し始めた。その任務はベトナム海軍(VNN)の EOD 能力を確立し、戦争に従事する部隊を支援し続けるために隊員を訓練することであった。
この取り組みは、米海軍がキャット・ライ(サイゴンの北 50km)で VNN-Underwater Missions Battalion を訓練することから始まった。
この大隊はL.D.N.N、EOD、潜水士の中隊で構成されていた。この大隊はベトナム化を加速させる政治的圧力のため、訓練が激しく行われた。
RVN将校によって大隊に派遣された多くの志願者達は、他の場所での軍での勤務を拒否されてしまった。だが海軍のEOD顧問は、現場で英雄的な行動をした志願兵たちを部隊に確保し続けた。
長い間大隊のVNNメンバーは、アメリカ軍の作戦を支援するために現場に送られていた。その後、比較的治安の良いカムラーン湾へ学校が設立された。米海軍SEALs、UDT、EOD、ダイビングチームから教官が派遣され、カムラーンのキャンプで水中任務大隊のVNNメンバーを訓練した。
これにより学生の実践的な経験と卒業生の処理能力を向上させ、現場での実際の作戦を実施する能力を促進したのだ。このキャンプは「リン・ヌイ・ヌイナイ-Lin Nui Nuinai-」と呼ばれた。その言葉の意味は、文字通り「カエル達の集まり」であった。
最終的にほぼすべての海軍EODチームは、RVNのEOD技術者と何らかのレベルの調整やサポート関係を持つようになった。


Joint and combined operations and relationships

ベトナム戦争中海軍のEODオペレーターは、様々な合同部隊や統合部隊の支援に従事した。
EODチームはある日、指定された戦術司令官を支援するために活動していた。
任務を終えた後ヘリコプターで他の師団の作戦区域に移動し、米国または外国の陸軍または海兵隊の部隊を支援する。
一般的に海軍EOD部隊の作戦戦術統制を持つ指揮官は、現場のARVN歩兵ユニットから支援されたVNN EODチームを支援していた。隣接する司令部は、EODの活動に対して非常に寛大であった。
これは、作戦区域全体の即席爆弾や不発弾からの脅威があったという事実が主な原因であり、存在する爆発物の危険性を適切に無力化して処分するためのEOD技術者を欠いていたからだ。
このため場当たり的な任務が一般的となり、EODチームへは直属の指揮系統を超えて任務や作戦を調整する大きな柔軟性が与えられていた。
前述したように海軍 EOD が実施した共同作戦の中には、上陸作戦時の第9歩兵師団を支援する河川作戦、陸軍と海兵隊の歩兵パトロールを支援する任務、陸軍と空軍の捜索・救助、撃墜された航空機の回収を支援する任務、ダナン周辺でUSMC第1軍団を直接支援するEODMU チームなどが含まれていた。EOD技術者はドンタムの陸軍基地にも派遣され、不発弾が埋まる港での浚渫作業を支援した。
海軍 EODの任務は、追加された潜水能力と地雷対策能力を除いて他の任務と同期していた。ベトナム戦争期間中に可能な共同作戦を支援するために、海軍EODは考えられるほぼすべての任務を実施していた。
興味深いことに、ベトナム戦争では海軍のEODによって多くの共同作戦が行われていたにもかかわらず、国内の陸海空軍 EOD チーム間との意図的な調整はほとんど行われていなかった。多くの場合、これらのEODチームが同じ任務(例:破壊された弾薬庫の安全な処分)で互いに並んで作業しているのを見かけることがあったが、ベトナム戦争でEODの運用を管理する共同組織が存在しないため、各EODチームは、EOD部隊を持たない隣接司令官を支援するために短期的な任務を受ける場合を除き、作戦上の指揮系統と直接連携している傾向があった。

海軍 EODの作戦機動グループは、共同作戦と同様に戦争中に広く行われていた。前述したように、多くの海軍 EOD 技術者は軍人として各国に派遣されていた。
ベトナム海軍 EOD 隊員を訓練して運用するためにアドバイザーとして派遣された。戦闘環境下でのベトナム海軍EOD部隊の訓練と横並びでの作業に加えて、海軍EOD要員は韓国のクリアランスダイバーと連携して数多くの任務を遂行した。
戦時中海軍 EOD が関与した作戦上の関係で最も記憶に残り重要なものは、ヴンタウを拠点とする オーストラリアのクリアランス・ダイビング・チーム 3(CDT-3)との関係であろう。オーストラリアの CDT-3 チームは、HSA(当時は NSA)のサイゴン爆弾部隊と一貫して人的交流を行っていた。
戦争の初期、ベトコンがまだブンタウまでの南部方面への展開をしていなかった頃、米海軍の EOD技術者はブンタウでの滞在が歓迎すべき安心感と捉え、CDT-3 の要員はニャベやサイゴンでの活動へ近づけることに興奮していた。

Tactical encounters

本部支援活動(HSA)と海軍支援活動(NSA)サイゴン

米海軍(退役軍人)LCDR E.L.マクダニエル・ジュニアより

サイゴンでは、複合資材開発センター(CMEC)へ我々は常に技術支援を提供する準備をしていた。
私とロバーツ曹長は、VC が攻撃した弾薬供給地点(ASP)で働いていました。
VC が攻撃する前に 24万個の40mm グレネード弾が入っていたパッドで、私は4 時間のシフトで働いていたのです。
海軍、陸軍、空軍のEOD要員が私のために働いてくれていました。
また空軍は、海軍のEODチームにタイのムーンリバーでの作業を依頼しました。ウードンからのF-4が、満載した爆弾をムーンリバーへ投棄していました。投棄した場所浅瀬で、原住民はその地域で漁を営んでいました。
ニャーベーでは、私たちはランサット特別区域でVN海兵隊と一緒に働いている米兵のアドバイザーをサポートしました。
ブービートラップと爆弾の問題に加えて、我々はVCのバンカーを破壊しました。

マイケル・ダーマー 米海軍退役軍人より

私がそこにいた間にチームが対応した作戦、事件、状況を分解してみようと思う。
私はベトナム軍事顧問司令部海軍顧問グループ(NAG/MACV)に配属された。
私のHSAS チームのメンバーが米国へ交代で行ってしまい、 LTJG マコーネル、CS1 マクマホン、DC1 サンティノ、EM2 シモンズが数か月後に到着するまで、私は国内で唯一のPCS海軍EOD 隊員であった。
米海軍EOD チーム、HSAS、RVN は毎月約70件のEOD 支援要請に対応していた。そのうちの約半分は、手榴弾、地雷、バルク爆弾などの標準的な軍需品である爆発物に関するものであった。一部は米国製のものもあったが、外国製のものはほとんどが中国共産党、ロシアソビエト圏の国々であった。IEDもまたこれらの事件の大部分を占めていた。

IEDは粗雑な造りで洗練されておらず、ほとんどが標準的な電気発射回路を制御する改造時計/目覚まし時計のタイマーで構成されてた。これらの装置には安全装置など組み込まれていなかった。
主な装填物は、1キログラムのチコムTNTブロックを様々な大きさのバルク装填物にしたもの、MDH10チコムクレイモア地雷、および様々な種類の自家製榴散弾を発生させる爆発物であった。ここでは、チームが対応したコールの一部を紹介する。
走り去る車から投げられた麻袋は、米国大使館員が住んでいるコンクリート製住宅の壁の横へ落ちた。BM1ダーマー/EN2ティールが電話に出た。麻袋の片側を切り開いて中を見ると、中身は犬の死体。
これはベトナムでの2日目の夜、私の最初のEODコールだった。

ロビーにブリーフケースが放置されていたとブリンクスホテルから電話があり、Ltローナンが対応した。
革のブリーフケースの側面を切り取り中身を確認していた所、そこへある陸軍大佐がブリーフケースを探して近づいてきた。
ホテルのチェックインの時に 机の横に置いてきたとの事。ブリーフケースは奥さんからのプレゼントだったので 彼は怒り狂っていたが、憲兵がなんとか大佐を冷静にさせる事に成功した。
これは米国の施設に爆発物を配置するための標準的なVCの戦術だったので、荷物や荷物などを放置しないように彼に伝えまた。

サイゴンの端で発生した小規模な爆発事件。IEDが韓国人、タイ人などの外国人が普通に使用していたバス停で爆発したのだ。死傷者はベトナム人女性と子供だけだった。自転車で配達された爆発物の中心部に釘、ナット、ボルトを詰めた野菜缶と考えられ、タイマーで起爆した。


HSASチャプレンの事務所から電話があった。
到着するとベトナム人の電気技師が天井の開口部の下の椅子へ座っていた。彼は天井の狭いスペースの配線工事のために呼ばれていたが、上に上がって開口部から天井の中を見た後、下に降りてきて作業を拒否した。
チャプレンのアシスタントの質問に「それが入っている間は上がらない」と答え、開口部の下の椅子へ座り続けた。
LTjgローナンはそれを見て状況を把握し、代わりに開口部を覗いてみることにした。ネズミかヘビがいるかもしれないと思った。しかしそうではなかった。その代わりに、重さ約21/2-3キロのIEDがあった。
VCのIEDにしてはかなり洗練されていて、よくできていた。解体してみると、電池、電気起爆装置、改造した腕時計のタイマー用のホルダーが2つ並列に接続されており、整然と配置された電気回路が発見された。
まだこのIEDにはタイマーは取り付けられていなかったのだ。この解体作業の間、ベトナム人の電気技師はベンチに座ったまま待機していた。彼はどうしてもこの配電工事がやりたかったのだろう。

もう一つの標準的なVCの攻撃方法は、車に爆薬を積んでアメリカやRVNの建物に近づけて、タイマーをかけるか、手動で爆発させることであった。
フォルクスワーゲン・ビートルがRVN政府の建物に隣接する駐車場に突っ込まれ、運転手が逃げ出したとの連絡を受けた。現場に到着すると、新車のフォルクスワーゲンが放置されているのが発見された、それを憲兵が周囲を取り囲んでいた。
EODチームが車両に接近し、強制進入が適切であると判断した。我々の工具箱には5ポンドのハンマーが入っていた。Ltローナンはすぐにそれをフロントガラスに降り降ろした。
車内を見渡してみると、ブービートラップのような装置は見当たらない。フロントガラスの穴に手を入れ、運転席のドアのロックを解除し、慎重にドアを開けた。
その時、怒った米軍属の民間人が駆け寄ってきて、何が起きているのか教えてくれと要求してきた。壊れたフロントガラスを見て、彼は顔を真っ赤にして怒っていた。
彼はアメリカの援助任務に就いていて、ワーゲンは彼のものだったことが判明した。近くのビルで英語を教えていて 授業に遅刻し大慌てで飛び出したとの事だ。 結局爆発物など発見されず、Ltローナンがお騒がせ男をぶん殴る前に、憲兵がその場を鎮めた。

タンソンナット空軍基地の正門で要請に応じ出動したが、幸いにも爆発による死傷者はなかった。
現場調査の結果、中国製 MDH-10地雷が正門から約80フィートのところで爆発したことが判明した。
この地雷は木の根元に向けられていた。もしMDH-10が左右 6フィートの位置に仕掛けられていたら、米国と RVN の軍人と民間人がゲートを出ようとしていた退場時間に起爆のタイミングを合わせていたので、死傷者は多かっただろう。
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LTJG ローナン、BM1 ダーマー、ABF2 レヴァックは湖での遺体回収のためにプレイクに向けて出発した。
米軍兵士が溺死したので、身元確認のために遺体を回収したいとのことであった。その要請はプレイクのマーシャル憲兵司令官から来ていた。
チームと私たちの装備はプレイクの空軍基地に運ばれ、マーシャル憲兵司令官が私たちを湖に連れて行ってくれた。そこには、数人の乗組員と陸軍のAPCがあった。
前日掃討作戦に出た後、彼らは湖に来てかなり暑かったので、泳ぎに行くことにしたのだ。そのうちの一人が湖に走って入っていったが、一度も上がってこなかった。
湖は古い火山性のクレーターで、湧き水で満たされていて、岸から急に深くなっていた。
レヴァックとダーマーはSCUBAギアを使い捜索を開始した。水はとても冷たかったが、5分ほどで遺体を発見した。遺体が水の中にいたのは2日目で、すでに体のかなりの部分が泥で覆われていた。水の冷たさと湧き水の作用でかき回された沈泥が重なって、これまで遺体が発見されなかったのだろう。
私たちは彼に縄をつけて、水面に引き上げた。水深は約30フィートで、岸から20フィートの距離だった。

黒の不審車両の捜索のためのEODサービスの要請があった。
LTローナン、BM1ダマー、他2名が対応した。
車はBien Hoaに向かう高速道路を約10-12キロ走っていたとの事。暗くなってから高速道路は安全ではなかったので、2人の憲兵が乗ったジープがチームに同行した。赤と緑のトレーサー弾が頭上を飛び交っていた中、車を捜索したが爆発物は見つからなかった。
サイゴンに戻る途中、ホ・ゴック・タオ地区の特殊部隊「B」キャンプに立ち寄った。
私たちは彼らの迫撃砲射撃場を試験用射撃場として使用し、彼らと良い関係を持っていたのだ。
彼らは特殊部隊「A」キャンプのいくつかでEODの援助を求めてきたので、我々はそれを提供した。彼らはまた、VCがここ数日の夜に非常に活発に活動していると言い、もし我々がまたその道を通る必要があれば警備のためにストライカー分隊を数人提供してくれると言っていた。
ビールを飲んだ後、私たちはサイゴンに戻った。

サイゴンのウォーターフロント/ドックエリアのバーで爆発。BM1ダーマー/EN2ティールが応答した。
残留物(ストライカー/グレネード・スプーンを覆うキャップ)から、F-1チコム手榴弾がバーに投げ込まれたと判断された。
手荒い事件の可能性があり、他の爆発物は見つかっていなかった。
これは陸軍のCID職員との初めての対決だった
この男は私の顔にIDカードをちらつかせて、自分がMr.〇〇だと言って何が起こっているのか知るように要求し続けた。新米だった私は陸軍との事件を起こしたくなかったので、なんとかその男をなだめようとした。
彼は将校のような態度で大物だと思っていたようだ。私は興奮して、何度も何度も礼かんしゃくを起こしそうになった時同僚のティールが私を助けに来て、男に立ち去るように言った。"ディッキー "は以前にも彼らに遭遇したことがあり、私と同じような経験をしていたのだ。大多数はろくでもない連中で、民間人の服を着てCIDカードを持っていた。私は二度と遠慮する事は無かった。

爆発が起きた全ての事件で、チームは常に他の爆発物を探していた。救助隊員や爆発事件に集まった群衆を狙い、VCは複数の爆弾を用意していたのだ。それらには MDH-10地雷が使用されていた。

ある時私たちのチームに、ヘリコプターの回収作業が課せられた。
兵士を載せたヒューイヘリコプターが墜落してへ川に沈んでしまい、トランスミッションとローターブレードを連結するアイボルトと、墜落したヘリコプターの回収の要となる大きなフックが水面上にあったのだ。
遺体はまだヘリの中にあり、遺体の回収と身元確認のために手配されようだ。
この作業には多くの問題があった。
1) エリアが安全ではなかったこと
2) チームと装備が墜落地点から約1マイル上流に降ろされた
3) 水の動きが速く、墜落したヘリの少し下で川が狭くなり急流になっていたこと
LTローナン、BM1ダマー、他のチームメンバー1名で対応した。
彼らは7人乗りのゴムボートにパドル、SCUBAタンク、スイムギア、個人的な武器を持って行った。
計画は以下の通りであった:
1) 上流でヘリコプターへ乗り込む
2) 下流で墜落したヘリのところまで移動する、
3) 回収ヘリ「フライングクレーン」の到着を待つ
4) 回収ペナントを下降したヘリのアイボルトに引っ掛ける
5) 下降したヘリからゴムボート移動させる
6) 急流のすぐ上の岸移動し、ヘリに回収される
というものであった。これだけのことがあって、何も起こらなかったのは驚きだった。
唯一の現実的な問題は、回収ヘリが墜落したヘリの上をホバリングしている間のダウンドラフトによるものだった。回収用ペナントを取り付けるのが 非常に困難だった。
ヘリの中には死体が無かった。近くの川岸の泥中にあった足跡は生存者を示していたが、誰かが脱出したかどうかは分からなかった。
これらは、私がHSAS EOD チームに配属された4ヶ月間に起こった事件のほんの一部である。

ニャーベー海軍基地
ナムカンベイ

米海軍退役軍人 デヴィッド M. ロイスターより

ナムカンの基地から、我々は陸軍に潜水作業支援をするために、カ・マウに飛んだ。
その地域の陸軍顧問への補給をする輸送船は、毎回機雷に見舞われていた。
カ・マウに到着すると、陸軍の連絡係が私たち(私とPO2ラルフ・ポーター)をVN海軍のトゥータ(中佐)に引き渡して、彼が要求するものを見せてくれた。私たちはそこに着くまで十分なブリーフィングを受けていなかったので、大した装備も無く到着してしまった。
トゥータは、貨物船護衛ルートから半マイルほど離れたところにあった、沈没したPBRから20mm砲を撤去してほしいと言っていた。
私は彼にスキューバボンベの空気が少ないことを説明したが彼はしつこく、仕方なく私たちは潜って彼の銃を回収した。
私たちが潜水から浮上していたとき、陸軍前哨地のための建物の物資を持って北に進んでいるマイクボートの船団が見えた。
私たちがダイブボートに乗り上げたとたんに、ドーン!と爆発音が鳴り響いた。海雷が鳴り響き、マイク8号(長さ70フィート)が水面から浮き上がり、爆風によって空中を飛び交う死体が見え、何人か吹き飛ばされて岸へ叩きつけられていた。

機動リバリン部隊(Operation GAME WARDEN と SEALORDS
退役軍人スティーブ・ウェルズ中尉より。

デルタ地帯で初めて撃たれた時は、赤と緑の両方のトレーサーを使った自動小銃からの攻撃を受けていた。
我々は運河を出て、メコン川の本流に停泊していた。
その運河で拾った危険物を爆破するために、我々はPBR乗っていたが、水着だけ着ていて他には何も持っていなかった。
私たちは銃撃から十分に離れていたので、トレーサーは私たちに当たる前に燃え尽きていた。それでもし万が一私が撃たれるなら、それは運だろうと考えた。
マッチョなジョン・ウェイン風にやられてもいいと思っていたのを覚えているが、空から無差別に降ってくる銃弾にやられるのは全く嫌だった。だから私は船尾まで歩いて行き、ヘルメットと防弾チョッキを手に入れて、チームが作業している船首に戻った。
彼らは私を訝しげに(あるいは何か別のことを考えて)見て、何も言わず、作業に戻った。私は恥ずかしくなり、ヘルメットと防弾チョッキを棚へ戻した。
さて、ARVNはある色のトレーサーを使い、VCは別の色のトレーサーを使っていたのではないだろうか?双方から撃たれていたとしたら、なかなか無い経験ではないだろうか。

退役軍人スティーブ・ウェルズ中尉より

ある日の事、ある所から仕事のために来てほしいとの電話があった。私はそれが、余剰兵器の山を爆破することだと思った。
私たちがヘリを降りたとき、そこに居た上級士官が「仕事をするために何が必要か」と尋ねてきた。
ブービー・トラップで埋め尽くされた草原へ、2機のヘリが墜落したと彼は説明した。私たちは彼に、万力グリップ、テープ、ペーパークリップ、また他のワイヤーを切るるように頼んで、私たちは草原に向かった。
畑のあちこちに散らばっていた仕掛けは、杭にテープで固定された手榴弾だった。手榴弾のピンから別の針金まで、約10フィートの針金が伸びていた。
ヘリが背の高い草むらに着陸するとスキッドが杭に繋がれたワイヤーを押し下げ、手榴弾のピンを引き抜く。手榴弾が起爆しヘリを撃ち落としてしまう。
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最初のヘリコプターが墜落したとき、2番目のヘリコプターは支援のために着陸しようとしましたが、また墜落してしまった。
すべての装置が発見されれば、解決は容易であった。
私たちはまだそれらを「ブービー・トラップ」と呼んでいた。ほとんどは機械的に単純な装置で、一度見つけたら簡単に解除できた。ほとんどは野戦部隊が発見したもので、十分に厄介で複雑なものであれば、我々は呼ばれた。
多くは米軍が捨てたゴミを使って作られていた。VCがお気に入りの装置は、廃棄されたクレイモア地雷からワイヤーと手動起爆装置を使ったものだった。
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アメリカ海軍退役軍人スティーブ・ウェルズLTより。

RVNのファイヤベースはしばしば三角形の形をしていて、各角に見張り台がありました。
この事件は、一つの角の見張り番が眠ってしまったか、他の方を見てしまった時に起こりました。
VC は基地に潜入して、多くの砲弾の雷管の収納庫へC4を詰め込むんだり、ベッドの下へ爆弾を仕掛けたりする十分な時間があった。爆発の後には、多くの不発弾や不活性の弾薬を含む大きな混乱が残されていました。私たちは混乱を一掃するために召集されました。

ローレンス・E・ローナンより

SEALはドンタムから川を下ったミトーに居た。私は彼らと接触することはほとんどなかった。しかし、彼らはボーボー運河(カンボジア国境からデルタを横切って延びている)を泳ぎ、水中に隠されたチコム迫撃砲弾の大規模な貯蔵庫を発見した。
我々はその貯蔵庫を爆破するために飛んでいった。話せば長くなるが、楽しいこともあれば、嫌なこともあった。彼らのサポートボートも素晴らしかった。
私たちは最終的に陸軍のヘリ支援の優先順位は、仕事に行くまでには非常に迅速だが、仕事が終わったときには悲惨にも後回しにされるということを知って帰還した。

CDR ローレンス・E・ローナン(退役軍人)より

河川での即席地雷は、通常遠隔操作による起爆地雷であった。自家製の装置で中には信じられないほど巨大なものもあり、海岸線に沿って設置され土手に埋められていた。潮が引くとその堤防がかなり高くなってた。
作戦担当者の話では、ヘリコプターパイロットがワイヤーを見たとのことでしたが、その時にはワイヤーを見失ってしままった。捜索すると、55ガロンのドラム缶の中へワイヤーが繋がっていた。

米海軍退役軍人デビッド・ロイスターCWO-4より

UDTとの作戦で、ジャングルの奥深くでロシアの魚船を発見した。我々の指揮官は、PO2ポーターと私、そしてナムカムのUDTチームのメンバーがヘリで魚船に潜入し、船の乗組員を殺害し、ドアやハッチのラベル、装備品などから、あらゆる情報データを入手することを決定した。
乗船後、我々は何一つ銘板やラベルを見つけることができなかった。
漁船は経済支援対策で人工漁礁を作るために持ち込まれ、ラベルなどがきれいに剥ぎ取られていたのだ!
私たちはトロール船の近くのランディングゾーンを作るためにチェーンソーを運んだが、その地域の木はあまりにも硬すぎ歯が立たなかった。結局数百ポンドのC-4を船体に沿ってセットした後、私たちは来たのと同じヘリコプターで帰還した...

退役軍人デビッド・M・ロイスターより

SEALとの作戦も同様に刺激的だった。彼らはデルタの奥深くにある兵器製造施設を破壊するための「非常に優れた情報」に基づいた作戦に、PO2ポーターと私に同行するよう依頼してきた。
強力な海軍の砲撃支援の後ヘリで突入したが、泥や水田運河などを1時間も歩き回った後、我々は間違った場所に突入したと判断した。即座にヘリに戻り正しいエリアへ侵入した。
運河を歩いていると、小さな村落に出くわした。住人へ出てくるように説得した後、彼らはSEALの通訳に尋問されたのだが、これがそんなに大した情報ではないことが分かったのだろう。我々はさらに歩いて、最終的に海軍のヘリで基地に戻された。

CWO-4 David M. Royster, USN (Ret)より

EODMU-1チーム(EOD機動チーム)34 に所属していた時、私はEODMU-1チーム36へ同行するために選ばれた。
私たちのPBRやスイフトボートがソンボデ川河口のエリアに近づくたびに、多くの敵の射撃を受けた。
沖合に停泊した第二次世界大戦型の平底の上陸用舟艇へに集合して、空軍のジェット機による最小限の空爆の後、私の31歳の誕生日の朝7時に川の南側に上陸し、作業を開始した。
水辺に沿って作られたバンカーを安全確認して爆破をした。
C-4の使用に加えて中へCS-2(催涙ガス)の袋を置いて、もしVCが戻ってきてバンカーを掘り直そうとしたらガスが漏れ出すように置いておいたのだ。
CS-2の袋は紙製で、それをできる限りたくさん運んでいた。それぞれのバンカーで全員で袋を地面に投げて、ブービートラップがないかどうかチェックしてから、次の場所に移動した。
進んでいくと私の後ろの人たちが、みんな目をこすりながらガスのことで悪態をついていた。次のバンカーで、私が持っていたCS-2の一つに穴が開いているのに気がついた。

海軍支援活動(NSA)ダナン
ラリー・S・ハートより

ダナン川で多数の遺体が浮いているとの通報に対応した。遺体へ仕掛けられたかもしれないIED/病原体をチェックしなければならなかった。
また要求に応じて、定期的に船底検査活動を行っていた。IEDと疑われる紐で浮いている物をチェックするように要請されていたのだ。
敵は米軍の対戦車地雷と不発砲弾を頻繁に使用していた。ジャングルが密集していたため、リモートコントロールされた起爆装置かブービートラップの使用率が高かった。
最近制圧されていた小型の飛行場をチェックするために陸軍から支援要請を受け、ヘリでチームをその地域へ飛ばした。敵の攻撃の後6、7機の飛行機がそのまま残っていたため、IEDやブービートラップが仕掛けられていたと疑われた。任務を遂行しましたが、危険は無かった。他にも同じような作戦が続いていた。

私たちが救援したチームは、MK82爆弾を発見したUSMC歩兵部隊から救援を要請された時に、異常事態を経験した。米海兵隊歩兵部隊がチームに同行した。
最初の偵察の後、チームは計画を確定するために100メートル後方に戻った。計画を立てて現場に戻ると、MK 82 は消えていた。Mk82は500ポンドの重さがありぞっとするほど危険な代物なので、これを引き上げるのには複数人以上の敵軍が必要だった。彼らが海兵隊との銃撃戦/アンブッシュよりも、成形炸薬弾が欲しかったのは非常にラッキーだったのだろう

別の事件は68年4月か5月にNSAと第3海兵隊水陸両用部隊(3 MAF)の第1アムトラック大隊を支援する第1海兵隊で発生した。
敵の砲兵とNVA部隊(北ベトナム軍)は我々から20マイル以下の距離にいた。敵の130mm砲は常に危険であり、海兵隊員と海軍要員はほとんどの時間、可能限り壕へ隠れるようにしていた。防弾チョッキとヘルメットは必須品だった。
敵の弾が海兵隊の105mm砲の1つに当たり、105mm弾薬と白燐弾の薬液が漏出してしまった。それ以外にも部分的に爆発した砲弾とヒューズを含む非常に危険な状態で、爆心地に散らばってしまった。
私たちは危険な爆発物を処分する仕事をしている間、味方の大砲は発砲停止状態に置かれた。これは敵の砲撃を受ける危険性がある中、味方の105mm砲を使用できる状態にする事が優先されたからだ。
私とチームメンバーは危険な爆発物を処理し、インパクトエリアから撤去し、適切な解体場所へ移動するために進んだ。
時折降ってくる敵からの砲撃の合間を、隠れるようにしながら作業が進められた。作業を再開したとき、私から20~30mの所で敵の砲弾が炸裂し、私は脳震盪を起こして軽傷を負った。
この砲弾は我々のチームメンバーPR1のジェリー・ウィニンガムの隣に落ち、彼の足を切断して体をズタズタにする重傷を負わせた。
私たちは彼をドンハー内の大隊救護所に搬送したが、最後に見た時ジェリーはまだ生きていた。
数日後私たちはダナンに戻ったが、結局彼は助からず第一軍団の遺体安置所にいることを知った。
我々は遺体の身元確認をする必要があり、士官と上級副官がしなければならない仕事だった。クズマ中尉(OinC)と私がこの悲しい任務を任された。
数日後、EOD技術者GMG1ガーランド・スカッグスが水を取りに壕から出たとき、降ってきた砲弾が弾薬のアルミニウム製パレットに当たった(砲弾の衝撃が吸収されなかったようだ)。彼は脳震盪を起こし背中が吹き飛ばされる大けがを負い、アメリカ本土へ搬送された。

CWO-4 デイビッド・M・ロイスター 米海軍(退役軍人)より

もしあなたが、チコムC-4爆弾とロシアの遅延信管をビニールで包んでポリロープで結んだ150ポンドの地雷をIEDと考えるならば、私はカムラーン湾で幾つもの同型の地雷に遭遇した。
暗闇の中、何人かの水中工作員やベトコンのスイマーが河の流れに乗って、”浮き”を利用して(わずかな浮力を得るために)前記の地雷を下流に誘導しながら、停泊中の船の間を通過していった。
彼らが船を通過する時、泳いでいる一人が手を伸ばして、水面下約4-5フィートのところにある係留されている船のアンカーチェーンにライン(いつもナイロンロープが使われた)を取り付ける。
その後彼らは船の横の流れに沿って地雷を配置し、余分な浮力をカットして最大の効果が出るように取り付けられた(SS Cowanesqueの場合、地雷は実際に船体の金具に結び付けられていた)。
彼らは化学式遅延信管を使い、下流の流れに沿って泳ぎ脱出していた。

CWO-4 David M. Royster, USN (Ret)より

私が遭遇した兵器、水中地雷、武器、発射装置のほとんどはロシア系かチコム系だった。
彼らの戦術は知らないが、 非常に効果的だった。
私は水中爆薬で船を失ったことがなかったのは幸運でしたが、彼らは我々に非常に接近してきました。
あるケースではカムラーン湾で、爆弾は実際にタンカー(港に停泊していた航空燃料運搬船SSカウアネスク)に取り付けられていたし、別のケースでは桟橋で地雷が事前に発見された。

パトリック・E・トーマス退役軍人LCDRより

1967年4月13日、空軍のMAC C-141が南シナ海に墜落した。EODチームは、機体に搭載されていた13,000ポンドの兵器を回収して処分し、残骸に閉じ込められていた乗組員の遺体を回収するための潜水支援を提供した。また、コックピットのコントロールパネルの水中写真を提供し、研究用のブラックボックスを回収することができた。
チーム22は、南シナ海に墜落した陸軍ヘリコプターの回収支援を提供した。
チーム22はまた別に、カムラーン湾付近に墜落したC-47「パフ・ザ・マジック・ドラゴン」の乗組員の遺体の捜索・回収を行った。
チーム22は陸軍にダイビングサービスを提供し、カムラーン湾の港で沈没したDUCK(水陸両用車)の位置を特定し、その回収に協力した。



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トンネル兵器 暗闇の衝撃

先日ネットサーフィンをしていた時、面白い記事を見つけました。
ベトナム戦争中、共産ゲリラが作り上げた地下トンネルへ単身潜り込んだ勇敢な兵士達”トンネルラット”に関するお話です。
トンネルラットの詳細は別の機会に譲りますが、非常に興味深いお話です。
ツイッターでフォローしております下呂子氏のツイートをまとめたもののリンクを貼っておきます。
そこで登場した特殊兵器"Quiet Special Purpose Revolver, AAI QSPR noiseless revolver"のお話です。
相変わらずのガバガバ翻訳ですので、赦してくださいw


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ベトナム戦争中、米国はベトコンや北ベトナム軍と、当時最もハイテクな最新鋭の兵器を使って戦った。
これらの最新兵器は、最もローテクノロジーな軍隊へ降り降ろされた。
ベトナム戦争の舞台は沼地から山岳高原、水辺から陸上にだけでなく北ベトナムの空から南ベトナムの地下まで広がっていた。

1966年1月、サイゴンの北西にあった共産ゲリラの要衝に対し、米軍を始めとする連合軍による掃討作戦”Operation CRIMP"が行われた。
米軍と同盟軍は共産軍から待ち伏せ攻撃を受け激しく撃たれたが、部隊が反撃すると敵は忽然と姿を消してしまった。
敵が消えてしまった謎は、巧妙に隠されたベトコンの隠し扉から突き出した釘の上へ、ある米軍の軍曹がうっかり座った時に判明した。
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軍曹の受難は、ベトコンのトンネル網を知る最初のきっかけだった。
木の根が張り巡らされた赤土に掘られたトンネルは、わずかな距離しか掘り進める事しかできなかったものかもしれないし、何マイルにも及ぶ巨大で多層的な地下トンネルの一部でもあるかもしれない。
トンネルの中に何があるかを知る方法はただ一つ、兵士が暗闇の中に降りて調べるしかなかった。
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軍用犬はトンネルを捜索するには不向きで、中に入った犬はベトコンの罠にかかって殺されてしまった。
ベトコンが潜む未知の闘技場で、敵と顔を突き合わせて戦うアメリカ兵が求められた。
ベトコンの作った穴へ潜り込む小柄な兵士たちのために、トンネルラットという言葉が作られた。肉食獣のように兵士達は暗闇の中へ入り、トンネルを探し出しそこに何があるかを見つける。
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暗く、暑く、湿度の高いトンネルの中に潜りこんだトンネルラットが出くわすのは、ブービトラップ、ヘビ、毒のある昆虫、武器庫、あるいは手に武器を持ったベトコンかもしれない。
トンネルラットが地下を捜索していた時は、『素早く殺す』事を心がけていた。

トンネルの入り口は、18インチくらいの大きさの偽装された木製のトラップドアであった。この木戸をくぐり、懐中電灯、拳銃、ナイフ、勇気を装備したトンネルラットが入っていく。

トンネルラットの行く地下の世界は、土を掘りぬいたトンネルでできていた。米軍のエンジニアは、天然の鉄筋コンクリートのようなものであると説明した。
ベトコンの図面によると、トンネルは0.8メートル~1.2メートル以上の幅があった。天井の高さは1.8メートル以下だが、より多くの場合最低0.8メートルほどしか無かった。
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より大きなトンネルは通常、トンネル網のより深い層にあった。
通常トンネルラットが探索する場所は、粘着性のある土を掘りぬいた幅30インチ(約76cm)をわずかに超えるトンネルであることが多かった。

M1911A1コルト45オートマチックピストルは、トンネル探索の初期に使われた一般的な拳銃であった。だが狭いトンネルの中で45ピストルを撃つと、大きな発砲音で兵士の耳が聞こえなくなってしまった。
M1911A1は大きすぎて扱いにくく、発砲音が大きすぎると評価されてしまった。
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トンンル探索技術が経験により洗練されていくにつれて、多くのトンネルラットはリボルバーを選んだ。38口径のリボルバーは比較的軽量でコンパクトなので扱いやすかったのだ。
S&WやColtの武器は泥で汚れても確実に作動し、不発の場合は引き金をまた引くだけで済んだ。
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トンネルラットが活動する地下世界では、折り畳みストックを持つM2カービン銃でさえ「大砲」とあだ名されていた。
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当時一般的なピストル用のサプレッサーを入手する事ができず、あってもサプレッサーを付けたピストルは長く不格好で使いずらいものだった。。
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トンネル探査キットは1966年にLimited Warfare Laboratory(LWL)”米陸軍限定戦争研究所”によって開発された。
キットの中にあった通信システムはうまく機能しなかった。
帽子へ取り付けられたヘッドランプはずり落ちてトンネルラットの目を眩惑し、命取りになる照準点を敵に与える事となった。
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キットの中の武器は、4インチバレルに小型の照準用ライト、銃口へ装着されたサプレッサーが付いた38口径S&Wモデル10リボルバーだった。
一緒に支給された専用のヒップホルスターは大きすぎ、狭いトンネルの中でしゃがんだ状態からピストルを引き抜く事すら困難であった。リボルバーは照準用のライトと銃口に取り付けられたサプレッサーで、元のM10に比べるととても大きなサイズになった。またリボルバーの構造上、シリンダーと本体の隙間から発砲時のガスが漏れてしまい、サプレッサーは期待されていたよりも発砲音をあまり軽減することができなかった。
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LWLに戻った設計者たちは、リボルバーサプレッサーへの信仰を無くしてしまったのか、トンネル探索キットの中へ地下で射撃するときに使う耳栓を追加した。そんな事だったのでトンネルラット達は探索キットを使わなくなり、そして撤去されていった。

1969年南ベトナムのトンネルでの地下戦闘は、それまでの戦闘経験によって洗練されていった。
トンネルラットは地下世界の戦闘に何が効果的かを知りぬいていたので、新しい機材や武器の採用へは非常に保守的な考えを持っていた。
1969年7月ベトナムの戦場へ、おそらくこれまでに製作された中で最も進歩した拳銃10丁が到着した。

これに先立つ事1967年12月ベトナム共和国において、トンネルラットは正式にトンネル探査要員と呼ばれるようになった。この部隊に発砲音が静かでやかましくない武器の必要性が依然として存在することを、米国ベトナム軍事援助司令部(MAC-V)は認識していた。
大失敗に終わった探査キットの騒動から18か月、トンネルラット達はさまざまな武器を使用していた。
トンネルラットの中には腕の良い小火器修理工や機械工がいて、M1911A1用の物も含めさまざまな拳銃用のサプレッサーを製作していたのだ。
しかし大口径である45口径ガバメントは、単純な構造のサプレッサーでは期待された減音効果は得られなかったが、それを気にしないラットには好まれた。

第二次世界大戦のOSS(米軍の諜報機関)が製作した、サプレッサー付きハイスタンダード22口径ピストルもトンネルラットの手に渡った。
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しかしこれらの武器は数が非常に少なく、他の特殊部隊からも必要とされていた。
25口径オートマチックピストルからノコギリで切り縮めた散弾銃まで、個人的に多くの武器が持ち込まれラット達に使われた。MAC-Vはこれら現場での即興的に持ち込まれた武器を調べ、新しい武器を求める彼らの要求へ応えた。

暗いトンネルでの命中確率を高めるため、新型兵器の弾薬は散弾タイプが選ばれた。
ターゲットがほんの一瞬しか見えない場合、またはまったく見えない場合に、発射された弾薬の広がりは標的へ命中させるのにはるかに容易になる。
トンネル内での戦闘は短い距離で行われるので、最低でも25フィート以内での殺傷能力を求めた。基本的にMAC-Vは、小型で消音性の高いショットガンを求めていた。

陸軍LWLは、メリーランド州ボルチモアの民間航空機請負業者であるAircraft Armaments Inc.(AAI)にプロジェクトを委託した。AAI社は長年にわたり、米軍、NASA、および航空宇宙産業などで、カプセル内でピストンを作動させる技術の様々な応用に取り組んできた。
同社の宇宙開発における経験は、トンネル兵器プロジェクトへ迅速に転用された。


密封されたシリンダー内では、通常の無煙火薬による推進剤ガスが内蔵されたピストンを前進させ、一端が開いたシリンダーの弾頭発射位置までピストンを駆動させる。
発射ガスで駆動するピストンは、シリンダの開口端でくびれ部に衝突すると閉じ込められて所定の位置に保持された。
シリンダーから放たれた弾頭は、かなりの速度で押しだされる。

内蔵されたピストンはシリンダーの端部を密閉し、推進剤ガスをシリンダー内へ閉じ込めてしまう。
火薬の爆発による推進ガスが激しく噴出しないため、銃口爆風、銃口からの閃光、および結果として生じる発砲音は大幅に減少した。
リボルバーのオープンエンドシリンダーへ、散弾の詰まったプラスチックカプセルを内蔵したスチール製カートリッジを装填できるように改造して、トンネル兵器の核心を得る事ができた。

発射された弾丸の「マズル速度」(銃口からの初速)、この場合の初速は、薬きょうの内部ピストンを押す移動距離と火薬の圧力で決まる。
薬きょうへ密閉された雷管は、通常の方法で火薬へ点火する。
薬きょうの端にある太く切られたネジ山で、前進したピストンがそれに当たり減速して停止する。
押し出されたカプセルは薬きょうを突き破り、空気の抵抗に当たるとプラスチックカプセルは壊れて弾丸を放出する。

この散弾の致死性を増加させるために,通常の散弾の代わりに焼結タングステン鋼合金でできた散弾を使用した。型の中へタングステンの粉末を入れそこに高い圧力をかけて製作され、出来上がった特製散弾は真ん中にバンドがある丸いボールのように見えた。
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新型の弾薬を発射するためオートマティックピストルではなくリボルバー・システムを使用して、排莢不良など作動不良の問題を排除した。弾薬設計に使えるサイズを最大化するために、市販で販売されている一番大きな口径のリボルバーが選ばれた。その時選ばれたリボルバーは、44マグナム弾を使用するスミス&ウェッソンモデル29だった。

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44マグナムのバレルを取り外し、代わりにライフリングの切られていない短いバレルが捩じり込まれた。リボルバーのオペレーションロッドは、短くなった銃身に合わせて切り縮める加工が施された。
このような変更はあったが、リボルバーのとしての外観やメカニズムはほとんど変わっていなかった。

44マグナムModel29シリンダーの各チャンバーは、特殊な弾薬の形状に合わせ全長0.528インチまで拡げられた。元々は重さが0.5ポンド以上あったシリンダーから2.75オンス以上の鋼鉄が取り除かれた事を意味する。スチール製の特殊消音カートリッジケース自体が推進剤となるガスの圧力を密封するので、シリンダー壁を非常に薄くすることが可能となり、このような加工を施しても強度的な問題は無かったのだ。

追加のコイルスプリングをメインスプリングの上部近くに配置して、リボルバーハンマーに特殊弾薬のわずかに凹んだプライマーへ確実に当てる加工を施す。
M29に本来ついていた照準器は新型弾薬では不要とされ後方照準器は取り除かれ、リボルバーの上部に四角のスロットが残され、必要に応じて大まかな照準をすることができた。
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発射された新しい弾薬は、低強度の発砲炎しか出さなかった。通常のリボルバーショットの爆風と騒音はほぼ完全に除去された。特殊弾薬に内蔵された15発の散弾は、410番口径ショットガンと同じ散弾の広がりで放たれた。

だがこの弾薬には、その特殊な設計に起因した安全上の問題があった。
弾薬が発射された場合、致命的な速度を持つために通常の弾丸はバレルによる加速が必要となるが、この特殊弾薬はバレルやシリンダー内に装填される必要が無かった。
もし異常な高熱で晒されたり強い衝撃を受けた場合、特殊弾薬は武器から発射された場合と同じ750フィート/秒の速度で散弾が放たれる。
貯蔵の安全を確保するため、トンネル兵器専用弾薬を保管する弾薬箱には厚さ1/8インチの特殊鋼ライナーが入れられた。もし万が一火事やその他のトラブルで暴発したとしても、少なくとも弾丸は弾薬箱から飛び出さないだろうという配慮からだ。

現在『Quiet,Special Purpose Revolver』と呼ばれているこの特殊兵器は、15フィートの距離で厚さ3/4インチの合板を貫通した。これは後にベトナムで戦うネズミ達への武器のデモンストレーションの一部として使われた。
1969年7月ベトナムへ、10丁のトンネル兵器と992発の弾薬が試験のため送られた。

90日間の実地試験期間中この新型兵器のうち五丁と弾薬496発が、第1歩兵師団と第25歩兵師団にそれぞれ支給された。
8月22日、トンネル兵器と125発の弾薬が試験を広範囲に行うため第1歩兵師団からアメリカル師団(第23歩兵師団)へ移送された。
新型兵器の訓練時間は行われないか数時間程度であったが、合板標的への発射デモンストレーションは常に行われていた。

新兵器の精度は妥当なレベルだったようで、一人の兵士が20メートル先の空飛ぶスズメを一発で撃ち落とすことができた。
しかしその兵士は例外だったようで、ほとんどの兵士は一時間程度の訓練が施され30発ほどの弾薬が消費された程度だった。

武器に対して非常に保守的なトンネルラット達は、当初新型兵器を使う事を嫌った。しかしベトナムへ持ち込まれて数週間も経たないうちに、特殊なショルダーホルスターに装着されたトンネル兵器がベトナムのトンネルへ持ち込まれた。

トンネル兵器の「サイレント」品質に、一部の兵士から致死性に関して質問が出された。
それはあるトンネル・ミッションで、トンネル兵器が人間の標的に及ぼす影響を第25師団の軍曹が実証した。

軍曹は迷路のようなトンネルの中を滑り角を這い回り、NVA兵士と向かい合ってしまった。
「出くわした時NVAは座っていた。私と同じくらい驚いていたが、私はヤツがライフルを撃つ前にトンネル兵器を発射することができた......。私はヤツを外へ引っ張り出して死んでいるのを確認した」

また、別の事件では、トンネル兵器で武装した軍曹が、トンネルの外へ走り出すベトコンへ発砲した。
「バンカーから出てくる彼を撃った。走っていて、20から25フィート離れていた。」

トンネル兵器は効果的だったが、通常の弾丸のようなストッピングパワーはなかった。トンネル内でベトコンやNVAと遭遇した際、敵兵は負傷したり動けなくなったりしたが、トンネル兵器の散弾を受けても死亡する事は無かった。

特殊散弾のスティールカートリッジケースや凹んだ位置にある雷管に問題があった。
リボルバーのハンマーに付けられいる発射ピンは、いつも発射できるほどしっかりと雷管に当たったわけではない。
その結果、最初に製作されたトンネル兵器の発射失敗率(18パーセント)は高くなった。
発射ピンはアメリカ国内でより硬い金属製のものに取り替えられ、特殊弾薬の設計が変更された。
しかし非常に保守的なトンネルラットは、このトンネル兵器を決して好まなかったし完全に信用しなかった。
トンネルラットがベトナムのトンネルで今まで使っていたものは彼らのために確実に働き、お陰で生き残る事ができた。
しかし実験台にされるのはもうたくさんだという気持ちにさせられたようだ。

しかし、アメリカ軍の別のグループはトンネル兵器を拒む事は無かった。
第25歩兵師団は、偵察・情報部隊の一部メンバー、レンジャー中隊および歩兵中隊にもトンネル兵器を支給した。アメリカル師団は、トンネル兵器をレインジャーと歩兵の中隊とともに使用した。これにより、トンネル兵器は待ち伏せ作戦や捕虜の拉致などの隠密行動に使われるようになった。

トンネル兵器は特に夜間の待ち伏せに理想的であることが分かった。敵の兵士たちは10フィート以下の射程距離で射殺され、近くにいた他の兵士たちは銃声を聞く事は無かった。これを使った兵士からトンネル兵器に関するコメントは以下の通りである。;

「このピストルを5丁持っていたら、私たちは敵のテリトリーに1週間居座ることができる…」

「あのピストルは私が今まで見た中で最もすばらしい武器だ。私の小隊でこれを3丁使うことができた。ピストルはキャップピストルより大きな音を出さない。直感的な射撃でターゲットに命中させる事ができる。私はその武器で狙う事は無かった。この武器は今まで使っていた38スペシャルの拳銃よりも正確で非常に静かで、はるかに優れていた」

「私たちの使用環境では、非常にうまく機能した。私たちは敵との接触を避けなければならず、この武器は発砲してもやかましくないでの私たちの立場を危うくしない。小隊で5、6丁のピストルを使うことができました。」

兵器、特に弾薬の改良についていくつかの提案がなされた。雷管の位置を再設計し、多くの不発問題を解消した。
しかし1969年に使用されたことを除けば、評価期間後にトンネル兵器が再び配備されることはなかった。
現存するのは10丁と、AAI社によって管理された一丁のみとなる。これらのうちの2丁はアバディーン試験場のアメリカ兵器博物館にあり、サンプル#5はそこで一般公開されており、AAI社のサンプルは厳重に保管されている。

ここに非常に奇妙な話がある。ベトナム戦争時、トンネル兵器の一つが紛失したと報告された。だがこの武器はカリフォルニアで、ある殺人事件で使用された消音武器として当局に押収された。
この特殊弾薬が使える状態にある物はほとんど存在せず、特に個人で所有される事は無い。
トンネル兵器および他のシステム用に製作されたピストン弾薬は、ATF(アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局)によって銃器用サプレッサーの扱いになると宣言された。

QSPR(トンネルWEAPON)技術データUNIT#5
全長 - 6.75インチ
バレルの長さ- 1.372インチ
ボア径- 0.400インチ
重量(弾薬が装填されていない状態) - 2.01ポンド
重量(弾薬を装填した状態) - 2.37ポンド
重量(シリンダー) - 0.419ポンド

弾薬
ケースDIAMETER - 0.526インチ
リム径- 0.550インチ
ROUND LENGTH - 1.866インチ
ROUND WEIGHT - 0.971オンス(27.5グラム)
発射- 3ピースプラスチックサボ含む15タングステン鋼合金ショット
ペレットDIAMETER - 0.147インチ
ペレットWEIGHT - 7.5グレイン
初速- 750 FPS
有効射程 50フィート
最大範囲 1400フィート
サウンドレベル-120デシベル(銃口から1メートルで計測)

NAMNAM2019 従軍記

10月6日(日)

行きたい参加したいと渇望してはや数年。
やっとNAMNAMへ参加する事ができました。今回はレポートを書いてみようと思います。

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今回の遠征では「新幹線」を使って移動しました。
朝、名古屋駅の改札での一枚。
撮影&フィールドまでの送迎を、チームメイトのウォーター君にお願いしました。本当に感謝感激!

会場となるフィールドは、名古屋の中心部から1時間弱の所にある某所。
静岡を始発の新幹線で出たのですが、自分の到着が遅れてしまいフィールドへの到着が9時過ぎとなってしまいました。

会場にはもう既に、顔なじみの色々なショップさんがお店を開いていました。
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準備を手早く済ませ、NAMNAMの開会式に参加します。
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向かって右側の方が、NAMNAMの主催者であるトンネルラット氏。
今回の開催に向けて、フィールドの整地や色々なご苦労があったそうです。フィールド整備にボランティアで参加された方々にも深く感謝致します。

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ルール説明を聞くSEA HOUNDの面々。

もはやお約束となったSEALの朝は早い”

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耳や首筋にもカモフラージュを怠らない。
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ノーコメントww

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今日のSEA HOUND
ウルゲイル大尉以下6名の編成で、ギ・フ戦区へ派遣された。

以下、レポート風の妄想小説を書かせていただきます(笑)
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「ターゲット!」
ウルゲイル大尉が目の前へ一枚の写真を置いた。
古びたその写真には、一人の北ベトナム軍の兵士が写っている。
「”Bạc”、訳すとシルバーって名前だ。以前モ・トス戦区で我が軍へ甚大な被害を与えた張本人だ。先日投降したVCからの情報だが、この戦区へヤツが移動したらしい。今回この男を”無力化”するんだ」
「司令部からの命令はどうするんですか、大尉」
私の言葉に、大尉の緑色に塗りたくった顔が歪む。
「無視だ。この男を殺す」
まだらに塗られた顔は、どうやら笑っているようだ。
”Hooya"
ST-1のメンバーも皆笑っていた。
狩りの時だ。

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エリア8地点に、敵大部隊が集結しているとの事だ。
我らSEALチームは、海軍のPBRに乗ってメコン河クルージングをするのだ。
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船から飛び降りた我々は、水辺から慎重に上陸する。
そこの草むらに、伏せて待ち伏せをするベトコンがいるかもしれないからだ。
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今回陸軍のLRRPチームが、米軍の目として投入されていた。
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敵地深くに対人地雷をばら撒き、敵の動向を司令部へ報告していたのだ。

深いブッシュを抜けていくと、人のおしゃべりや枯れ枝を踏む音が聞こえてきた。
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想像以上に敵の守りは堅い。まるで、こちらが来るのを察知しているようだ。
こちらは6人、だが相手はその倍。
指揮を執る”Bạc”を視認しても、相手の警戒が厳しすぎて近づく事すらままならない。
ストーナーマンのJが敵めがけ一連射すると、辺りはスズメバチの巣を突いたような騒ぎとなった。
私たちは全速力で遁走した。
敵の怒号を後ろに聞きながら、私たちは安全地帯へ飛び込む事ができた。
そういえばSEAHOUNDは、過去この戦区へ何回か投入されたよな。私は肩で息をしながら、傍らで座る大尉へ声をかけた。
「大尉、ヤツらに何をしたんですか? あの隙の無い警戒っぷりはハンパ無いですよ」
「まぁ、そりゃ……な」大尉が口ごもる。
後で過去の行状を聞いたのだが、そりゃこの地域でお尋ね者扱いにされる訳だ。

CPに戻った我々は装備を整え、再度打ち合わせをした。
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今度はトラックで我々を運んでくれるとの事だ。
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下車後すぐに敵と接触し、散発的な戦闘の後小休止を取るメンバー。
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敵の守りは堅い。
陸軍のLRRPと共に、敵の勢力圏へ再度攻撃をかける事となった。
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激しい銃撃戦となった。私とウォーター兵曹と二人で、敵の側面を迂回し”Bạc”暗殺のチャンスを伺う。
すると、ブッシュの切れ目から、立ち上がって指揮を執る北ベトナム兵が見えた。ヤツだ!
消音短機関銃の狙いを定め引き金を絞ると、その兵士の姿は藪の中へ消えてしまった。
折角のチャンスをふいにしたのか!?
チームの本隊と合流し兵士が立っていた場所へ行くと、亡骸があった。
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亡骸を確認すると、どうやら”Bạc”を仕留めたようだ。
任務は終わった。
だが、敵との戦闘はまだ続くのであった。



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参加された皆さま、お疲れ様でした!
主催のトンネルラット様、楽しいイベントをありがとうございました!!


アホカリプス2019 Day-2-2

1970年7月14日 モト・ス地区
断続的な豪雨の中、米軍を主力としたサーチアンドデストロイ作戦が行われた。
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目の前で、共産軍によってトラックから援助物資を奪われる失態を犯し、全力をあげ敵軍を捕捉撃滅せよとの命令が下ったのだ。
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ST-1シーハウンド”クリーチャー”は、敵の活動地域(インディアンテリトリー)へ潜入、偵察と確保の任務が与えられた。
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他の歩兵部隊は、普段ならばSEALが進むべき戦区で戦っている(どうやら、この川遊びが面白いという兵隊がいたようだ)
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ST-2”Red Viper”のメンバーも、どうやら川遊びができたようだ。
山の中を音もなく我々は進んだ。
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「少佐、俺達はいつから陸軍になっちまったんですか」
自分が小声でボヤくと、少佐が睨みつけてきた。
「潜入、偵察、確保ができるのが俺達だけだからだ。給料分働け」
「Hooyah」
しばらくすると、先行していたフィッシャーとニック少尉がハンドシグナルで停まれを出す。
どうやら共産軍の特殊部隊兵士を発見したらしい。それも近い。
大尉は本部へ報告し、交戦許可を求める。が、
”交戦は許可せず。敵への偵察を続行せよ”
なんてこった!
その後、戦略的要衝の偵察、確保の任務が与えられたが、”クリーチャー”への交戦許可は降りなかった。
一度は潜伏している10m横を敵の小隊が歩いて行った事もあった。
おれたち誰か司令部に恨みでも買ったのか?
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隣の戦区(それもどえらい近くだ)で派手なドンパチをやっているのを横目に、静かに移動と潜伏を繰り返す。
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丘の下では友軍と共産軍が激しい戦いを繰り広げているが、警戒と待機をする”クリーチャー”の面々。
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短距離偵察から戻ってきた、LDNNのHungと、ストーナー射手のウォーター。ベテランの仲間がいる事が心強い。
敵地で行動していると、陸軍特殊部隊のチームとも遭う事もある。
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話を聞くと、どうやら敵の勢力と何度か遭遇し、激しい戦闘になったという事だ。畜生!
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ジャングルの遠足を繰り返し、”Red Viper"のメンバーと合流した時の事だった。
”Red Viper"の若きポイントマン、レバ・サシがニック少尉の北ベトナム製サンヘルメットを見て、敵と見間違えそうになったとの事だ。
「一発撃っていたら大変でしたよ」
「ああ、一発撃っていたら弾を倍返しにして撃っていたぜ」
周辺警戒を信頼できる”Red Viper"のメンバーに任せ、足を伸ばさせてもらう。話を聞くと、どうやら敵と激しく交戦したようで、負傷したメンバーの姿もちらほら見える。
「今回ウチのチームは一発も撃ってない」
そう言うと、皆びっくりしていた。
休憩を終え、また次の地域へ移動。すると、目の前の丘から激しい銃撃音が聞こえた。
木陰から覗いてみると、丘の上へ陣を貼る友軍へ、共産軍が猛攻をかけているのだ。
味方の陣地は陥落し、共産軍が勝利の雄たけびを上げていた。畜生!
『HQ、HQ、こちらクリーチャー。ただ今より、敵へ威力偵察を行う』
ラジオマンのChoBinがマイクに叫ぶ。少佐が威力偵察名目で、攻撃許可をもらった。
ニック少尉、フィッシャー、ウルゲイル大尉が獲物を狩る肉食獣のように、静かに素早く藪から飛び出す。
自分は重いM60を抱え、その後をヨタヨタと付いていった。後ろからウォーターが応援で来てくれたのはありがたい。
敵は完全に油断していた。
3人は完全に敵部隊の背後を取り、一斉射撃を行った。マシンガンの一なぎで、敵の兵士がバタバタと倒れていく。
一発カマして遁走する3人を援護すべく、ウォーターと私は猛烈な援護射撃をおこなう。
どうやら主力を一気に壊滅させたらしく、敵の追跡は無かった。
安全地帯に戻り確認すると、チームの損害は無かった。
結局戦ったのはこの一回のみ。だが、HQからの命令を完遂し、敵部隊を壊滅させた。
大戦果だ。
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任務は終わった。
だが、また次の戦いが待っている。

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昨年同様、小説風でレポートを書いてみました。
加筆修正承ります。何かありましたらお気軽にどうぞ。
アホカリ2019へ参加された皆さま、お疲れさまでした。
また来年、かの地で会いましょう!
<謝辞>
今回、素敵な写真を提供してくださった皆様へ、この場をお借りして御礼申し上げます。

アホカリプス2019 Day-2

Day-2

前日からの豪雨は自分が持っていたタープを半壊させ、皆が寝ていたテントへ浸水被害をもたらすなど、甚大な被害を与えていた。
イベントの開催が危惧されていたが、ウルゲイル大尉の一言でシーハウンドのメンバーは装備を整える事となった。

SEAL隊員の朝は早い
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断続的に降る雨の中、入念なフェイスペイントと装具のチェックを行う。
すると本部から、前日雨でできなかった弾速測定をするとのアナウンスが流れた。
俄然やる気の出たメンバーは、手早く確実に装備を整えていく。
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SEALチーム2のメンバーと談笑するニック少尉。
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ベトナム軍のサンハットを使うニック少尉。
後でこの帽子が原因でヒヤリとする事があった。

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チェックを済ませたチームメンバー。やる気十分である。

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出撃前の一枚。
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今回共に戦うSEALチーム2”Red viper”のメンバーと。
共に火力偏重の装備である事がわかる。

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出撃前のミーティング。米軍共産軍とも悪天候の中にもかかわらず、参加将兵の士気はとても高かった。
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