買い物狂いの忘備録

40代の物欲にまみれたオッサンの忘備録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など忘備録的に書いてます。

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1965-1966 

 先に1968年のテト攻勢を翻訳したのは間違いでした(白状)
 米軍ベトナムという国に介入し始めたのは1950年代のころでした。米国海軍、UDT(水中破壊工作隊)が派遣されたのは、1960年代に入ってからと言われ、ベトナム共和国の海軍軍事顧問などとして活動しておりました。
 実際にアメリカが本腰を入れ始め、本格的な派兵が行われた1965~1966年のUDT/SEALのお話を何回かに分けて書いてみようと思います。

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1965~1966  Part1  戦いのはじまり


 1965年1月26日、北ベトナム領海内での通商破壊作戦の為、10艘のパトロールボートが南ベトナム政府に与えられました。
パトロールボートは、DaNangの海軍基地をベースにして活動しました。DaNangに駐留する間、アメリカ政府が船を管理しアドバイザーとして存在しました。
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パトロールボート

 パトロールボートは南ベトナム軍の特殊部隊隊員により操船され、任務に従事しました。
ベトナム側が反政府行動を支援し続けたので、南ベトナム政府は海からの急襲を継続して共産主義者へ圧力をかけ続けました。

 北ベトナム政府は1964年の間、南ベトナムに対し劇的な量の軍事物資とゲリラ兵士などの人員を浸透させました。しかし共産主義者のこの行動をアメリカ側は察知していませんでした。
この事を知ったのは、1965年の初頭の頃でした。
 2月、米軍のヘリコプターが南ベトナムのQuiNhon南部のVungRo湾にて、共産主義者が乗った16艘のトロール船を発見し、軍が行動を起こしました。
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 トロール船へは航空攻撃が行われ、最終的には転覆沈没しました。
 数日後、増援で南ベトナム軍が呼ばれ湾を包囲しトロール船に迫ったので、数日にわたりゲリラから強力な抵抗を受けました。
戦闘中、ベトコンがトロール船に積まれた物資の多くを廃棄したにもかかわらず、最終的にソ連と中国製の大量の武器弾薬を軍は発見しました。
 米海軍SEALの軍事顧問によれば、15名のL.D.N.N(南ベトナム海軍特殊部隊)隊員がこの武器弾薬の証拠を回収し、北朝鮮などが南ベトナムの反政府勢力に対する積極的な支援をしている証拠を、米国で報道する上で大きな役割を果たしました。

 1965年3月8日、最初の米軍戦闘部隊がベトナムに派遣されました。同日、第3海兵師団第3連隊がDa Nang近くに上陸しました。
この海兵隊の任務は、Da Nangの空軍基地をベトコンからの攻撃から守る事でした。海兵隊は上陸用舟艇から完全な戦闘装備でDa Nangの海岸に上陸しました。そこで彼らは、アメリカからの報道陣や地元の歓迎に迎えられました。
その横で、UDT12のフロッグマンたちはその騒ぎを傍観してました。
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 UDT12のフロッグマン達は、海兵隊員の上陸する海岸を確保する為、先頭に立って海岸調査へ赴きました。
彼らは第二次世界大戦を戦った先達の伝統に従い、海岸の砂にゴムボートとパドルを飾り上陸する海兵隊員へ潜水夫からの挨拶としました。
「ようこそ海兵隊 UDT12」

 派遣されたアメリカの地上軍は、長い間作戦行動に移りませんでした。4月、海兵隊員と他の部隊は、敵ゲリラ部隊の行動を阻止するために活動を開始しました。海兵隊と彼らの作戦行動支援の為、UDT分遣隊は海図を参考に、南ベトナムの海岸線の調査を始めました。
 このような水路調査は、ベトナム戦争の初期でも武装勢力の抵抗にしばしば遭遇しました。
1965年4月23日、海兵隊偵察隊フォースレコンは、Saigonの北370マイル,QuangNamとQuanTin行政区の間にある海岸、SongTra Bongにて調査を行おうとしておりました。
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SongTraBong

調査グループは25名のベトコン部隊から、よく調整された攻撃を受けました。敵からの接触を断とうとしている間、海兵隊員はその地域からの後退を強いられました。
包囲された部隊を救助する為、USSクック(APD190)から救援部隊が送られました。
撤退するボートに仲間を乗せていた1名の海兵隊員(Lowell Merrell)と2名の水兵(EN2 Richard Langford TM3 William Fuhrman)がこの作戦行動中、致命傷を負いました。
Merrellは、海兵隊の精鋭フォースレコンのベトナムにおける最初の戦死者となりました。

*海兵隊の精兵であるフォースレコンは、潜水艦からゴムボートで敵地を偵察する任務も行っていた。
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画像は1950年代の訓練風景である。

 水路調査という任務の性質上、潜水夫はナイフ一本という軽武装のままでした。
作戦立案者にとってこれらの最初の死傷者は、UDT任務に伴う危険性と彼らの警護を提供する重要性を認識するものでした。
 5月には陸軍の173空挺旅団がベトナムに到着しました。こうして、米軍の役割が拡大し続けました。
戦闘が東南アジアで拡大していったので、アメリカ西海岸のUDTチームはフィリピンにて部隊展開をし始めました。
 各UDT部隊は西太平洋戦域で6か月の任務に従事し、そこで艦隊運営を支援してから西海岸に戻り追加の訓練や再編成を行いました。

 UDT分遣隊は、フィリピンのスービック基地を利用してさまざまな任務を行うために、西太平洋戦域にて色々な場所に配置されました。
 スービック湾に置かれた司令部は派遣されたUDTチームを支援し、本部にA分遣隊(Det A)が配備されました。A分遣隊は隊の運営を支援して他の分遣隊を訓練し、器材の提供やメンテナンスを行いました。
 B分遣隊は第七艦隊の作戦運用の為、水陸両用戦隊(Phibron)の一部として、高速輸送船であるAPDに配属されました。このフロッグマンのグループは、必要に応じて海岸偵察と調査を行いました。

 C分遣隊はUSS Perch(潜水艦)に配属され、後にさまざまな任務に対応するために改造されたUSS TunnyとUSS Grayback潜水艦から、小規模なコンバットスイマーチームとして行動しました。

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USS Perch
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USS Tunny
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USS Grayback

 海岸偵察を行う彼らの任務は、2つの基本的な方法を駆使して行われました。
 第一の方法はある程度の深さの海中から、潜水艦の脱出ハッチを使いコンバットスイマーが「締め出される」ように潜水艦の外に出る方法でした(”底打ち”とも呼ばれていた)
水路調査を行うため、コンバットスイマーは36フィートの深さからゆるやかな登り坂を上るように海面へ浮上しました。任務終了後、このプロセスを逆に行い潜水艦に戻りました。
 第二の方法は、潜水艦を浮上させ水面上に停泊したのち、UDTのスイマーは潜水艦のデッキに固定されたゴムボートに搭乗します。それから潜水艦は潜航し、ゴムボートは船体から切り離されます。そしてコンバットスイマーが目標とする作戦地域までパドルを漕いで移動し、任務を完了することができました。
 スイマー達は水中の潜水艦の位置を把握し、ロープを潜望鏡に引っ掻ける事がありました。このようにしてゴムボートを安全区域まで曳航したりする事もありました。

 D分遣隊は南ベトナムの北岸、Danang近郊のキャンプTien Shaに配備されました。
D分遣隊の隊員は戦争を通じ、何百もの敵のバンカー(掩蔽壕)を破壊する任務を与えれらました。
 キャンプはまた、他のUDT分遣隊の休暇(R&R)センターとしても機能しました。E分遣隊とF分遣隊は両用即応グループ”Amphibious Ready Group (ARG)"の一員として活動し、昔ながらのUDTの水路観測任務に従事しました。
 G分遣隊、H、I分遣隊はベトナム戦争の後期に、ベトナム南東部カウマウ半島南端の河川海軍に参加しました。彼らの任務は敵バンカーの破壊だけでなく、その分隊はカウマウ半島の運河、川、沼地を調査するコマンドチームとしても用いられました。

 UDT11は、1964年1月28日から1966年9月5日までの間に行った作戦行動を称えられ、海軍から表彰されました。
授章の理由は、UDT11がベトナムで行われた8つの主要な強襲上陸作戦に参加した事を称えての事でした。
 チームは110マイル以上に渡る海岸線、河川、港の調査を秘密裡に行いました。また他のUDTの作戦行動は、南ベトナム沿岸すべてを網羅していました。
 UDT12のB分遣隊は、8月のOperation Piranha、9月のOperation light、10月のOperation Dagger Thrust、11月のOperation Blue Marlinなど、その年に行われた主要な上陸作戦すべてに参加しました。
 これらの作戦のそれぞれは、米海兵隊とその水陸作戦能力をベトナム戦争遂行に深く反映させました。 これ以降より多くの米軍がベトナムへ派遣され、この戦争において他のSEATO加盟国(東南アジア条約機構)や同盟国からの援助を米国は歓迎しました。
 その年の終わりに、オーストラリア、ニュージーランドと韓国の軍が共産主義者に対抗して、ベトナムへ派兵されました。ですがベトナムにおける最大の軍事力は米軍が占めていました。

 1965年後半にかけUSS Perchは、極秘の海岸調査を行うUDT隊員の発進基地として利用されていました。
最初の公式活動は、南ベトナムの沿岸で行われました。
 10月に行われたDagger Trust作戦は、第七艦隊司令長官D.L.Wulzenによって指揮されました。
夜明け前に行われた極秘偵察は、Prech号に乗り込んだUDT12のD分遣隊の男達が行いました。

 フロッグマンチームは甲板にいた乗組員とともに、潜水艦の後部デッキにあったゴムボートを膨らませて準備し、水面に浮かべました。ゴムボートから伸びたロープは、潜水艦の潜望鏡に結び付けられていました。
 すべての準備が完了し、潜水夫たちはゴムボートに乗り込みました。そして潜水艦は海中へゆっくりと潜航していきます。潜航した潜水艦に牽引されながらゴムボートはゆっくりと目標の海岸へと曳航され、近づいた所で潜望鏡のロープを解きました。
 UDT隊員は彼らの任務を遂行するため、静かにかつ慎重にパドルを漕ぎ続けました。その間Perch号はUDTにいかなる支援を行えるようにその海域に留まり、航空支援の無線誘導の支援も行いました。
作戦地域の水路のデータや貴重な情報は、海軍のデータベースに集積され周知されました。
 UDT隊員は海兵隊の上陸が行われる夜明けまで上陸地点の警護の為海岸にそのまま残り、無事任務を遂行する事ができました。
 このような極秘の調査は、海軍の水陸両用部隊が海岸への上陸作戦をスムーズに行う事ができた重要な理由であり、これらの作戦はフロッグマン達の主な役割であありました。
UDT12-A分遣隊は1964年12月1日から1965年5月29日まで、極秘の水路調査や海岸偵察任務を行い表彰されました。

 同じくUDT12-D分遣隊は、1965年5月21日から7月8日までの期間同様の作戦行動を行い、同じく賞賛されました。
UDT隊員は戦闘行動の他に、他の重要な仕事にも従事する事となりました。
 当時南ベトナムでは訓練を受けたダイバーが不足しており、フロッグマン達に熱い視線が向けられました。その結果、船のサルベージ作業や海難救助任務を行う事を求められました。
 1965年の後半2名のUDT隊員はChu Lau地区にて、約1.3kmの燃料パイプの修理を支援しました。海中の視界は悪く海面も荒れていましたが、UDTダイバーの専門家の協力で貴重な燃料パイプの修理が完了しました。

 当時南ベトナム軍の特別攻撃隊はDa Nang海軍基地をベースにして、北側への破壊工作任務を行っておりました。基地は偽装工作を行い通常の警備をしておりましたが、他の米軍基地のように共産主義者の注意深い監視下に置かれてました。
 10月28日、ダイビング用の新型器材のテストを行う為、第二次世界大戦の時に海軍に入隊した経験豊かな潜水夫であり、Da Nang基地の保安担当であったロバート J フェイがジープに乗っていた所、ベトコンからの迫撃砲による攻撃を受け死亡しました。
 彼は1951年の朝鮮戦争から従軍し、UDT2を含む各UDT部隊に勤務しました。彼の経験は、1965年4月にMACV-SOG( 南ベトナム軍事支援米軍令部-研究/観察グループ)のアドバイザーとして重要な役割を果たしていました。
彼は、ベトナム戦争で死亡した初めてのUDT隊員となりました。
Da Nangの米海軍基地とモンキーマウンテン前進基地などのSOG基地は、キャンプフェイと名付けられました。

*モンキーマウンテンは、Da Nang基地と海岸を見下ろすソンチャク山に作られた基地で、SIGINT(傍受)施設が作られた。
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 12月、ホワイトハウスは北ベトナム政府への軍事的圧力をかけ続け、平和交渉へ誘導しようとしたが北の政府は申し出を拒否しました。
その結果、アメリカ合衆国は北ベトナムの限定された地域への爆撃を、1966年1月に再開しました。
通常戦力による作戦行動は南ベトナムで拡大し、そして特別攻撃隊による北ベトナム海岸線への襲撃が続けられました。
 1965年12月1日、ナスティボート(快速パトロール艇)が作戦行動の最初の犠牲となり失われました。そしてすべての特殊作戦部隊と共に、ベトナムへの米国政府の関与は日々増え続けました。

 1966年の初頭ベトナムでの任務は、米国本土でBUD/S(基礎水中爆破訓練)を受けた男達の目標となるゴールでした。
 BUD/S卒業生でもコンバットダイバーになるのは難しく、彼らは東南アジアの紛争に参加すべく困難に耐えました。
1965年12月3日、このトレーニングコースから卒業した一人の若い海軍士官、3等海尉Theodore Roosevelt IVは偉大なテディ・ルーズベルト大統領のひ孫でした。
ハーバード大学を23歳で卒業した彼は、当初海軍を経歴にする計画をしなかったのですが、ベトナムでの任務が彼を必要としていました。
彼と他の候補生が最初のUDT/SEALトレーニングを受けている時、この選抜コースのインストラクターは候補生の特性や性格を見抜いていじわるする事で有名でした。
彼の曽祖父の外交政策(でかい棍棒を持って静かに話せ "speak softly, but carry a big stick")を思い出し、そのインストラクターはコースの途中で3フィートの長さの丸太を担ぐよう命令しました。

 1966年1月21日、UDT11-C分遣隊は主要な沿岸地域のPhan Thiet,Cam Ranh、Nha Trang、Qui Nhonの調査を行いました。1966年1月21日から28日にかけ、もう一つの大規模な水陸両用作戦が行われました。
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 南ベトナム第Ⅰ軍が管轄するQuang NgaiとTam Ky近くの海岸にて、海軍は朝鮮戦争の仁川上陸作戦を越える規模の陸上兵力を上陸させる計画を立てていました。
USS Perchは今回もUDT11-C分遣隊を海岸に送り込み、偵察行動を取るよう命令が下されました。
潜水艦は海岸から沖合数キロの海中で待機し、それからサポート要員の潜水夫が脱出ハッチから出てゴムボートを
用意しました。
 スキューバ装置を利用して、支援要員は潜水艦の外側に器材と誘導用のラインを用意します。すべての準備が整い次第、潜水艦の乗組員に合図が送られました。UDT隊員は脱出ハッチから潜水艦を出て、支援要員が準備したスキューバ装置から呼吸しました。
 ゴムボートは海面に浮上し膨らみました。フロッグマンは海面に浮上し、ゴムボートに乗り込みますが、この乗り込むプロセスで武器、無線機、器材は特に厳重に保護されておりました。準備が完了すると、フロッグマン達はボートから音波発信機を水中に垂らしながら目標の海岸へ進みます。
 潜水艦はゴムボートからの音波信号をキャッチして正確な位置を把握し、上陸地点の海岸へ航空機を無線誘導しました。そこでUDTチームの極秘偵察が始まります。
 このような手順は、かなりの専門知識と長時間にわたるリハーサルを必要としました。Perchの乗組員とUDT隊員の両方によって培われたチームワークは、ベトナム戦争の初期には特に必要とされるものでした。

 成功裏に終わった偵察の後、フロッグマン達は外洋へゴムボートで漕ぎだし、ゴムボートにロープを付け、信号で待機しているPerch号に合図を送り、沈降している潜水艦の潜望鏡にロープを引っ掛けボートを曳航してもらいます。それから更に外洋に向かい安全な海域で潜水艦は浮上し、フロッグマンと装備を回収しました。


続く


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UDT in Action

 今回はSEALの影に隠れた存在ですが、同様にベトナム戦争を戦い抜いたUDTチームのお話です。
先日某所で次回何を読みたいかアンケートを取ったのですが、それの結果を思いっきり無視したお話です。

今度ぼちぼちやりますので、ゆっくりお待ちくださいw
UDTの創設のお話は、こちらをお読みください。
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 1965年、3月8日。
アメリカ軍の尖兵として第三海兵師団の兵士たちが初めてベトナムのダナンの海岸に上陸しましたが、一番乗りにはやる彼らはある看板を砂浜で発見します。
 足ヒレに挟まれたそれには「ようこそ海兵隊」と書かれていました。
一足先に上陸していたUDT12のコンバットダイバーが置いた看板でした。
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 アメリカはベトナム海軍司令部の活動に携わるため、UDTチームを投入しました。こうして朝鮮戦争以来初めて、UDTチームが戦闘に参加する事になりました。
 いくつかのチームを構成するこの隊はAlpha分遣隊(Detachment Alpha)として知られており、フィリピンのスービック湾に拠点を置いていました。この部隊は他のUDT分遣隊を訓練したり装備機材を用意していました。
第二の分遣隊、Bravo分遣隊は第七艦隊に所属し、海岸調査ユニットとしてAPD型艦船(人員を乗せ高速輸送できるタイプの駆逐艦。WW2にはUDTだけでなく海兵隊レイダースも輸送した)に乗船して行動し、これらのチームが海岸や障害物の位置などを調査しました。
最後のCharlie分遣隊はUSS(潜水艦)パーチとUSSタニーの2隻の潜水艦から出撃し、水中からの偵察任務を行っていました。
 これらの分遣隊の分隊は、2通りの方法で任務を行いました。それは浮上した潜水艦から出撃するか海底に静止した潜水艦からUDT隊員が浮上する方法でした。
コンバットスイマーは潜水艦の隔壁をロックしてから足ひれを使い、潜水艦から離れて任務を遂行しました。
浮上した潜水艦から行動する場合UDT隊員がデッキに登り、甲板に固定されているゴムボートにかけられているワイヤーを外してボートに乗り込み、潜水艦が潜水するのを待ちます。
コンバットスイマー達は敵の歩哨に発見されないよう慎重に、ゴムボートのオールを数千回も漕いでいきます。

作戦参加

 Delta分遣隊は、ダナン近郊のTien Shaを基地にしました。
分遣隊がベトナムに駐留していた数年の間、その基地から多数の海岸線の調査やベトコンの掩蔽壕の破壊任務を遂行しました。それからTienSha基地には休憩施設と両用即応グループ(ARG)および河川海軍も配備され、規模が2倍に拡大されました。
両用即応グループの艦艇からFoxtrotとEcho分遣隊は出動し、偵察と目標破壊任務を行いました。
最後にGolf,Hotel,India分遣隊は河川海軍に配備され、海岸線へPBRで移動し作戦行動を行いました。

 1965年、UDTは大規模な陸海空共同作戦に参加します。8月に海兵隊の「ピラニア」作戦、9月に「スターライト」作戦、10月「ダガートラスト」作戦、11月に「ブルーマリン」作戦へ参加しました。
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*海兵隊のピラニア作戦の記録映像

 10月28日、ダナン基地の警備責任者のロバート・J・フェイは車両検査中に迫撃砲の攻撃を受け死亡しました。
彼はベトナムで戦死した最初のUDTメンバーとなりました。

特殊潜水艇への乗艦

 1966年1月21日、アメリカ軍は最大規模の水陸両用作戦を開始しました。作戦規模は、朝鮮戦争の仁川上陸以来の規模となりました。
上陸予定の海岸にベトコンの防御線があるか、仕掛け罠があるかなど海岸線を調査確保するために、UDTはUSSパーチに乗船し最初に上陸しました。
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 1966年8月20日、UDTはランサット特別地区で活動するSEAL小隊と同じくらい多くの作戦行動を行っていました。
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 Cherlie分遣隊はQui Nhon北部のベトコンキャンプを偵察する為に潜水艦パーチに乗船し、最初の偵察を無事終えました。ですが翌晩の行動では敵に発見され銃火に捕えられてしまいましたが、パーチの12.7mm機銃と40mm機関砲による支援ですぐに敵は制圧されました。
UDTチームがトラブルに遭っている事に気が付くと潜航していたパーチは即座に、ゴムボートでパドリングをしているUDTチームをカバーするために浮上したのです
 夏には、最大70名の特殊部隊員と12艘のゴムボートが収納可能なUSS タニーが就役し、USSパーチと交代しました。
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 1968年1月、全アメリカ軍の上陸に関与していたUDTでしたが、12UDTチームから第12UDTがGolf分遣隊からメコンデルタ地帯のDon Tank近くのMy Tho地区で活動する河川海軍を支援するために派遣されました。

何百もの敵拠点を破壊

 1969年4月、UDT13はCuan Lon川で南ベトナム軍とベトコン掃討の共同作戦中、最初の犠牲者としてロバート・ワトソンを失いました。
その一か月後、部隊は126名のベトコンを殺害し数百の掩蔽壕を破壊しました。
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 この作戦行動中はベトナム化の一環として、実戦でいかに敵の掩蔽壕を破壊するかを南ベトナム軍に指導していきました。
1969年夏、UDT13はUSSグレイバックより作戦を行いました。
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元々この潜水艦は、レギュラスⅡ核ミサイルを発射するものでした。
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*一度浮上してから発射するタイプの核ミサイルで、冷戦初期に登場しました。

しかしポラリスミサイルの導入により旧式化してしまいましたが、海軍はレギュラスミサイルの格納庫をUDTが使用する潜水艇を収納するデッキに改造してしまいました。
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 1970年初頭より、SEAL部隊と同じようにUDTも本国に帰還を始めます。
しかしまだベトナムで展開中の部隊はSEALと共同で活動し、待ち伏せや敵バンカーの破壊、ベトコンの補給を運んでいるサンパンの捕獲などを行いました。
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1971年12月には、展開していた大半のUDTはベトナムを去り、第七艦隊の船上にいました。

ナスティボートの上にて

 1972年、公式にはアメリカ兵は活発な作戦行動には関与していない事になっていましたが、ナスティボートに乗っているいくつかのUDTは北ベトナムの海岸に沿って多数の任務を遂行しました。
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*L.D.N.N (南ベトナム海軍特殊部隊)と共同で行動したものと思われる。
しかしその活動は6か月後に終わりとなってしまい、最後のUDT要員はベトナム海軍へ装備と機材を譲渡し本隊に帰還しました。
第二次世界大戦と朝鮮戦争以上の功績を立て、こうしてベトナムでのUDTの活動は終わりました。

 ベトナム戦争中行われた上陸作戦のすべてにかかわり、SEALチームと比べ作戦域に制限はありましたが、水路調査から敵基地の破壊や補給線の寸断など数々の危険な任務をこなしてきたUDTですが1983年、解隊され第二次世界大戦からの栄光の歴史に幕を下ろす事になりました。
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NAVY SEALs の歴史 序章

 案外と知っているようで知られていない、SEALチームの歴史を何回かに分けて書いてみようと思います。
無論アフガニスタンや現代に至るまでは書きません(笑)
創世記からベトナム戦争終結までを書いてみようと思いますが、洋書の翻訳なので時間がかかったり端折ったりするかもしれませんが、苦情は一切受け付けません('A`)
自分が好きな部隊の歴史や背景を学ぶ事は、何かの役に立つかもしれません。
ま、中年のオサーンが今頃になって英語を学びなおしているという、公開羞恥プレイだといった視点で見て頂けると幸いです。

序章 
水中破壊工作隊 UDTの誕生

 1942年11月、米海軍は北アフリカの上陸作戦で上陸部隊が海岸で直面するであろう困難な障害物に備え、17名からなる分遣隊を結成しました。
その後1943年7月、シシリー島の攻略作戦を支援する為21名からなる分遣隊[海軍戦闘破壊ユニットNaval Combat Demolition Unit One (NCDU 1)]を結成しました。
これらの分遣隊は作戦立案者から将来的に必要であると認められ、1943年夏正式な訓練プログラムが立ち上げられ、フロリダ州ピアース海軍基地にて6名のNCDUが結成されました。
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 1943年
ガダルカナル島とアリューシャン列島で日本軍に勝利した米軍は、中部太平洋への侵攻作戦を計画していました。
攻撃の矛先となったのは、ギルバート諸島のタラワ(ベティオ島)、マキン、アベママの3島。
日本軍もギルバート諸島の戦略的重要性は十分認識しており海軍陸戦隊を守備で送り込み、特にベティオ島の防備を強化し要塞化を目指していました。
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 アメリカ軍もベティオ島への上陸作戦に懸念を抱いていました。
事前の情報が不足し、1841年にアメリカ海軍の探検調査によって作られた水路図に基づき計画が立てられ、戦前にタラワ環礁に住むか近辺を航行した事のあるイギリス人やニュージーランド、オーストラリア人からのわずかな情報しか存在しなかったのです。
 事前の情報を元に環礁内での水深を作戦立案者は推測し、水深1.5mの見積もりを採用しました。だがこの決定が後に大きな惨禍を生む結果となったのです......

 上陸作戦当日、事前に行われた猛烈な艦砲射撃や爆撃にもかかわらず日本軍の陣地はほぼ無傷で存在していました。
海兵隊の上陸部隊が海岸を目指すが、海岸の400mほど手前にサンゴ礁が存在し、その時使われた上陸用舟艇では水深が浅すぎて(水深90cm)乗り越える事が不可能でした。
仕方なくサンゴ礁の上で兵を降ろし海岸を目指したのだが、サンゴ礁を越えると水深が急に深くなり、装備の重さで溺死する兵が続出。なんとか前に進めたとしても、何も遮蔽物の無い海の上で日本軍の機銃掃射が加えられ、海岸にたどり着けた海兵隊員はほとんどいなかった.....

 一切れのサンゴ礁を奪う為の76時間の戦闘で、1027名の海兵隊員と29名の海軍将兵が戦死または負傷がもとで死亡し、あるいは行方不明となって死亡したものと判定されました。
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 しかしタラワ戦で学んだ苦い教訓は有効に利用され、その後多くのアメリカ兵の命を救いました。
その中で事前偵察を行い、上陸前に前途に横たわる天然もしくは人口の障害物を除去するように、水中爆破斑が結成されるきっかけとなりました。
上陸前に目標となる海岸を偵察し、上陸部隊を誘導する。迅速に敵の海岸に橋頭堡を打ち立てる事を期待されました。
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 新しい部隊のメンバーは、海軍の有名な建設部隊であるシービーズや、海兵隊レイダース(海兵隊のコマンド部隊)などから募りました。
 ピアース基地の初期の幹部は、人間の身体は10倍以上の仕事を実行する事ができるをコンセプトにトレーニングを行いました。
過酷な環境でトレーニングが続けられ、強いコンバットスイマーに鍛えられていきました。
現在のSEAL選抜過程ヘルウィークの元祖と言われています(男の集団から”女の子(ふぬけ)を排除するとも言われた)
過酷な訓練に残った隊員は、1944年6月6日のオーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)に投入されます。

 オマハビーチでは70パーセント、ユタビーチでは30パーセントの大損害を受けるが、侵攻作戦を支援する事に成功しました。
オマハビーチで大損害を受けた隊はピアース基地に戻されましたが、残った隊員はユタビーチからドラグーン作戦(南フランス侵攻作戦)に参加しました。
 太平洋戦線でも同様の部隊が訓練されておりクエゼリン環礁の戦いで偵察任務についていました。そこにピアース基地から送りこまれたこれら隊員達が核となり、新しい部隊の創設が計画されました。
海軍の指揮下、100名単位での水中破壊工作隊、UDT[UnderwaterDemolition Teams] の誕生です。

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 裸に海水パンツ、水中メガネとフィンのみ、25m間隔に結び目をつけた釣り糸1巻と鉛のおもりをつけた適当な長さの測深線1本、記録をとるための鉛筆と、左の手に巻き付けた記入用の1枚のプレキシガラスのみの装備で、UDT隊員は偵察に向かいます。
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身を守るのは1本のナイフのみという裸の戦士は、この後主な強襲上陸作戦に尖兵として参加していきます。
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 第二次世界大戦の後、朝鮮戦争にも参加。
仁川上陸作戦や、北朝鮮沿岸の偵察や破壊工作に従事しました。
朝鮮戦争の後、UDTはコマンドウ作戦への模索として海上へのパラシュート降下や潜水機材の改良などの研究を進めました。
そして冷戦の時代、彼らは新しい戦場へ赴くのでした。
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続く
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まとめ

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