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NAVY SEALs関連記事のまとめ

昨年から、ベトナム戦争時代のシールチームの歴史や色々な考察を書いてきました。
今まで日本ではほとんど知られていなかった、NAVY SEALsの初期の歴史や作戦行動などを色々書けて、僕自身も大変勉強になりました。
ただその該当記事に行くのに、このブログのデザインだとえらく面倒だというのに気が付きましてw,改めてこの記事から各ページに飛べるようにしようかと思います。

インターネット見て人の装備マネする前に資料買えよ、という記事w

ベト戦SEALS入門


NAVY SEALsの創設~ベトナム戦争終結までの歴史

NAVY SEALs の歴史 序章
NAVY SEALs の歴史 1 誕生~ベトナム戦争への道
NAVY SEALs の歴史 2 戦火の中へ(1966~)
NAVY SEALs の歴史 3 転換点 テト攻勢(1968~)
NAVY SEALs の歴史 4 ベトナムからの撤退


1968年、テト攻勢下でのNAVY SEALs/UDTの作戦行動についてまとめたお話。

テト(1968) part1
テト(1968) part2
テト(1968) part3
テト(1968) part4
テト(1968) part5
テト(1968) part6

ベトナム戦争下、案外と知られていないUDTチームの事を書いた一編。


UDT in Action

現用勢のリクエストにお応えして書いた、グレナダ侵攻時のNAVY SEALsの行動について。
(もうこの後の時代は自分で翻訳汁wwww)

Seals in action グレナダ侵攻作戦


ベトナム戦争中、暗殺作戦として知られたフェニックス計画とPRU(省偵察隊)についてまとめたお話。

フェニックス 1967-1971

ベトナム戦中、シールチームが使用した武器に関しての記事。

Navy SEALs Weapons
Navy SEALs Weapons 2

SEALチームで使われた有名なシステム23 M60デスマシーンに関しての記事。

死の咆哮 DEATH MACHINE

戦術的、装備的な考察。

1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その1
1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その2


ベトナムSEALsが使用した、有名な装備であるSEALベストとコートに関してまとめた記事。

SEALベストとSEALコートのお話
SEALベストとSEALコートのお話 2


NAVY SEALsのトレードマーク、UDTライフプリザーバーの紹介記事。

UDTライフプリザーバー雑記

同じくベトナム戦SEALsの代名詞となった、シールチームとジーンズに関する記事。

Navy SEALSはジーパンの夢を見るか


とりあえずこのようにまとめてみました。
これからも時間が許す限り、ベトナム戦中のNAVY SEALsの事を書いてみようと思っております。



関連記事
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1965-1966 part2

Part1はこちらから

1965~1966 Part2 SEALチームベトナムへの派兵

1966年2月に、第一海兵師団第一海兵連隊がベトナムに配備されました。その作戦行動には、UDTなどのフロッグマンによって支援された数多くの上陸作戦任務が含まれました。
また同月、米海軍司令部直轄の作戦のためにサンディエゴのSEAL TEAM 1(3名の将校と15名の下士官兵)の小さなグループが、南ベトナムに送られました。
当初、海軍の作戦立案者はこの小グループを、どうすべきかについてまったく分からず、それに運用する作戦計画もありませんでした。
1964年、歴戦の海軍士官Bucklewによって書かれたレポートにより、メコンデルタ地域でSEALを活用するように勧告されましたが、実際にSEALが派遣されるまでに2年の月日がかかりました。
Captain Phil H Bucklew
Cpt Bucklew

SEALsは、Saigon近郊のランサット特別地区(Rung Sat Special Zone [RSS])で活動するベトコンゲリラを標的としました。
この泥だらけのマングローブ沼の広さは約400平方マイル、そして1mちょっとの水深で4ノットの速い潮流が流れていました。
野生生物の棲家だったこの湿地帯は、Saigon近くで行うゲリラ作戦の避難所として、VCが長い間使用してきました。Saigonに向かう航路はこのVCの巣ともいえる隠れ家を経由するので、一般の商船への頻繁な襲撃や砲撃を可能にしてきました。
*RSSZ(ランサット特別区域)は、以前より共産ゲリラの聖域として知られていた。
別名「暗殺者の森」とも言われている。
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このSEALの小さなグループは、Nha Beの海軍基地から出撃し、最初はD分遣隊という名目で配属されました。
これらの初期のSEALによって蓄積された経験と実績は、ベトナム各地への他の小隊の配備を推し進めました。
彼らの登場は、ベトコンの活動を阻害しました。これは今まで実質的に不可能とされてきた事でした。
VCはもはや、航路の妨害を行う事も逃走することもできなくなりました。
SEALの待ち伏せポイントは、偵察用航空機に設置された「赤いもや」と呼ばれる赤外線装置によって得られた敵の移動を参考にして、それに情報を加味して決定されました。
ベトコンはすぐに、この新しい脅威が彼らの領域で活動を始めた事を察知しましたが、未知の敵の正体が明らかになるまで対抗する事ができませんでした。
この間、RSSZにおけるVCの活動は低下しました。

現時点では、SEALの作戦上の役割は依然として定まっておらず、それによって一般命令の拡大解釈によって大きな柔軟性を得る事ができました。
あるSEAL隊員は、下された作戦の例をこう話しました。
「敵と接触が行われるまでのパトロール。できるだけ多くの敵兵を殺害する事。任務完了後に敵地から脱出する」
SEAL小隊内で、作戦展開地域(AO)や標準的な作戦手順(SOP)を確立する際に問題が発生しましたが、SEALはこれを部隊で実行するために最善を尽くしました。
後に海軍関係者は「SEALパック」と呼ばれるものをまとめました。
このグループは、ボートサポートユニット(Boat Support Units)、機動サポートチーム(Mobile Support Teams)、海軍のシーウルフ武装ヘリコプターなどの支援部隊などで構成されていました。
SEALの典型的な作戦では、これらの支援部隊により敵地に侵入し、そして戻ってくるまで待機する。敵との接触が行われた後、これらの支援部隊はSEALの指示により火力支援を行い、優れた火力で部隊を抽出することがありました。
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MSTチームワッペン
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そのような任務は、7名の隊員がVCの野営地がある島に潜入した作戦で見る事ができました。SEALは夜明け前、ボートで潜入しましたが、潜入後ボートは約500mほど沖合で待機していました。
SEALは海岸に上陸しましたが、足が深くはまってしまう泥に遭遇しました。彼らは完全に上陸するのに4時間以上かかりました。そこでSEALは安全を確保し、汚れてしまった武器をクリーニングしました。
それからSEALの男達は、8時間にわたり島をパトロールしましたが、何も発見できませんでした。彼らは川に隠してあったボートで合流地点に戻ったが、その時島の乾いた土地に川と並行して新しい小道を発見しました。
SEALは川に沿って潜入、静かに水の流れに沿って移動し川沿いの草木にカモフラージュして隠れました。

SEALのポイントマンは、チームをそこに留め偵察をしました。彼は2つの小屋を発見し、6人のベトナム人が集まり始めました。その近くに積まれたのは6丁のライフルで、そのうちいくつかは共産国製の武器でした。
この発見を報告するために、ポイントマンは密かに後退しました。チームの隊長は、逃走を図るであろうVCを分断するために、隊を2つに分割しました。1つの隊が小屋の方に展開していたので、もう一つの分隊はVCと反対側の運河にある小舟(サンパン)の中に潜みました。

突然、運河方向に展開していた分隊がベトナム人に発見されました。彼が警報を発する前に、SEALは火ぶたを切りました。5名のVCが射殺され、1人が小屋の中に逃げ込みましたが、その後を追うように手榴弾が投げ込まれました。

その地域を確保しながら、SEALは確保した書類をプラスチック製のバックに入れました。その書類は防水が施されたバッグに入れられ、VCのサンパンに載せられました。大柄なアメリカ人が一緒に乗るにはサンパンは小さすぎたので、SEAL隊員は運河を泳ぎサンパンを誘導しました。
彼らが沖合の支援艦艇と接触する前に、チームはVCの大規模な攻撃を受けました。川沿いにいたボートが丁度到着して火力支援を行い、チームを脱出させました。
捕獲された書類は、ほとんどの場合情報担当者にとって重要な収穫物でした。
このようなSEALパトロールは、現場の生の最新情報を安定して提供しました。

典型的なミッションでは、Seawolfヘリコプター隊の武装ヘリコプター(ガンシップ)や、固定翼の飛行機、陸上からの砲撃、軍艦による砲撃などが火力支援に使われました。
SEALは自分達に有利な環境の中でゲリラと戦い、ゲリラ活動地域の裏庭で激しい戦いを起こそうとしておりました。
小隊単位の戦いは、共産主義者の戦術の裏をかく有効な方法である事が判明しました。予期しない場所での待ち伏せや攻撃は、共産ゲリラに心理的なストレスと圧力をかけました。
SEALは反乱軍にとり戦争が高くつくように、色々な革新的な方法を取り入れ利用しました。
伝えられる所によると、SEALsはある任務で、共産党の上級幹部を暗殺したと言われています。
後に情報部は、その殺害した将校の葬儀の場所、日付、時刻を正確に特定する事ができました。
SEALはガンシップ武装ヘリコプターでその場所に強襲をかけ、仲間の葬儀に出席するために来ていた共産党の高級幹部数名を殺害しました。

1966年3月26日から4月7日まで、UDT2とSEALチーム1からの分遣隊がJackstay作戦に参加していました。
この作戦は、海兵隊がサイゴン川河口への上陸作戦も含まれていました。
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*ジャックステイ作戦に参加する、海兵隊Recon

UDTチームC分遣隊とD分遣隊の11名の隊員は、危険な河の浅瀬を迂回して上陸用舟艇を誘導するために、払暁から雨の降る朝8時に目標地点に到着した。彼らはその後監視作業を行い、上陸地点の500~800mに渡る地域の地雷などを処理し掃討しました。
SEALsと海兵隊が地域を徹底的に捜索して待ち伏せ準備をする間、UDTも敵軍の逃亡を阻止する4人組の阻止チームを編成しました。これらの部隊は、18時間にわたり該当地域に留まりました。
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1つのUDT阻止チームが、待ち伏せポイントでベトコンが乗ったジャンク船を攻撃、6名の乗員との激しい戦闘に巻き込まれました。ベトコンは戦闘で5名が戦死し、1名が捕虜となりました。
その後、部隊はベトコンの待機所を破壊するように命令を受けました。
Jackstay作戦は、UDT,SEALs,海兵隊Recon、および海軍からの部隊が参加したベトナムにおける最初の大規模な作戦として記録されました。
更にベトナム軍海兵隊支援のため、L.D.N.N(ベトナム海軍特殊部隊)とその顧問がRSSZに送られました。彼らには、3つの河川偵察作戦が与えられました。
その作戦は、参加部隊の優れた連携により、かなりの数のゲリラ活動を抑止し成功を収めました。

これまでSEALの待ち伏せチームは、NhaBeの基地から地元の民衆から見られやすい時間に、川を舟艇で行動し作戦を行わなければなりませんでした。
このような作戦行動をとるとベトコンに素早く警報が行き、初期の段階の待ち伏せ作戦は上手くいきませんでした。
ベトコンの情報網に対抗するためにとられた方法の1つが、NhaBe基地から武装したボートのみを出撃させ、チームメンバーをサイゴンまで車で送りだして移動させたやり方でした。この欺瞞作戦が4月18日と19日に初めて行われた時、SEALパトロールチームはRSSZ内で移動していたサンパンで、3名のベトコン兵士を射殺しました。
しかしながら、初期のこのような問題は以前として続いていました。
南ベトナム情報機関は情報源を厳重に秘匿していたが、4月13日RSSZにて、その情報提供者が夜間単独で灯りをつけずにサンパンで行動していたのを、SEAL部隊が待ち伏せ攻撃で殺害してしまいました。
米海軍はSEALの待ち伏せ作戦も厳重に秘匿していましたが、その後このような間違いを防ぐために、両国の連絡を強化する必要があるとみなされました。

4月27日に行われたOsage作戦にて、UDT11D分遣隊がDanangから北へ20マイルのPhuの偵察を行いました。そこで完全な水中破壊工作部隊の分遣隊がベトナムで最初に活動した事を祝して、UDT11はD分遣隊とともにC分遣隊を増援しました。
Osage作戦は、驚くべき事に敵兵力の捕獲を計画した、敵支配地域への水陸両用作戦の1つでした。この作戦の後に、夏に始まったDeckhouse作戦が続きました。
6月16日~18日まで行われたDeckhouse作戦の間、UDT11はSongCai川の岸にて、USSクックから出撃し極秘の偵察を行いました。
ベトコンの逃走を阻止するJunk Foce21にもUDTは参加しました。7月16日~18日まで、DeckhouseⅡ作戦の一部隊として行動し、その後Hastings作戦を支援するための作戦行動にも参加しました。
この作戦はDMZ(非武装地帯)から浸透してくる敵兵力の阻止の為に行われたが、北ベトナムは南部の反乱の支援を止めるつもりはありませんでした。
その結果6月にジョンソン大統領は、政治的圧力を高めるため北ベトナムのHanoiとHaiphongの石油基地の爆撃を行い、
戦いは拡大していきました。そして北ベトナムは、和平会談の提案を拒否し続けました。

6月15日早朝、SEALのパトロールはRSSZの東端にあるCo Gia川にて、サンパンを待ち伏せしました。1名のベトコン兵が死亡1名が負傷し、最後乗っていた1名が逃げ出しました。
ベトナムに派遣されたSEALチーム1は増強され、士官と20名の水兵がRSSZへ派遣されました。

7月27日正午、Can Gio村西側の川を、6名単位のSEALチーム3ケ分隊が行動していました。各分隊が静かに巡回していたら、1つの分隊が新しい足跡のついた小道を発見しました。
15時30分、SEALのポイントマンは3名の敵兵と接触しました。彼はM79グレネードランチャーを発射し、1名のベトコン兵を殺害しました。この地域を掃討している間、フロッグマン達は敵小隊を収容していた基地を発見しました。
最大で80名の兵士を収容できる規模の基地でした。
武器、装備品、米200ポンド、書類と共に大量の弾薬が鹵獲されました。
これらの鹵獲品と基地は、この後破壊されました。ここで鹵獲された文章は、Long Thanh半島のベトコンによって設置された防衛網と基地の位置を明らかにしました。

人的資源の増加に伴い、Nha BeからRSSZで行動しているSEAL分遣隊がG分遣隊として任命されました。
G分遣隊のパトロールは、RSSZのベトコンを苦しめ続けました。
8月5日Nha Beの南東16マイルの地点にて、払暁の待ち伏せで3艘のサンパンを鹵獲し(そのうち2艘はモーターを搭載していた)、積まれていた6000ポンドの米も捕獲しました。
サンパンを先導していた敵兵士は危険を察知し、仲間へ警告するために発砲しました。その後3人の敵兵が水に飛び込み、マングローブ沼地に向かって逃走しました。SEALは追跡しましたが、共産主義者は逃げおおせました。
8月7日、6名のSEAL隊員がジャンク船とサンパンを襲撃し、7名のベトコンを殺害しました。
18日の朝、パトロールチームは、306,000ポンド以上の米の備蓄を含む2つの巨大なサイロを発見しました。この地域へ空軍と海軍の砲撃支援要請され、そのサイロを破壊しました。
後にSEALは損害を評価し、徹底的に破壊するために再度派遣されました。
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1965-1966 

 先に1968年のテト攻勢を翻訳したのは間違いでした(白状)
 米軍ベトナムという国に介入し始めたのは1950年代のころでした。米国海軍、UDT(水中破壊工作隊)が派遣されたのは、1960年代に入ってからと言われ、ベトナム共和国の海軍軍事顧問などとして活動しておりました。
 実際にアメリカが本腰を入れ始め、本格的な派兵が行われた1965~1966年のUDT/SEALのお話を何回かに分けて書いてみようと思います。

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1965~1966  Part1  戦いのはじまり


 1965年1月26日、北ベトナム領海内での通商破壊作戦の為、10艘のパトロールボートが南ベトナム政府に与えられました。
パトロールボートは、DaNangの海軍基地をベースにして活動しました。DaNangに駐留する間、アメリカ政府が船を管理しアドバイザーとして存在しました。
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パトロールボート

 パトロールボートは南ベトナム軍の特殊部隊隊員により操船され、任務に従事しました。
ベトナム側が反政府行動を支援し続けたので、南ベトナム政府は海からの急襲を継続して共産主義者へ圧力をかけ続けました。

 北ベトナム政府は1964年の間、南ベトナムに対し劇的な量の軍事物資とゲリラ兵士などの人員を浸透させました。しかし共産主義者のこの行動をアメリカ側は察知していませんでした。
この事を知ったのは、1965年の初頭の頃でした。
 2月、米軍のヘリコプターが南ベトナムのQuiNhon南部のVungRo湾にて、共産主義者が乗った16艘のトロール船を発見し、軍が行動を起こしました。
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 トロール船へは航空攻撃が行われ、最終的には転覆沈没しました。
 数日後、増援で南ベトナム軍が呼ばれ湾を包囲しトロール船に迫ったので、数日にわたりゲリラから強力な抵抗を受けました。
戦闘中、ベトコンがトロール船に積まれた物資の多くを廃棄したにもかかわらず、最終的にソ連と中国製の大量の武器弾薬を軍は発見しました。
 米海軍SEALの軍事顧問によれば、15名のL.D.N.N(南ベトナム海軍特殊部隊)隊員がこの武器弾薬の証拠を回収し、北朝鮮などが南ベトナムの反政府勢力に対する積極的な支援をしている証拠を、米国で報道する上で大きな役割を果たしました。

 1965年3月8日、最初の米軍戦闘部隊がベトナムに派遣されました。同日、第3海兵師団第3連隊がDa Nang近くに上陸しました。
この海兵隊の任務は、Da Nangの空軍基地をベトコンからの攻撃から守る事でした。海兵隊は上陸用舟艇から完全な戦闘装備でDa Nangの海岸に上陸しました。そこで彼らは、アメリカからの報道陣や地元の歓迎に迎えられました。
その横で、UDT12のフロッグマンたちはその騒ぎを傍観してました。
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 UDT12のフロッグマン達は、海兵隊員の上陸する海岸を確保する為、先頭に立って海岸調査へ赴きました。
彼らは第二次世界大戦を戦った先達の伝統に従い、海岸の砂にゴムボートとパドルを飾り上陸する海兵隊員へ潜水夫からの挨拶としました。
「ようこそ海兵隊 UDT12」

 派遣されたアメリカの地上軍は、長い間作戦行動に移りませんでした。4月、海兵隊員と他の部隊は、敵ゲリラ部隊の行動を阻止するために活動を開始しました。海兵隊と彼らの作戦行動支援の為、UDT分遣隊は海図を参考に、南ベトナムの海岸線の調査を始めました。
 このような水路調査は、ベトナム戦争の初期でも武装勢力の抵抗にしばしば遭遇しました。
1965年4月23日、海兵隊偵察隊フォースレコンは、Saigonの北370マイル,QuangNamとQuanTin行政区の間にある海岸、SongTra Bongにて調査を行おうとしておりました。
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SongTraBong

調査グループは25名のベトコン部隊から、よく調整された攻撃を受けました。敵からの接触を断とうとしている間、海兵隊員はその地域からの後退を強いられました。
包囲された部隊を救助する為、USSクック(APD190)から救援部隊が送られました。
撤退するボートに仲間を乗せていた1名の海兵隊員(Lowell Merrell)と2名の水兵(EN2 Richard Langford TM3 William Fuhrman)がこの作戦行動中、致命傷を負いました。
Merrellは、海兵隊の精鋭フォースレコンのベトナムにおける最初の戦死者となりました。

*海兵隊の精兵であるフォースレコンは、潜水艦からゴムボートで敵地を偵察する任務も行っていた。
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画像は1950年代の訓練風景である。

 水路調査という任務の性質上、潜水夫はナイフ一本という軽武装のままでした。
作戦立案者にとってこれらの最初の死傷者は、UDT任務に伴う危険性と彼らの警護を提供する重要性を認識するものでした。
 5月には陸軍の173空挺旅団がベトナムに到着しました。こうして、米軍の役割が拡大し続けました。
戦闘が東南アジアで拡大していったので、アメリカ西海岸のUDTチームはフィリピンにて部隊展開をし始めました。
 各UDT部隊は西太平洋戦域で6か月の任務に従事し、そこで艦隊運営を支援してから西海岸に戻り追加の訓練や再編成を行いました。

 UDT分遣隊は、フィリピンのスービック基地を利用してさまざまな任務を行うために、西太平洋戦域にて色々な場所に配置されました。
 スービック湾に置かれた司令部は派遣されたUDTチームを支援し、本部にA分遣隊(Det A)が配備されました。A分遣隊は隊の運営を支援して他の分遣隊を訓練し、器材の提供やメンテナンスを行いました。
 B分遣隊は第七艦隊の作戦運用の為、水陸両用戦隊(Phibron)の一部として、高速輸送船であるAPDに配属されました。このフロッグマンのグループは、必要に応じて海岸偵察と調査を行いました。

 C分遣隊はUSS Perch(潜水艦)に配属され、後にさまざまな任務に対応するために改造されたUSS TunnyとUSS Grayback潜水艦から、小規模なコンバットスイマーチームとして行動しました。

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USS Perch
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USS Tunny
USS_Grayback;0857404
USS Grayback

 海岸偵察を行う彼らの任務は、2つの基本的な方法を駆使して行われました。
 第一の方法はある程度の深さの海中から、潜水艦の脱出ハッチを使いコンバットスイマーが「締め出される」ように潜水艦の外に出る方法でした(”底打ち”とも呼ばれていた)
水路調査を行うため、コンバットスイマーは36フィートの深さからゆるやかな登り坂を上るように海面へ浮上しました。任務終了後、このプロセスを逆に行い潜水艦に戻りました。
 第二の方法は、潜水艦を浮上させ水面上に停泊したのち、UDTのスイマーは潜水艦のデッキに固定されたゴムボートに搭乗します。それから潜水艦は潜航し、ゴムボートは船体から切り離されます。そしてコンバットスイマーが目標とする作戦地域までパドルを漕いで移動し、任務を完了することができました。
 スイマー達は水中の潜水艦の位置を把握し、ロープを潜望鏡に引っ掻ける事がありました。このようにしてゴムボートを安全区域まで曳航したりする事もありました。

 D分遣隊は南ベトナムの北岸、Danang近郊のキャンプTien Shaに配備されました。
D分遣隊の隊員は戦争を通じ、何百もの敵のバンカー(掩蔽壕)を破壊する任務を与えれらました。
 キャンプはまた、他のUDT分遣隊の休暇(R&R)センターとしても機能しました。E分遣隊とF分遣隊は両用即応グループ”Amphibious Ready Group (ARG)"の一員として活動し、昔ながらのUDTの水路観測任務に従事しました。
 G分遣隊、H、I分遣隊はベトナム戦争の後期に、ベトナム南東部カウマウ半島南端の河川海軍に参加しました。彼らの任務は敵バンカーの破壊だけでなく、その分隊はカウマウ半島の運河、川、沼地を調査するコマンドチームとしても用いられました。

 UDT11は、1964年1月28日から1966年9月5日までの間に行った作戦行動を称えられ、海軍から表彰されました。
授章の理由は、UDT11がベトナムで行われた8つの主要な強襲上陸作戦に参加した事を称えての事でした。
 チームは110マイル以上に渡る海岸線、河川、港の調査を秘密裡に行いました。また他のUDTの作戦行動は、南ベトナム沿岸すべてを網羅していました。
 UDT12のB分遣隊は、8月のOperation Piranha、9月のOperation light、10月のOperation Dagger Thrust、11月のOperation Blue Marlinなど、その年に行われた主要な上陸作戦すべてに参加しました。
 これらの作戦のそれぞれは、米海兵隊とその水陸作戦能力をベトナム戦争遂行に深く反映させました。 これ以降より多くの米軍がベトナムへ派遣され、この戦争において他のSEATO加盟国(東南アジア条約機構)や同盟国からの援助を米国は歓迎しました。
 その年の終わりに、オーストラリア、ニュージーランドと韓国の軍が共産主義者に対抗して、ベトナムへ派兵されました。ですがベトナムにおける最大の軍事力は米軍が占めていました。

 1965年後半にかけUSS Perchは、極秘の海岸調査を行うUDT隊員の発進基地として利用されていました。
最初の公式活動は、南ベトナムの沿岸で行われました。
 10月に行われたDagger Trust作戦は、第七艦隊司令長官D.L.Wulzenによって指揮されました。
夜明け前に行われた極秘偵察は、Prech号に乗り込んだUDT12のD分遣隊の男達が行いました。

 フロッグマンチームは甲板にいた乗組員とともに、潜水艦の後部デッキにあったゴムボートを膨らませて準備し、水面に浮かべました。ゴムボートから伸びたロープは、潜水艦の潜望鏡に結び付けられていました。
 すべての準備が完了し、潜水夫たちはゴムボートに乗り込みました。そして潜水艦は海中へゆっくりと潜航していきます。潜航した潜水艦に牽引されながらゴムボートはゆっくりと目標の海岸へと曳航され、近づいた所で潜望鏡のロープを解きました。
 UDT隊員は彼らの任務を遂行するため、静かにかつ慎重にパドルを漕ぎ続けました。その間Perch号はUDTにいかなる支援を行えるようにその海域に留まり、航空支援の無線誘導の支援も行いました。
作戦地域の水路のデータや貴重な情報は、海軍のデータベースに集積され周知されました。
 UDT隊員は海兵隊の上陸が行われる夜明けまで上陸地点の警護の為海岸にそのまま残り、無事任務を遂行する事ができました。
 このような極秘の調査は、海軍の水陸両用部隊が海岸への上陸作戦をスムーズに行う事ができた重要な理由であり、これらの作戦はフロッグマン達の主な役割であありました。
UDT12-A分遣隊は1964年12月1日から1965年5月29日まで、極秘の水路調査や海岸偵察任務を行い表彰されました。

 同じくUDT12-D分遣隊は、1965年5月21日から7月8日までの期間同様の作戦行動を行い、同じく賞賛されました。
UDT隊員は戦闘行動の他に、他の重要な仕事にも従事する事となりました。
 当時南ベトナムでは訓練を受けたダイバーが不足しており、フロッグマン達に熱い視線が向けられました。その結果、船のサルベージ作業や海難救助任務を行う事を求められました。
 1965年の後半2名のUDT隊員はChu Lau地区にて、約1.3kmの燃料パイプの修理を支援しました。海中の視界は悪く海面も荒れていましたが、UDTダイバーの専門家の協力で貴重な燃料パイプの修理が完了しました。

 当時南ベトナム軍の特別攻撃隊はDa Nang海軍基地をベースにして、北側への破壊工作任務を行っておりました。基地は偽装工作を行い通常の警備をしておりましたが、他の米軍基地のように共産主義者の注意深い監視下に置かれてました。
 10月28日、ダイビング用の新型器材のテストを行う為、第二次世界大戦の時に海軍に入隊した経験豊かな潜水夫であり、Da Nang基地の保安担当であったロバート J フェイがジープに乗っていた所、ベトコンからの迫撃砲による攻撃を受け死亡しました。
 彼は1951年の朝鮮戦争から従軍し、UDT2を含む各UDT部隊に勤務しました。彼の経験は、1965年4月にMACV-SOG( 南ベトナム軍事支援米軍令部-研究/観察グループ)のアドバイザーとして重要な役割を果たしていました。
彼は、ベトナム戦争で死亡した初めてのUDT隊員となりました。
Da Nangの米海軍基地とモンキーマウンテン前進基地などのSOG基地は、キャンプフェイと名付けられました。

*モンキーマウンテンは、Da Nang基地と海岸を見下ろすソンチャク山に作られた基地で、SIGINT(傍受)施設が作られた。
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 12月、ホワイトハウスは北ベトナム政府への軍事的圧力をかけ続け、平和交渉へ誘導しようとしたが北の政府は申し出を拒否しました。
その結果、アメリカ合衆国は北ベトナムの限定された地域への爆撃を、1966年1月に再開しました。
通常戦力による作戦行動は南ベトナムで拡大し、そして特別攻撃隊による北ベトナム海岸線への襲撃が続けられました。
 1965年12月1日、ナスティボート(快速パトロール艇)が作戦行動の最初の犠牲となり失われました。そしてすべての特殊作戦部隊と共に、ベトナムへの米国政府の関与は日々増え続けました。

 1966年の初頭ベトナムでの任務は、米国本土でBUD/S(基礎水中爆破訓練)を受けた男達の目標となるゴールでした。
 BUD/S卒業生でもコンバットダイバーになるのは難しく、彼らは東南アジアの紛争に参加すべく困難に耐えました。
1965年12月3日、このトレーニングコースから卒業した一人の若い海軍士官、3等海尉Theodore Roosevelt IVは偉大なテディ・ルーズベルト大統領のひ孫でした。
ハーバード大学を23歳で卒業した彼は、当初海軍を経歴にする計画をしなかったのですが、ベトナムでの任務が彼を必要としていました。
彼と他の候補生が最初のUDT/SEALトレーニングを受けている時、この選抜コースのインストラクターは候補生の特性や性格を見抜いていじわるする事で有名でした。
彼の曽祖父の外交政策(でかい棍棒を持って静かに話せ "speak softly, but carry a big stick")を思い出し、そのインストラクターはコースの途中で3フィートの長さの丸太を担ぐよう命令しました。

 1966年1月21日、UDT11-C分遣隊は主要な沿岸地域のPhan Thiet,Cam Ranh、Nha Trang、Qui Nhonの調査を行いました。1966年1月21日から28日にかけ、もう一つの大規模な水陸両用作戦が行われました。
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 南ベトナム第Ⅰ軍が管轄するQuang NgaiとTam Ky近くの海岸にて、海軍は朝鮮戦争の仁川上陸作戦を越える規模の陸上兵力を上陸させる計画を立てていました。
USS Perchは今回もUDT11-C分遣隊を海岸に送り込み、偵察行動を取るよう命令が下されました。
潜水艦は海岸から沖合数キロの海中で待機し、それからサポート要員の潜水夫が脱出ハッチから出てゴムボートを
用意しました。
 スキューバ装置を利用して、支援要員は潜水艦の外側に器材と誘導用のラインを用意します。すべての準備が整い次第、潜水艦の乗組員に合図が送られました。UDT隊員は脱出ハッチから潜水艦を出て、支援要員が準備したスキューバ装置から呼吸しました。
 ゴムボートは海面に浮上し膨らみました。フロッグマンは海面に浮上し、ゴムボートに乗り込みますが、この乗り込むプロセスで武器、無線機、器材は特に厳重に保護されておりました。準備が完了すると、フロッグマン達はボートから音波発信機を水中に垂らしながら目標の海岸へ進みます。
 潜水艦はゴムボートからの音波信号をキャッチして正確な位置を把握し、上陸地点の海岸へ航空機を無線誘導しました。そこでUDTチームの極秘偵察が始まります。
 このような手順は、かなりの専門知識と長時間にわたるリハーサルを必要としました。Perchの乗組員とUDT隊員の両方によって培われたチームワークは、ベトナム戦争の初期には特に必要とされるものでした。

 成功裏に終わった偵察の後、フロッグマン達は外洋へゴムボートで漕ぎだし、ゴムボートにロープを付け、信号で待機しているPerch号に合図を送り、沈降している潜水艦の潜望鏡にロープを引っ掛けボートを曳航してもらいます。それから更に外洋に向かい安全な海域で潜水艦は浮上し、フロッグマンと装備を回収しました。


続く


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生存報告&、サバゲ行ってきましたよ

10月は色々な事がありました。
先月非公開の記事がありましたが、中身はわいせつな事しか書いていませんので公開はしません(虚言)

さて前フリはここまでにして、先月は色々な雑務に追われてここを弄る時間が全然ありませんでした(死)
とりあえず活動報告してみようと思います。

10月23日、御殿場ネットワーク秋の大会に行ってきました。
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ヒストリカルでもリエナクトでもないガチサバゲなので、この大会ではお遊び要素を入れた装備を毎回組んでます。
今回は、これ。
木村、サバゲに着ていく服忘れたってよ!?
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かなり物議を醸している写真なのですが、この写真から色々と考察してみましょう。

向かって右のストーナー射手の隊員ですが、1970年初頭に採用されたM60マシンガン用運搬ベストを着ております。
ストーナーのコッキングハンドルが現地改修で長くなっている所も注目ポイントですね。
で、左側のサバゲ行くのに服を忘れた木(ryですが、中国製の56式突撃銃を持ち、右肩からはデモリッションバッグを下げ、装備として56式の弾帯を装備しております。
フェイスペイント等から推察するに、SEALの夜間待ち伏せか強襲任務に参加する為に装備を整え、出撃前の写真なのではと私は考えます。
当時の中華やベトナムメイドの56式の弾帯はカーキ色なので、色が夜間だと明るく目立つ恐れがあります。
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なので染めたかペンキを塗ったかで装備を黒染めし、目立たなくしたと考えます。
同時に、夜間だから服は適当でいいよねとばかりに、Tシャツの下にロンTを着て作戦参加したと思われます。
つうかまんま普段着じゃん(´Д`)

そんなイカす木村(仮称)のマネをすべく、我が家にあった56式弾帯を潰してみましたw
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ODの弾帯ですが、使うアテが無いので潰す勢いでやっちゃいます。

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ダイロン染めを考えたのですが、我が家でそれをやると色々な意味で僕が殺されてしまいます。
なので今回初めて、染めQを使ってみました。
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パーと吹いてはい終了。
ずぼらな僕にはピッタリです(笑) 所々色むらが出ましたので、余っていたタミヤカラーのスプレー吹いて誤魔化したのは内緒です。

これではい完成。
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適当すぎて色々と悩みます('A`)

さあ、この格好でサバゲに参戦です。
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色々と時流に乗ったナウい御殿場ネットワークです(笑)

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参加者の中にはスクールアイドルや、デスラー総統もいらしてました(死)

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おなじみの休日商店さんや、リエナクターズギアさんの出店もありました。
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リエナクターズギアさんで売っていたビール。
オーストラリア軍コスプレ勢愛飲ビール(笑)

素晴らしい天気の中、
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スクールアイドルをスマホ盗撮しようとして返り討ちに遭い電気按摩されたり
とても気持ち良かったです

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あっ、ちゃんとサバゲしました、はい。



11月はちゃんと更新します、しますったら、.......多分...頑張ります_ㇳ ̄|○


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近況報告

さて、先日上げたフェニック計画のお話ですが、多数の方にお読み頂いております、ありがとうございます。
拙い翻訳で本当に申し訳ないのですが、暇をみながら適宜修正していきますのでご容赦を。

さて近況報告的な感じで今回は書かせて頂きます。

10月1日~2日、岐阜で開催されるNAMNAMに向けて、9月の間は色々な準備をしておりました。
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先日購入したEA社JWDタイガーですが、トラウザースを毎度おなじみさんそうタクティカルにお直しに出しました。
愛用しているアメリカン・イーグル社のスリムチノと同寸に縮めてもらい、いわゆるスリムパンツのスタイルにしてもらいました。

今回の遠征では、HPの写真撮影も兼ねるという事で、色々な装具を用意してみました。
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イベントではM60射手ですが、ライフルマンの装備も加えちゃいます。
通常は持っていかない56式小銃も用意し、デモリッションバッグの準備も万端です。

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さっくり揃えてみました。
僕が装備を揃えると、なんか軽装になる傾向があります(笑)

ここで問題になるのが当日に着る服です。
妻に撮影協力を求めてみました。
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上下JWDタイガー

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上タイガーの下501ジーンズ

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上ベトコンブラックパジャマ 下JWDトラウザース

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上ベトコンブラックパジャマ 下501ジーンズ

みたいな感じでキャッキャウフフしながら妄想を膨らましていましたが、9月25日の緊急連絡にて主催者様から連絡があり、40年ぶりの暴風が続き会場が水没、
NAMNAMは中止となってしまいました.....

自然相手では仕方ないネ♡、と思ったものの、意気込んで用意していた分猛烈な虚脱感に襲われています...
さて、気を取り直して 出した装備をかたづけます↘

主催者様、来年開催の際にはなんとか都合をつけて参戦致します。
お疲れさまでした!


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まとめ

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