明けましておめでとう...いや寒中お見舞い申し上げます。
僕はとりあえず生きてます。
昨年、体調を崩してお外での活動を自粛してしまいました。
体調も崩すとメンタルも壊れるのですよね。文の読み書きすらキツくなりました。
とりま、本業もぼちぼちやりながらですけど、なんとか復調してきました。今年はお外の活動ができるように、頑張ってみたいと思います。
近況報告です。
昨年末、夫婦でコミケに行ってきました。
えっ? 一般参加?いやいや、サークル参加ですよ。実は夫婦で二次創作もこっそりやっておりまして、妻はガルパン二次創作、僕は何故かBL小説とガルパンをやっております←
昨年夏ごろ、親しくしておりますかざみにちか様から、妻へ直接お誘いがありました。
「夏コミ出ませんか?」横でやりとりを見ていた僕でしたが、倍率も高いし初サークル参加で無理だろうと思い、生暖かく見守る事にしました。
そして11月....
冬コミ受かっちゃいました(テヘペロ)
ナーニィー!(知らせを受け取った時の僕)ここからがどったんばったん大騒ぎ。
妻がPixivで連載していたガルパンSSを単行本にするにあたり、
〇どうやって本にするの?
〇印刷所はどこがいい?
〇表紙の絵はどーするの!!??
などなどの問題が噴出してきました。
ここで、自分がフォローしております作家様から、手取り足取り教えて頂きました。
本当にありがとうございました!
そして本が印刷して出来上がり、コミケの一週間前本を包装していた時の事。凶報が入ってきました。
サークル主様の体調が以前より思わしくなく、遂にドクターストップがかかってしまいコミケの参加を断念せざるおえなくなったのです…
在京時代コミケなんて行った事の無いワイ
オタ道2年未満の妻
コミケ経験など全くした事のない僕ら夫婦、手順など全く分からないのにどうしようかと絶望のどん底に落とされましたよ、ええ...
そんな時、僕が親しくしている腐女子の方から、コミケの入場と朝の設営を手伝ってくださると申し出がありました。
助かった....地獄に仏とはこの事だ....
そんなこんなでコミケ当日

田舎者の僕らは、サークル入場ができる朝7時30分の開場に合わせるべく、車で上京しました。


会場の近くで腐女子の方々と落ちあい、一緒に会場入りする事に。
うわー、人が多くてたまげたなぁ!待機列の横を通り過ぎ会場に入ると、とりあえず自分らが入るブースを探して入ります。
本当は自分のサークル設営があるのに、僕らのを優先して手伝って頂きました(´・ω・`)
感謝の言葉しかありません.....

設営が完了し、10時の開場となります。

開場して一時間、妻の本は全く売れませんでした...
それもそのはず、配置された位置がいわゆるそのジャンルの「島」の「お誕生日席」
つまりテーブルを並べた端っこの位置で、お隣は界隈でも超大手さんのブース。挙句、目の前は壁サークルさんがずらりと並び、買い物に来た人たちの待機列で、妻のブースは完全に埋もれてしまいました。

折角作ってきた本を抱えて帰るのか...諦めかけていた時に、初めてのお客さんが来てくれました!
それから1時間ちょっと、列こそはできませんでしたが、お客さんが途切れる事はありませんでした。
そして刷ってきた本は完売!
それからしばらくして、持ってきたコピー本も全て完売しました!

ヤッター!!買いに来てくださった皆様には、心から御礼申し上げます。そんなこんなで、初コミケ参加はめでたく終了しました! と書きたい所ですが、あの会場から撤収するのにも地獄を見ました...
今回急用ができてしまい早く片付けたのですが、荷物を宅急便で出す人の大行列で、心をばっきりとへし折られました('A`)
宅配待ちの大行列を耐え、皆さまから頂いた差し入れを抱えて満員のゆりかもめに乗り、今回お世話になった腐女子の皆さまの打ち上げに参加してきました。

帰りが運転だったのでお酒が飲めませんでしたが、腹の底から笑わせて頂きました。今度またお会いできる事を楽しみにしております!!
そして帰りの高速道路で事故渋滞に遭遇し、帰宅が夜の11時過ぎ....口から魂が抜け出るかのような、怒涛の一日でした....

僕ら夫婦への差し入れ(お腹が空いてしまい食べてしまったのもあります)...
ゆりかもめの中であまりの重さに腕がもげそうになりましたが、皆さまのお気持ちがこもった差し入れの山に、ちょっと泣いてしまいそうになりました。
本当にありがとうございました...
と、そんな12月30日を過ごしました。
そして本年、体調を整えてお外のイベントにも参加したいと思っております。
あとこのブログでも、ミリタリーネタをぼちぼちと書いていきたいですね。
皆さま、宜しくお願い致します!!おまけ
ブースの前に落ちていた歯ブラシ


何故こんなガビガビの歯ブラシが落ちているのか....
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Part1はこちらPart2はこちら1965~1966 Part3 拡大する戦火1966年8月19日、
SEALチームは
ベトナムで初めての戦死者を出します。
Nha Beの南東13km付近を偵察中、パトロールは敵の掩蔽壕と武器の集積地を発見しました。彼らは引き揚げられさらに別の場所に潜入し、ヘリコプターによって発見された敵兵を特定しました。
そこの場所でまだ新しい敵の痕跡を発見し、そこから500m離れたところにサンパン(小舟)が複数発見されました。
下士官兵ビリー・W・マケインは、パトロールチームのポイントマンをしてました。

ジャングルの切れ目に来た時、彼は部隊を停止させ、偵察エリアの入り口に前進しました。
マケインが止まりその地域をゆっくりと偵察した時、彼はVCが伏せて待ち伏せているのを発見し、そこが待ち伏せ地帯だった事に気が付きました。
彼は、来た道を引き返してチームに待ち伏せゾーンの正確な位置を知らせるより、マケインは単独で攻撃を開始、敵待ち伏せ部隊の砲火を誘引させました。
マケインが発砲してすぐ後、川の両側から火山の噴火のように敵の自動小銃が発砲されました。
SEALチーム本体は危険を察知し、援護を得ながら応戦、VCの攻撃を抑える事に成功しました。
マケインは、最初の一斉射撃の時に戦死しました。後に彼はシルバースター勲章を死後に授与されました。
UDT11の潜水夫達は、Binh Thuy省にて行われたDeckhouse Ⅲ作戦にて、8月15日~21日にかけて重要な役割を果たしました。
1966年8月20日に、USS Perchはこの作戦のために呼ばれました。

Deckhouse Ⅲ作戦の目的は、2つの部隊でクイニヨン北部のベトコン拠点を攻撃する事でした。
UDT-11 14名で編成されたD分遣隊は、USS Perchに乗船し、極秘で海岸線の調査をする任務を与えられました。
ベトナム戦争を通して多くの内通者がいましたが、敵は事前に警告を受けていました。
このような共産主義者の部隊が待ち伏せをしている可能性がありましたが、結局任務はキャンセルされませんでした。
8月20日の夜、潜水夫達が乗った3艘のゴムボートは海岸から陸地への偵察を行い、無事任務を行う事ができました。
翌晩、別のUDT偵察チームが送り込まれましたが、今度は敵兵が待ち構えていました。
敵VCはUDTが陸上調査を行っている事を把握してましたが、夜の暗闇の中で潜水夫達の位置を特定する事はできませんでした。
戦闘が始りましたが、敵の砲火はこの小隊には効果がありませんでした。
この時、2人のUDT隊員が銃撃戦の混乱で行方不明となり、まもなくPerchからの回収チームが編成され、行方不明者の捜索にあたりました。
この後、UDTの偵察チームが沖合2000ヤードの地点で待機していた海軍艦艇に回収されましたが、行方不明者は帰ってきませんでした。
UDTチームの隊長は、2名の行方不明者の捜索のため、別のゴムボートを用意して行動を開始しました。海岸に接近する途中でUDTの将校が、暗闇の中危険を冒しながらも目印として発煙筒に点火しました。
行方不明者はすぐに捜索されましたが、海岸沿いに隠れていたVCは、この小さな灯りに向けて発砲を開始しました。
Perchはすぐに火力支援として、甲板の50cal機関銃と40mm砲で敵兵力を抑えました。
幸いに、すべての隊員は無事帰還する事ができました。
Deck house Ⅲ作戦開始当初の2つの偵察部隊には、部隊の支援のために目標海岸から内陸部に、南
ベトナム陸軍兵85名が待機していました。
だが、8月21日の夜間戦闘は、この小部隊の行動を妨害するものでした。
南
ベトナム軍は、日が暮れる前に自分たちの基地に戻る事が不可能となり、安全なPerchに乗船して休む事を要請してきました。
元々狭い潜水艦で収納するのが不可能のため、Perchの艦長は許可を出しませんでした。
翌日、艦長は3回目の偵察のため南
ベトナム軍をフェリーで強制的に連れて移動させました。艦長はまた、海岸でキャンプをしている南
ベトナム軍への支援を行うため、船を海岸から500ヤード外洋に待機させました。
日が落ちると、VCが海岸へ待機する味方部隊の周囲へ移動するのが確認されました。
Perchは敵に向けて砲火を開き、海岸線で数次の爆発を引き起こしました。
翌朝、ベトコンに脅かされて無理やり協力者にさせられた地元の村人と共に、南ベトナム軍の兵士達は避難しました。
海軍のスイフトボートで避難しましたが、後にこの民間人たちは米国に移されました。
一方潜水艦 Prechは海岸に接近し、火力支援を続行しました。
UDT指揮官はゴムボートに乗り、襲撃行動を取りながら南ベトナム軍と潜水夫のグループを導きました。
海岸線を確保し、2名の敵兵を捕虜にした後、彼らは計画通りにこの地域の調査を完了しました。
1966年9月、改装されたレギュラスⅠミサイル潜水艦は、太平洋艦隊が所有する特殊作戦用の船舶として、今まで使われていたPerchの代わりとして就役しました。
*浮上してから発射する核搭載ミサイルで、ICBMが登場するまでアメリカの核戦略の一翼を担った。
この船はフィリピンに到着し、Perchの乗組員の80%を搭乗させました。
この潜水艦の後部甲板にあるミサイルデッキは、6つのIBS(膨らませて使うゴムボートなど)を含むすべての戦闘装備を持った70名までの水兵を運搬できるよう改造されました。
*USS Tunnyからレギュラスミサイルが発射される瞬間。このミサイル格納庫がそのまま兵員室へ転用された。USS Tunny(APSS 282)は、水中作戦で行う甲板での複雑な操作を支援するよう訓練された乗組員を搭乗させていたため、UDTの隊員は戦闘任務のみを行う事が可能となりました。
また乗組員の中には、海岸線で危機に瀕したUDTチームの支援を行う、もしくは敵の舟艇を撃退するための無反動砲を操作する訓練を受けた者もいました。
Perchがベトナムから離れる寸前、Deckhouse Ⅳ作戦の支援のために活動しました。9月の最初の二週間に、UDT12の2個小隊が甲板から出撃しました。
他の一個小隊は、支援艦であるUSS Diachenkoから行動しました。

この三個小隊は、水陸両用作戦のため極秘の偵察任務を行いました。
1966年後半と1967年初頭に、Tunnyとチーム11とチーム12からなるUDTグループは、ベトナムの海岸添いの調査の為にリハーサルを行いました。
これらの任務のほとんどは、国家情報調査に情報を提供する秘密の調査でした。
作成された分類データは、合同参謀本部の特別補佐官(SACSA)によって利用されました。
ダナン基地の米海軍顧問団によって訓練された南ベトナムのフロッグマンチームは、北ベトナム沿岸へのボートの襲撃を続けていました。
1966年には、このような攻撃を行った船舶のうち、5隻が敵の砲火で失われました。
米本国では、
SEALなどが作戦行動で使うための新型パトロールボートが生産される事となりました。オスプレーと呼ばれるこの新しいボートは、95フィートのアルミニウム製の船体を持っていました。
Nastysボートと同じDelticエンジンを搭載し、最大40ノットでの航行を可能とするものでした。
このオスプレイボートは、1968年に実戦投入されます。
*高速モーターボートは、この後各種タイプが実戦投入され、SEALにとって無くてはならないものとなります。詳しくはこちらを参照。SEALチームは、RSSZへの小規模なコマンドウ作戦を続行していました。
9月1日と13日に2個SEALチームが、それぞれTac Bai Tien川で接敵し、2名のVC兵士を殺害しました。
66年7月に発見して破壊した敵のキャンプが、再建されたとの情報を得ました。9月18日に、SEALのパトロールチームが再び基地を破壊しました。
10月3日、分隊規模のSEALパトロールチームは、Go Gia川とNga Bay川の間にて敵のサンパンの待ち伏せ作戦を行いました。
2人一組でSEALは待ち伏せをしましたが、VCの小舟が8ヤードの近くの至近距離まで引き付けてから発砲しました。この待ち伏せ攻撃で、小舟に乗っていた3名の敵兵を射殺しました。
10月6日南ベトナム軍の掃海艇が、Nha Beから6マイルの地点で敵から攻撃を受けました。この連絡を受け、SEALチームを含む小規模な支援チームが現場に派遣され、敵兵力の撃退に成功します。
1966年10月7日、SEALチーム2個分隊(7名の隊員からなる)は、中型の上陸用舟艇(LCM)で、RSSZへ侵入しようとしていました。

敵VC大隊はその移動を待っていました。LCMがスピードを落とし、隊員を降ろして待ち伏せの態勢に入った時に敵は発砲を開始、1発の迫撃砲弾が船を直撃しました。
19名の乗員のうち16名がその直撃で負傷しました。
SEAL隊員達は即座に、飛び乗るように船に戻りました。2名の隊員がLCMの50口径機関銃に取り付き、銃身が白く白熱するまで敵へ猛烈な射撃を行いました。その後、負傷した乗員が敵の砲火の下後退できるように、猛烈な攻撃が行われました。
この
米軍への攻撃はSEALの反撃により、敵VC大隊が壊滅(40名以上の損害を与えた)して終りました。
VC大隊は夜間に活動していましたが、SEALチームとの戦いで自由な行動が取れずに苦しんでいました。
この戦いから2週間、VCはRSSZでの活動を低下させました。
SEAL隊員には死亡者が出ませんでしたが、3名の隊員が負傷し入院する事となります。
米海軍は、SEALチーム1の少人数のグループでの作戦行動の結果が、非常に良好な事を留意しました。
SEALチームは7名の将校が追加され、10月には増援として30名が送り込まれました。
ベトナム戦争のこの時期、ホワイトハウスは共産主義者の反乱と、それに対する
米軍への強力な支援を続けました。
10月下旬、ジョンソン大統領は
米軍の派兵への支持表明として、ベトナムへ訪問をしました。
この後
米軍の増強は続けられます。
1966年11月メコンデルタ地帯にて、UDT12はRSSZからカンボジア国境までの調査を実施しました。
UDT12司令官、ロバート・E・コンドン中佐と8名の隊員がベトナムに派遣されました。
彼らは、Deckhouse Ⅴ作戦で行われる上陸のために、Co Chien川とHam Luong川にチームを派遣しました。
加えてフロッグマン達は、Thanh Phongの敵支配地域にて情報を収集するために偵察任務を行います。
Deckhouse Ⅴ作戦における上陸作戦は、1967年1月6日に行われました。
アメリカ東海岸では9月、SEALチーム2のベトナム派遣のため5名の士官が選抜され、20名の下士官兵が準備されました。
一方、SEALチーム1の作戦行動中に集められた敵の情報は、非常に貴重なものである事が分かりました。
SEALの待ち伏せチームはある任務にて、RSSZで活動していたVCの徴収係を殺害し、その所持品から敵の給与から生活パターンまで把握する事ができました。
SEALによる軍事顧問活動も成功をおさめます。
南ベトナム政府要人のボディガードが、SEALによって教育されたL.D.N.N(南ベトナム海軍特殊部隊)から選ばれました。
大規模な敵集積地の鹵獲の典型的なものは、1966年12月3日にNha Be南東11kmで発見された、敵の巨大な
武器庫でした。
この武器庫には57mm無反動砲、ドイツや米国製の自動小銃や短機関銃、1万発の弾薬が含まれていました。
発見に携わった男たちは、チャールストン作戦にも参加し、RSSZにて偵察パトロールもおこなっています。
SEALチームは、これらの作戦での侵入と離脱の双方にヘリコプターを使用しました。これはベトナム戦争初期の頃にはまだ一般的な手法ではありませんでした。
1966年、SEALチーム1の最終的な統計は、RSSZでの153回に及ぶ戦闘から得られました。
VC殺害(確認済) 86名
VC殺害(未確認) 15名
サンパン 21艘破壊
ジャンク船 2艘撃沈
敵施設破壊 33か所
敵の米備蓄 521,600ポンドを爆破
上記の統計は、1966年の終わりまでベトナムに40名に満たぬ人数しかいなかった、SEALチーム1の力によって得られたものでした。
UDT11と12から構成されたD分遣隊は、1966年8月16日から12月15日までの行動を称えられ、海軍から表彰を受けました。
南ベトナムを統治するための戦争は始まったばかりであり、海軍特殊作戦部隊のメンバーは、ゲリラと戦っている貴重な戦訓を、彼らの厳しい環境で学んでいました。
UDTの水陸両用偵察は安定したペースで継続され、上陸作戦の任務成功に非常に価値があると証明されました。
初期のSEALチームによる攻撃の結果は戦争のこの段階で、従来型の作戦計画者の注目を集めました。
海軍はすぐにこのメコンデルタ地域でSEALを活用する事は、巨大で強力な艦隊を必要としない地域にて、型にはまらない方法であると理解しました。
UDTチームとSEALチームは損害を受けましたが、彼らは具体的な戦果をあげました。
ベトナム戦争のこの年、
米軍の増強に合わせて、SEALとUDTの増強は始まったばかりにすぎませんでした。
1965-1966 終
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