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買い物狂いの備忘録

40代の物欲にまみれたオッサンの備忘録です。ミリオタ、ガンオタ、あと洋服の事など備忘録的に書いてます。

NAVY SEALs関連記事のまとめ

昨年から、ベトナム戦争時代のシールチームの歴史や色々な考察を書いてきました。
今まで日本ではほとんど知られていなかった、NAVY SEALsの初期の歴史や作戦行動などを色々書けて、僕自身も大変勉強になりました。
ただその該当記事に行くのに、このブログのデザインだとえらく面倒だというのに気が付きましてw,改めてこの記事から各ページに飛べるようにしようかと思います。

インターネット見て人の装備マネする前に資料買えよ、という記事w

ベト戦SEALS入門


NAVY SEALsの創設~ベトナム戦争終結までの歴史

NAVY SEALs の歴史 序章
NAVY SEALs の歴史 1 誕生~ベトナム戦争への道
NAVY SEALs の歴史 2 戦火の中へ(1966~)
NAVY SEALs の歴史 3 転換点 テト攻勢(1968~)
NAVY SEALs の歴史 4 ベトナムからの撤退


1965-1966年、ベトナムへ派兵されたUDT/SEALチームについてまとめたお話。

1965-1966 Part1
1965-1966 Part2
1965-1966 Part3

1968年、テト攻勢下でのNAVY SEALs/UDTの作戦行動についてまとめたお話。

テト(1968) part1
テト(1968) part2
テト(1968) part3
テト(1968) part4
テト(1968) part5
テト(1968) part6

ベトナム戦争下、案外と知られていないUDTチームの事を書いた一編。


UDT in Action

現用勢のリクエストにお応えして書いた、グレナダ侵攻時のNAVY SEALsの行動について。
(もうこの後の時代は自分で翻訳して)

Seals in action グレナダ侵攻作戦


ベトナム戦争中、暗殺作戦として知られたフェニックス計画とPRU(省偵察隊)についてまとめたお話。

フェニックス 1967-1971

ベトナム戦中、シールチームが使用した武器に関しての記事。

Navy SEALs Weapons
Navy SEALs Weapons 2

40mmグレネードランチャーとSEAL
SEALとストーナーマシンガン

SEALチームで使われた有名なシステム23 M60デスマシーンに関しての記事。

死の咆哮 DEATH MACHINE

戦術的、装備的な考察。

1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その1
1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その2


ベトナムSEALsが使用した、有名な装備であるSEALベストとコートに関してまとめた記事。

SEALベストとSEALコートのお話
SEALベストとSEALコートのお話 2


NAVY SEALsのトレードマーク、UDTライフプリザーバーの紹介記事。

UDTライフプリザーバー雑記

同じくベトナム戦SEALsの代名詞となった、シールチームとジーンズに関する記事。

Navy SEALSはジーパンの夢を見るか


あまり知られていない、米海軍EODチームについての記事
ベトナム戦争における海軍EODチームについて

SEAL隊員の従軍記
POW Raid
ベンのPRU

とりあえずこのようにまとめてみました。
これからも時間が許す限り、ベトナム戦中のNAVY SEALsの事を書いてみようと思っております。



関連記事
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スーベニアジャケット再び

2021年初めての投稿となります。
先日の事、ベトナム戦時代のスーベニアジャケットを入手した事から、今回の話は始まります。
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少しくたびれてはおりますが、なかなか状態の良いスーベニアジャケットです。
特筆すべきは、「サイズが大きい(XL)」という事です。
たまたま入手できたプレーンのスーベニアジャケット、じゃぁ何をするかというと、背中へ刺繍を入れてもらおうと頑張ってみました。
今回ですが、第四地区のtoyoさんに多大なるご協力を頂きました。
沖縄市(コザ)の刺繍屋さん
こちらのエントリーで紹介されております、ムギストアーさんを紹介していただきました。
無論ホームページなど無く、もしお願いするのでしたら直接服を持っていって相談する形となります。
あと注意が必要なのは、柔らかい生地の服でないと刺繍を引き受けてくれません。
BDU生地やジーンズ生地などは断られてしまうので、気を付けてください。
まず初めに、基本的なデザインを決めます。
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実は基本デザインが存在しておりました(笑)
それを使わせて頂き本当に感謝致します。
文字の変更をお願いし、フォント、字の大きさ、色などを書いた仕様書を入れておきます。
そして沖縄へ送り、電話で細かい打ち合わせをして、1か月ほどで服が帰ってきました。
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こちらから服を送る時、ご主人へ静岡みやげを入れて送ったのですが、それの御礼を書いた手紙と沖縄のソーキソバなどを頂きました。ご馳走さまです!
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今の時代はコンピューター制御ミシンの刺繍が全盛なのですが、昔ながらの手ぶりミシンで作られた刺繍は素晴らしいの一言。



今回色々と協力してくださったtoyoさん、素晴らしい刺繍を製作してくれたムギストアーさん、本当にありがとうございました。
また機会がありましたら、カッコいいデザインのジャケットをお願い致します。


追記
ムギストアーのご主人と文通しておりますが、先日こちらから送った品物のお礼に、綺麗な刺繍を頂きました。
職人技の凄みを、改めて感じる事ができました。麦倉さん、ありがとうございます。

関連記事

M60 Rubber Butt Cap 製作

自分がこのミリタリー趣味を始めてから何十年、今は本当に良い時代となりました。
今日はそんなお話です。

まず初めに、米軍の支援火器として有名なM60機関銃のお話からです。
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米軍M60の部隊導入が開始されたのは、1957年。それまで、歩兵分隊の火力不足が指摘されていましたが、満を持しての導入となりました。
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*それまで、米軍の機関銃として活躍したブローニング1919 ベトナム戦争中にも使われた名銃である。

1960年代、当時戦火が拡大するベトナム戦争へM60は投入されましたが、兵士からの評判は散々な物でした。
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○ M60がとても重い
○ 構造が複雑で、ジャミング(弾詰まり)を起こしやすい。砂埃などの汚れが付着すると、作動不良を起こしてしまう。
○ 特に致命的なのがレシーバーカバーとフィードトレイで、薄いプレス加工の鉄板で作られたこれらのパーツは、外力により容易に変形してしまい、作動不良の原因となってしまう。

などが指摘されてしまいました。
当時一般的な歩兵部隊では、重いM60を新入りの兵士へ押し付けてしまい、挙句7.62mmメタルリンク弾帯を何重にも体へたすき掛けにして携行するので、その弾帯へ汚れが付着してそれがジャミングの原因となってしまいました。
ダウンロード
「Pig(豚)」というあだ名を付けられたM60ですが、熟練した射手が用いる事により、絶大な火力を発揮する事となりました。

当時ベトナムへ派遣された特殊部隊、グリーンベレーやSEALにもM60は支給されました。
1966年SEALベトナムへ公式に派遣された当初、前線で戦う隊員達からも、M60に関しての苦情があったとの事。
やはりそれも、重さと作動不良に関する事でした。
その後前線で活動する特殊部隊兵士達は、様々な工夫をしていきます。例えばSEALで行われた改造例ですが

○基地防衛以外は三脚なんていらない
○バイポッドは重いから外す
○バレルも重いから、カットして短縮化
○フロントサイトもいらないからカット
○ストックも重いから外して、ゴムカップを取り付け
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などの改造を施しました。
重い、作動不良を起こしやすい、などの苦情はありましたが、一般の歩兵と違い砲兵などの火力支援を受けにくい特殊部隊が活動する環境では、M60の火力は非常に魅力的でした。
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*M60を携行するレンジャー隊員。弾帯をキャンティーンポーチの中へ収納している事に注意

ベトナム戦争当時、敵との平均交戦距離は25ヤードから30ヤード(約20m~30m)と言われましたが、敵が隠れる藪ごと撃ち抜く7.62mmNATO弾の威力は相当な物だったと想像できます。

重くデリケートなM60機関銃ですが、作戦行動に出るSEAL隊員からも愛用されるようになり、各チームに一人M60射手が置かれる事となります。
SEALのM60射手は通常500発以上の弾薬を作戦に携行し、多い時には3000発(多分チームで分担したのでしょうが)携行して任務にあたったとの記録があります。

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こうして使われるようになったM60ですが、隊員がストックに付けているカップ、これは元々航空機や船舶に搭載する際に銃を保護をするための物のゴム製カップでした。
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自分が持っているCストックのアルミストックですが、これもUH-1ヒューイに搭載する際の保護カバーとなります。

当時SEAL隊員が使用したM60を再現すべく、ストックカップの製作計画が発動しました(前置きが長くてごめんなさいw)
以前A&K社M60のリアル塗装などでお世話になった、
骨董銃具店
さんへお願いする事となりました。
骨董銃具店さんは3Dプリンターを導入し、ニッチなエアガンパーツの製作もやっております。

原型となるストックですが、日本ではもう現存する物がありません...(もしかしたら持っているマニアの方もいらっしゃるのではと思いますが)
相互でもあり、自分のSEAL先輩でもあるDJVietnam様のブログを参考にさせてもらいました(ありがとうございます)
それ以外にも、色々な画像を拾ってきてはあーでもないこーでもないという相談を繰り返し……
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3Dプリンターの図面を引いてもらい……
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試作初号機を印刷してもらい(これは寸法間違えで廃棄となりました)
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イメージとして、紙でストックを作ってもらい、こういった形で掲示してもらった事もあります。

本当ならば今年のアホカリでロールアウトする予定でしたが、コロナ禍でイベントの中止が相次いでしまい、それだったら急がずのんびりと良い物を作ってもらえればという事で、11月に完成となりました。
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本来ならばカップはゴム製なのですが、値段の問題でABS樹脂製としてもらいました。ですがサバゲーなどで使用しても、強度的な問題は出ないように設計してもらいました。
ストックの固定方法ですが、実物はバッファーを抑える金属板を差し込んでストックを固定するのですが、ストックをキツく作ってもらい差し込む方式としました(滅多な事では外れません)

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ベトナム戦SEALのレアアイテム、ストックカップ。
興味のある方はいかがでしょう?
お問い合わせは骨董銃具店さんへ!
クフィル殿、細かい打ち合わせに付き合って頂きありがとうございました!
関連記事

ベンのPRU

前回の更新から、また間をあけてしまいました。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
私、物欲ですが、今年はNAMイベントへ一度も参加せずに終わってしまいました。
11月18日現在、東京のコロナ感染者数の数字を見て、来年暖かくなる前にこの悪夢が終わればいいなと思ってしまいました。
ブログの更新を全然してきませんでしたが、実は現在進行形で面白い企画を水面下でやっております。
近々発表できるかと思います。

今回の内容ですが、翻訳物です。
前回の更新で取り扱った、、"Teammates Seals at War"Barry・W・ Enochからの一節です。
著者がSEAL隊員として経験した、ベトナムでのお話です。
今回扱っているPRUに関しては、こちらの記事を参考にしてください。

**********************************************************************************
私がベンと初めて出会ったのは、サディックのPRU司令部であった。
海軍本部の命令を受けた私は、借りたジープに乗りPRUの司令部へ向かっていたのだ。そこでには五個小隊のベトナム人兵士が隊列を組んで立ち、その内の四個小隊は共和国陸軍のOD色の制服を着用しM16ライフルを装備していた。残り一個小隊の兵士達は、VCが着るような黒ズボンとゆったりした黒シャツを着て、NVAのサンダルを履いていた。その小隊はM16ではなく、ソビエト製AKライフルを持ち、黒、赤、白のスカーフを首に巻いている。洒落たスカーフは、ドクロと十字架であしらえたワッペンを貼り付けた黒シャツの胸元を飾っていた。
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*当時一般的なPRU隊員達

 ODジャングルファティーグに黒のブーツを履いたベンは、身長180センチのがっちりした体格の男で、彼の服には所属を示す徽章や階級章、それにネームテープすら一切縫い付けられていなかった。
彼は私がベトナムで出会った兵士達の中で、一番年長であっただろう。そんな彼トレードマークは、左側のつばを引き上げてスナップで留める、オーストラリア式のブッシュハットであった。
 ベンは部隊を下がらせた後、大きな笑みを浮かべオーストラリア訛りの自己紹介をしながら、私へ握手をしようと手を伸ばし、私は彼の大きい手を握り返した。
 挨拶の後冷えたビールを一杯やろうと、彼は自分のコテージへ私を招待してくれた。こじんまりした家に、籐でできたテーブルとイスが置かれ、家の冷蔵庫の中はオーストラリア製のビールがぎっしりと詰まっている。大きな籐製のイスに座ったベンを見ていると、私は俳優の、ウイリアム・ホールデンを思い出してしまった。
 私はベンに、キェンホア地区での活動や経験を話し、お互いのPRUで活動した経験を話こんだ。しばらく会話をした後、ベンは「スコット・リヨンを知っているか?」と聞いてきたので、「もちろん、同じ小隊だ」と私は答えた。
 PRUの顧問であるベンは微笑みながら、私のチームと近いうち一緒に働く事になると教えてくれた。こうして会話を進めていくうちに、彼の生い立ちや経歴の話となっていく。
 ベンは人生のほとんどを兵士として過ごし、オーストラリアSASに所属していると言っていた。彼はスコットランド出身で英国SASにも所属し、ロイヤルコマンドーを退役していた。ベンの夢はオーストラリアで小さな羊牧場を営む事で、軍を引退後家族を連れて移住した。だが牧場の経営は素人が経営して上手くいくものではない。そんなある日の夜、オーストラリアSASの旧友に会い、それから彼はオーストラリア陸軍へ入隊する事となった。そして半年後、ベトナムでPRUの顧問を務める事となったのだ。
 その話を聞いて、私は非常に感銘を受けた。ベン自身は四十四歳、PRUに勤務する事が正しい決断だったかを未だに悩んでいた。それから二時間、SEALとPRUの活動について私たちは語り合い、私はベンから多くの事を学んだ。
 ベンのPRUは、訓練が行き届いているように見えると彼に言うと、
「兵士を訓練する良い方法は、彼らが自分たちに誇りを持てるようにする事だ」
とベンは答えてくれた。一番優秀なチームは、ストライクチーム、最精鋭小隊へ配属されるのだ。 基地で見た黒いシャツを着ていたのがその彼らで、最初にVCへ攻撃をかけるのはこの小隊なのだ。
 エリート小隊を作るには優秀な兵士が必要だが、ストライクチームの兵士たちが戦果をあげたら、その分だけ彼らが報酬を得られるようにしていた。それを見ている他の小隊の兵士達は、エリート小隊へ配属されるように努力をしているのだ。
 しばらくするとベンは、ベトナム戦争への考えを話し出した。

第一に、自分のような「クソったれの民間人」が物事を動かし、戦争を戦う事ができるとは思ってはいない。
第二に、アメリカ軍の司令部はワシントンから、戦争に勝つための目標を与えられてない。
第三に、「クソったれのベトナム化計画(ベトナミゼーション)」が最終的に、この戦争に負ける要因になるだろう。

彼がこの話をしていた時、私は彼が苦々しく言っているように聞こえた。この老兵の考えがどれほど健全な考えなのか、それが分かったのは数年後の事であった。
 それからしばらくの間、私は自分のA小隊の話をし、ベンは彼のPRUについて話しをした。帰る時間となり、素晴らしい時を過ごさせてくれたベンへ礼を言うと、一緒に仕事ができる事を楽しみにしていると伝えた。すると彼は、すぐにそうなるだろうし、楽しみにしていると返してくれた。

 数日後、ベンは約束を守った。
 私はスコットへ確認をしてから、部隊を率いPRUの敷地へ向かうと、ベンと彼のPRUの動準備は完了していた。
A小隊は陸軍の六輪トラックへ乗り込む事となった。私のストーナーマン(ストーナーLMG射手)たちは別のトラックへ乗り込み、ベンはストライクチームの一部が乗る二台目のトラックへ、私とショットガンを持つポイントマンが乗り込むように指示を出す。ベン自身は、ストライクチームの残りと一台目のトラックへ乗り込んだ。
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*ストーナーM63マシンガンを構える、海軍SEAL隊員

 埃っぽい道路を延々と走り、日が沈む前に潜入地点へ到着した。私たちはトラックから荷物を降ろして体を伸ばし、ジャングルへ移動する合図を待つ。
 私のチームがPRUを援護部隊として使えるので、ベンはPRUを側面で移動させるように指示をした。私はベンと一緒に指揮を取るので、行動を共にする事となった。
 日が暮れてすぐに、攻撃部隊の兵士達が移動を開始した。一時間ほどして彼らからの無線連絡を受け、ベンの二つの支援部隊が分かれて行動を開始する。それぞれの部隊にSEAL隊員が二名ずつ同行していた。その後ろから、我々指揮部隊が付いていく。
 黒服を着てAK小銃で武装した二名のPRU隊員を、ベンは部隊から先行させるように指示を出す。私の周りにも、先行した兵士と同じように、黒服でAK小銃を持った四名の兵士がいた。
 私が今までに会ったPRUの兵士とも違う、彼らはタバコを吸ったり無駄話しをする事もなく、油断せず武器を構えパトロールをしていた。過去私は、リス狩りへ行くように肩からだらしなく武器を下げたPRUの兵士を見た事があるが、ベンはそれを注意したのだろう。私はベンの部隊が、共和国軍というよりアメリカ軍SEALsのようにも見えた。
 四キロほど行軍した後、背の高い草が生えた地点へ到着した。時折、PRUの無選手がベンの傍らへ移動し、他の部隊の進捗状況を報告していた。草むらの湿地帯へ移動し始めた時ベンは私へ、敵に近づいている事をそっと教えてくれた。私たちは膝まで水に漬かりながら、移動を開始した。
 暑さと湿度で、頭からつま先までびしょ濡れになる。私たちが立ち止まるたびに、PRUの兵士たちは草を輪のように折り曲げ始める。互いに折りたたむように草を曲げ、その草の山の上に乗ると快適に座れるという事だ。ヒルに咬まれないように、ベンは私へ同じ事をするように言った。
 私たちから三百メートル先には、VCの徴税役が潜伏しているジャングルがあった。攻撃部隊と支援部隊は、ジャングルと草原の境界線へ移動していたが、私にとってそれは長い時間だった。
 あまりにの暑さに、私は座っていた草へ付いた水をすくい、それで顔を洗う。ベンが水筒を渡してくれたので、私は喜んで受け取った。その水筒を開け、最初の一口を楽しもうと頭をそらしたが、水筒の中身は冷たい水ではなく、ストレートのライ麦ウイスキーが入っていたのだ。大きく一口飲んでしまった私の体は、火が付いたように火照ってしまった。月明りにベンのニヤリと笑う顔が見えたが、罵声を出そうにも息苦しくて声が出ない。
 チームは進んでいく。すると、大きな声が聞こえた後、赤と緑の曳光弾が飛び交う銃撃戦が起きた。私の傍らにいる無選手は受話器に取り付き、ベンと話しをしていたが、落胆したように首を振った。どうやら目標を達成できなかったようだ。死傷者について聞くと、無選手は同じように首を横に振った。
 右の方向から、ストーナーマシンガンの特徴的な発射音が鳴り響く。私はその方角を見るとベンへ「あれは俺のチームだ」と言うと、ベンは無選手とまたやり取りをして、「どうやら敵を捕まえたようだ。君のチームは無事だ」と返してきた。
 私たちは侵入した時と同じようにゆっくりと後退し、ベンはその間、攻撃部隊と無線を通じて命令を出している。黒シャツを着たPRUの二人の兵士が先導し、トラックが待つ場所へ移動していった。
 到着すると、丁度支援部隊も到着していた。私はチームメイトを確認しに行くと、そこで何人かのPRU隊員が、敵の武器を捕獲している事に気が付いた。程なくして攻撃部隊も到着し、彼らもまた敵の兵器をぶら下げていた。敵の書類と徴税した金を奪ったと、PRUの先任曹長が教えてくれ、ベンは「良い攻撃だった」と私へ伝えてくれた。
 トラックへ荷物を積み込むと、基地へ戻る長い道のりが待っていた。私はトラックの移動が好きではない。特に日が暮れた後の移動は、敵に待ち伏せされるような気分になるからだ。だがこのトラックは、無事に基地へ帰りつく事ができた。
 その後ベンと会い、ミーティングを行った。彼の部下をどうやって指揮していたのか、つまり部下の動きを調整して、現場では一つのユニットとして行動していたのだ。ベン曰く、そのように行動するには多くの時間と訓練が必要だったとの事。小規模の作戦から始め、チーム規模での作戦行動ができるようにしてきたのだ。PRUの作戦のほとんどは小隊規模で行われたが、月に一~二回、チームまたは複数の小隊が参加して作戦行動を行っていた。
 

 数日後、PRUは私たちを夕食に招いてくれた。
 兵士達が食事の準備をして、敷地には毛布が敷かれ座れるようになっている。PRUは、先日の作戦で鹵獲したVCの税金の一部を使い、エキゾチックなごちそうを作ってくれていた。
 地面に掘られた穴の中で二頭の豚がローストされ、切り分けられた豚肉が兵士達の間で回されたが、私の所へ来た時には豚の脂身だけしか残っていなかった。私は誰も見ていないのを確かめ、その塊をこっそりと後ろへ投げ捨てた。だけどそれはやるべきでは無かった。空になった私の皿を見て、PRUの兵士が豚肉を更に盛ろうとしたのだ。
 皿はまた脂身だらけの豚肉でいっぱいになってしまった。どこからか来た野良犬たちが私の後ろに喜んで座り、投げ捨てたローストポークを食べてくれた。
 ベンが私の横へ座ったので、脂身しか食べる所が無いと私が言うと、彼は近くに置いてあるローストポークへ手を伸ばし、食べれる所を切り分けてくれた。
 ベン曰く、PRUの兵士達が客へ脂身をあげるのは、それが彼らの習慣であると説明をしてくれた。
「君の後ろにいる野良犬も、名誉ある客人のようだな」ベンは笑顔でそう言った。


 二月一日、ブリス中尉は、RS573へ所属していたランボー中尉から情報提供を受けた。PBR隊には、地元漁師の情報屋が何人かおり、三人のVCが藁ぶき小屋に潜伏していると報告していたのだ。その漁師は以前からPBR隊に、小屋の存在を指摘していた。
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*米海軍の河川哨戒艇(PBR)

 ブリス中尉は第一分隊に待機命令を出し、午後の早い段階で命令をだした。その出動にLDNN--南ベトナム軍SEAL隊員--二名、ティッチとゴングも同行する事となった。
 私たちは装備をチェックし、武器の試射をする。深夜に出発する事となった。任務は三名のVCを捕らえる事、0300のモーニングコールの後、0430にPBRで突入するのだ。
 我々が仮眠から起きた時には、夜空に満月がのぼっていた。午前三時過ぎの川辺は涼しく、PBRへ乗船する隊員の間で、私は簡単な点検を行っていた。私は中尉に報告し、PBRは静かに出発した。
 目的地への潜入は、何の問題もなく行われた。私たちのチームは、運河沿いの林に隠れながら、小屋の周囲を偵察する。目標へ到着した後、チームは小屋の周囲へ陣取り、側面と後方へ射撃区域を設定した。ブリス中尉とビーナンが、ティッチとゴングを率い小屋の捜索を指揮したが、中はもぬけの殻であった。そこで小屋の中で待ち伏せる事にして、小屋と運河の間にも隊員を配置した。
 午前七時一五分、小屋へ二人のVCが近づいてきた。小屋へ一人が入った瞬間に捕まえ、もう一人は逃げ出したので発砲したが、外で待ち伏せていた隊員が彼を取り押さえた。
 すると突然、我々の背後で銃撃音が鳴り響いた。ブリス中尉はPBRによる即時の離脱を要請し、我々は撤退しながらスモークグレネードを投げ、PBRからの返事を待った。PBRは我々の投げたスモークグレネードを視認して返信し、私たちの元へ来てくれた。


 A小隊のLDNNは、捕らえたVCを尋問し彼らがVC幹部の家へ案内する事を承知させた。我々の次の行動は、VC組織について最新の情報を持っていたベンに連絡する事だったが、彼はこの情報に興味津々であった。
ベンはこの作戦に、十一人のPRUを参加させる事に同意した。これにLDNNから、ティッチ、ゴング、ジャングの三名の隊員も参加する事となった。私たちの隊へ、UDT11からホームズという隊員が出向していたが、彼もまた小隊の一員として行動する事となる。
これでA小隊は、ベトナムで九十八回目の任務となり、ブリス中尉がパトロールリーダーとなって、私は彼の補佐役となる。ベトナムでの任期が残り少ない私は、この活躍できるチャンスに張り切っていた。
だがこの後何年にわたり、このパトロールで体験した事が原因で、夜中に悪夢で何度も目覚める事になるとは、この時の私は知る由も無かった。 
 

 私たちはベッドから起き上がると、服を着て武器と装備を整え、桟橋へ向かう。私たちが乗るPBRが来るまでのわずかな時間、そこにはボートのエンジンが奏でる、強力なゴロゴロという音が響いていた。私たちは船へ乗り込み、目的地へ向け出発した。
 今回、SEALとPRUを侵入させるために、四隻のPBRが必要とされた。満月に潮は満潮というベストコンディションだったので、移動はスムーズに行われた。捕虜に目的地まで案内させたので、部隊の移動も迅速に行う事ができた。我々はVCの村長の家の周囲に散会し、LDNNが家の捜索を行ったが、留守のようであった。
 PRUが、村人全員を集め尋問を始めた。何人かの女が泣いて騒いでいて、余計な騒ぎや騒音を起こしている事に、私は苛ついてしまった。尋問が終わり、全ての村民を彼らの掩蔽壕へ閉じこめ、事が終わるまでそこにいるようにと命令をすると、村にやっと静寂が戻った。ベンから伝えられたが、村長が午前七時に帰ってくると、PRUが村人から聞き出していた。しばらくブリス中尉と打ち合わせをした後、二か所で待ち伏せをする事を決定した。村に通じる二本の道を、PRUとSEALで分担するのだ。
 ブリス中尉は、「L字」型に待ち伏せチームを配置した。待ち伏せの長い布陣は小道へ平行に配置し、最後に小道を横切るように短い陣を敷く。私は任務によって、ストーナーMk23LMGを携行するが、今日はまさにそんな日だった。ブリス中尉はドン・クロフォードにM60を持たせ、私はストーナーを構えた。
 払暁の中、私は小道の脇にある小さな茂みの後ろにいる事に気が付いた。その茂みは小さく、ほとんどカバーにもならなかったが、隠れられるのはそこしか無かった。日が昇り明るくなってくると、敵に見つかる可能性が高くなる。私は茂みの中で、自分が可能な限り隠れられるように足を組んでしゃがみ、ストーナーを持った。村へ続く小道は私のすぐそばにあり、目の前15フィートの所でカーブとなっていた。
 長時間不自然な姿勢で座っていたので足がしびれてしまい、いざという時立ち上がれるかも分からなくなっていた。
すると小道の曲がり角の所で、二人の男が来るのが見えた。二人は小道を歩いて村を見下ろしていた。もう一人の男は白いシャツを着て、ござを巻いた物を脇に抱えていた。
 次に起こった事はほんの数秒の事であったが、私の頭の中で記憶が猛スピードで駆け巡る。
 たった五か月前、同じように白いシャツを着て、巻いたござの中に銃を隠し私へ発砲した別のVCを思い出し、私の神経は瞬時に反応した。
「Lai day!」(lại đây こっちへ来い!)
 という声がどこからか聞こえたが、それは私の声でなく誰かの声だったかもしれない。私が茂みから立ち上がると、男の目は大きくなり、驚いて後ずさった。男が抱えたござが私に向けられた瞬間、ストーナーが私の手の中で踊り、恐怖で引き金を引いていた私の人差し指から力が抜ける前に、銃口から少なくとも三十発の弾丸が放たれていた。ドンのM60もこれに加わり、二人の男は地面へ倒れる前に絶命していた。
 白シャツの男は、ござの上に顔を伏せて横たわっていた。シャツは血で真っ赤に染まり、私は彼の肩を掴んでころがした。ストーナーは男の胸の所で体を真っ二つに切り裂いていた。私はござを掴んで、それを広げてみた。ござの中には何も無い、私は丸腰の男を射殺した事にショックを受け、その場で打ちのめされてしまった。
 PRUが来て、チームの曹長が死んだ男たちを調べてくれた。私は目標としていた村長を射殺し、ドンのM60は助手を殺したようだ。曹長は死んだ村長のポケットからメモを見つけ、中の内容を私たちに話しをしてくれた。二人の男は、VC組織の州レベル会議から帰ってきた所だったらしい。無実の男を殺したわけではなかったが、それでも不愉快な気分だった。死んだ男は何も言わず、ただ銃弾に引き裂かれただけだから。
 あの日PBRで基地へ帰還する時、戦争に栄光など無いと思った事を私は覚えている。
 任務はまだ終わっていなかった。



スペシャルサンクス ベトナム語指導 みいたん殿

関連記事

POW Raid

今回はまた翻訳物です。
昨年入手した、"Teammates Seals at War"Barry・W・ Enochより、1968年に行われた捕虜奪還作戦の項を翻訳してみました。
筆者がベトナム従軍時代の仲間について書いたノンフィクションですが、日本ではあまり知られていない本なのでとても残念です。
この本の中でPRU(省偵察隊)についても書かれてましたが、また機会がありましたら紹介したいと思います。
PRU(省偵察隊)に関しては、以前書いたエントリーを参考にしてください。
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WO スコット・R・リヨンは3回目のベトナムツアーに赴いていた。
最初の遠征はSEALチーム2の戦闘小隊で参加し、2回目のベトナムツアーも同じように始まった。
その時にリヨンは、情報機関の指揮・管理下にあるPHONIXプログラムの下で、PRU(省偵察隊)へ着任する最初のSEAL顧問の一人に選ばれた。
PHOENIXでの彼の任務は、チュンティエン省の167人のチューホイPRUを訓練して活動することであった。スコットがバージニア州リトルクリーク(SEALチーム2の本拠地)へ戻ったとき、彼は准士官の辞令を受けた。それに伴い、彼はカリフォルニアのSEALチーム1に移籍し、ALFA小隊と合流した。
着任したキエンホア省は、スコットの以前の活動地域であるチョン・ティエンのすぐ北東に位置していた。
リヨンがPRUの任務と同じ地域に戻る事ができ、彼がSEALチーム2で得た経験もあわせて、ALFA小隊にとって非常に有益であった。
彼の評判はALFA小隊へプラスとなり、それが私たちの仕事への熱意を発展させるきっかけとなったのだ。
私たちはSEALsと色々な点で絆を結んでいたが、チーム全員がスコットをどう思っていたかは疑う余地が無かった。
1967年リヨンがPRUへの遠征中、彼は第4軍団地域での捕虜の目撃情報を聞いていた。
彼はこれらの目撃情報を追跡し、収容所の場所に関する多くの情報報告を確認したが、結局役に立つ事が無かった。
1968年10月4日彼は別のPRU顧問から、その年の初めのテト攻勢時に、ARVN(南ベトナム軍)の夫が捕らえられた2人のベトナム人女性のことを知った。

VCは女性達が夫の元へ面会することを許可していたが、収容所へ囚われた夫を解放するために、女性達は情報を提供することを希望していた。
女たちはPRUを収容所に案内することとなった。
スコットはこの情報を、何人かの捕虜を解放する機会だと考えた。彼の作戦への情熱は抑えられず、すぐに救出作戦の立案に取り掛かった。
彼が自由に使える戦力は、SEALチームALFA小隊、PRU、PBR(河川用舟艇)、HAL DET-3 "Seawolf"の航空部隊、そして PBR とヘリガンシップのための浮動支援基地となる USS Harnett County (LST)であった。
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PBR(河川用パトロールボート)
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HAL-DET3 Seawolf(航空部隊)

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USS Harnett County

リヨンは今後の展開が容易になるように、ヴィンビン省トラビンの施設へ部隊を移動させた。そこで彼らに会ったのは、SEALチーム1の PRU顧問ブライアン・ランドだった。
ここで考慮すべき問題があった。果たしてこの女性達を信用できるのか?
この話はSEAL部隊全体を一掃するための罠である可能性があり、ベトコンへプロパガンダ的価値をもたらす勝利にもなってしまう。
厄介な事に捕虜収容所への行き方を知っているのは、彼女たちだけだったのだ。万が一に備え裏切りに対する予防策を講じなければならなかった。
戦術的な計画のもう一つの課題は、部隊移動の規模であった。直接支援を担当する部隊は、40人以上の兵士(SEALsと PRU)を、2 人の女性だけが知っている侵入地点まで気づかれずに移動させることができなければならない。
この時点でヘリでの侵入は、やかましい騒音のために断念していた。さらに女性達は日中にしか収容所を訪れたことがなく、暗闇の中ではおそらくガイドとしての役割を果たせないだろう。
収容所襲撃は日の出前に空からの襲撃以外の手段で行われなければならなかった。
その収容所は、バサック川の河口にあるVCの複合施設のダン島(Cu Lao Dung)にあった。

この複合施設は南ベトナム人によって遺棄されていたが、今ではベトコンがそれをうまく利用していた。コン・コーは9つの島の1つであり、運河が多くて民間人が少なく、川と運河に沿って非常に密集した樹林が生い茂っていた。

潮位は川に影響を与え、そこの堤防はわずか数フィートの高さから10フィート以上に上昇した。
この潮位の差は、襲撃部隊が万が一罠にかかった場合に備えて考慮しなければならなかった。
Vinh Binh 省は Co Chiew 川と Bassac 川の間に位置していた。これはズン島をバ・スエン省に入れたので、海から作戦を開始する事となった。
スコットの襲撃計画の余波で、南ベトナムARVN軍はコンコー島を掃討した。この作戦で得られた情報によると、敵の戦力は 1~2 個の主力大隊とされていた。さらに、HF通信所を保護するための警備部隊と爆発物製造のための小型工場が存在していた。
これに加えて、これまで知られていなかった捕虜収容所の警備兵も存在したのだ。
40人の男たちは、想定していたよりもはるかに多くの困難に直面していた。
任務は次のように分割された。

PBR:侵入地点へ隠密のアプローチを行い、SEAL、PRU、捕虜の救出時に直接支援を提供する。
Seawolfs:強大な敵軍と激しく交戦し、接触を断ち切ることができなくなった場合に友軍の近接航空支援を行う。
USS Harnett County:USS Harnett County に浮動プラットフォームを提供し、PBR に燃料を供給し、必要に応じて追加部隊の通信リンクとしての役割を果たす。
ARVN:支援の要請があった場合、その地域の近くに配備される陸軍一個中隊を提供する。この中隊は、情報秘匿と安全保障のために目標が何であるかは知らされていない。ARVNはSEALの襲撃の翌日に島を一掃する。
PBRは日課のように川をパトロールし、計画は35マイルの地域全体で通常時を装ったパトロールパターンを維持することであった。
決められた時間になると、9隻のPBRが小さな川の河口に集まり、暗闇の中でパトロールが行われた。

10月6日の0215時、PBRのこの「艦隊」はバサック川を渡ってコン・コー島へ向かい行動を開始した。
流れの途中でボートはエンジンを切り、目的地に向かって川の流れに乗り漂流を始めた。
スコット・リヨンは、彼の分隊と捕虜収容所に連れて行く 2 人の女性と一緒に先頭のPBRにいた。
島に接近するとPBRはエンジンを再始動して、お互いに連絡がとれるようにしながら安全に操舵できるようにした。
女性の一人にスターライト暗視スコープを与えたので、彼女は簡単に適切な侵入ポイントを見つけることができた。彼女は突然、川岸に沿って生えた草むらの中の小さなくぼみを指差した。

リヨンはSEALが上陸の準備をして待機することを、すべての支援チ ームに警告した。
彼はPBRがまだ動いている間にチームを上陸させることを選択し、不必要な注意を引き付けないように、また奇襲の要素を維持するようにした。
スコットのチームが船を離れた後、PBR は下流へと移動した。分隊は通常の警備手順を実施してから、溝の上をパトロールし始めたが、50メートルほど進んだ所で突然行き止まりになってしまった。
リヨン達SEAL分隊は確実に罠に嵌められたと思い、2人の女性を見ながら、できるだけ静かに分隊を迎えに来るようにボートへ無線で連絡した。
船に戻ってきたスコットは皆を落ち着かせ、女性たちに間違ったポイントを選んでしまったことを伝えた。ボートを再び集めると、襲撃隊は運河を下っていった。
リヨンは最初の上陸で上手くいかなかったので、これ以上の作戦を中止するのを考えた。しかし捕虜収容所を解放するという思いは強く、作戦続行を決断した。
夜明け前になり、メンバーの誰もが神経質になっていた。他の人に頼るとうまくいかない作戦が多いように、この作戦も嫌な予感がし始めていた。SEALのメンバーは押し黙ってしまい、以前ここの地域で船を失っていたPBRの乗組員は、皆緊張し恐怖を感じていた。

二人の女性は最初に犯した致命的なミスのために、とても緊張していた。
運河の約800メートル下ったところで、二人のベトナム人女性は川岸にある別の溝を指刺したが、今度こそそれが正しい溝だと確信していると申し出た。
スコットの分隊はその地域をチェックしたが、敵の往来が多いという証拠は見つからなかった。
地形は非常にぬかるんでいて、2フィートから4フィートの高さの葦で詰まっていた。葦の茎は鋭くて硬く、全員が裸足で行動していたので、隊員の行動の邪魔になっていた。
SEALが300メートルほど葦の中を歩いていくと、見慣れない道に出くわした。彼らも他の友軍もこの地域で活動したことがなかったので、この道は何か重要な意味を持っていると考えられた。
ブービートラップや盗聴器に気をつけながらその道を進んでいくと、SEAL分隊は小高い丘のすぐ下で止まった。リヨンが単独で前に出て丘の上から覗き込むと、眼下に捕虜収容所があった。
そこには女性たちが説明した通り、確かに捕虜がいたのだ。
スコットが観察を続けていると収容所に30人ほどの男たちを数えたが、中には手枷をかけられた者もいれば、棒に縛られた者もいた。二人は檻の中に閉じ込められていた。看守はちょうど起き上がったところで、一人が小さな炊事場の火を起こしていた。

武器を持っていた兵士は8人から10人で、自動小銃を持っていたのは3人だけだった。リヨンは分隊に戻り、自分が見たことを説明した。リヨンはPRU部隊を左側面に配置し、SEALが最初の掃討を終えた後、突入するよう指示した。
リヨンはもしPRUが最初に収容所に突入したならば、捕虜の状態を見たら逆上してコントロールが不可能になることを知っていた。彼はまたPRUが行動を開始すると、予定された計画から外れる傾向があることを知っていたが、これでは誰かを不用意に殺すことになりかねない。
シーウルフが支援のため離陸している間にPBRへ脱出地点に移動するよう指示し、スコットは隊員達へ「正真正銘の捕虜収容所を見つけた。それを最初に解放するのは俺達だ」と伝えた。
もう日が昇りはじめていたので、スコットは今しかないと思っていた。
分隊は武器を装填して攻撃を開始した。SEALは誰も気づかないうちに、捕虜収容所の周囲の防衛線の中に入っていたのだ。
彼らが見ていた警備兵は、正確な自動小銃の射撃を受けて撃ち落とされていた。スコットの通訳ともう一人の隊員は囚人たちに向かって、拘束から解放されても頭を下げろと怒鳴っていた。収容所内には3つの藁ぶき屋根の小屋と1つの長い張り出し屋根があった。

2人の隊員は小屋のドアへ軽対戦車ロケット(LAW)を撃ち込んでから、最初の小屋へ突入した。2番目の小屋は40mm グレネードランチャーで攻撃され、結果として両方の小屋が燃え始めた。
敵警備兵は完全に不意を突かれた。敵の兵士達は慌てふためいてジャングルの中へ逃げ去り、リヨンと彼のチームはほとんど反撃を受けなかった。
一人のVCは何もできず地面に伏せていただけで、発砲せずに降伏してきた。VCの中尉であることが判明した徴税人は、燃える小屋から24万ドン(ベトナムのお金)を持って出てきた。
最初の襲撃は3分以内に終わった。
PRUはメガホンで「一緒にいるように」「冷静になるように」と、捕虜へ指示を出しながら突入してきた。
これまでのところ隊員達にとって、すべてが計画通り完璧に進められていた。
VCがジャングルに逃げ込み、捕虜が解放されると皆感情的になったようだ。SEALが捕虜を集めて移動しようとすると捕虜たちはSEALやPRU兵士の前で泣き、感謝の気持ちを込めて手や足にキスをしてきたのだ。
この捕虜達は、収容所から引きずり出して待機している船に乗せなければならなくなるまで、敬意を表して手を合わせ続けた。
第二分隊がどれほど誇りに思っていたか、想像するしかない。
SEALsがYRBM(ブラウンウォーターネイビーの洋上拠点 デルタヒルトンとも呼ばれている)に戻り、残りの分隊員が出迎えてくれた時も、自然な高揚感は続いていた。
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*Yard Repair Berthing and Messing 写真はYRBM-20

ジョン・ウェアは故郷の恋人にこの時の事を手紙で書いている。

"親愛なるジミー

私が手紙を書かないから怒っているのは知っているよ。作戦に出ていたんだ。
私たちは金曜日の朝4:30にボートを出て、月曜日の今日戻ってきた。
作戦は完全に成功し、今までで最高の作戦だった。
ベトナム人の友軍と一緒にベトコンの収容所に入ったんだ。 SEALが攻撃の先頭に立つように 最初に投入されたんだ。
最高にクールな経験だったよ。
捕虜たちの何人かは7ヶ月前のテト以来捕虜になっていたが、彼らは私たちを見てとても喜んでいた。
ベトナム人の女性は捕虜たちに食事を与えたり、収容所への正しい道を教えてくれたんだ。
彼女の夫は収容所に捕らえられていたけど、一緒に戻って来れたよ。
喜んでいなかったかって? そんな事はない!
皆信じられないくらい喜んでいた。
ここに来て初めて、私はこの人たちを助けた達成感を感じたよ。
船に乗せた人たちを私たちが活動していたトラビンへ連れて帰った後、私たちは彼らにCレーションの缶詰を与えた。 彼らは感謝祭の夕食のように喜んでいたよ。
船の上では笑顔しか見えませんでした。本当に素晴らしい経験をしました。
あなたを愛しています。

ジョン より”

数日後、スコット・リヨンと女性二人が南ベトナムの大統領から勲章を受けることになったとの連絡があった。第二分隊は銀星章、リヨンは海軍十字章を受章することになった。
後に判明したのは、女性達とスコットはARVN軍の司令官から勲章を授与されたということで、米政府の政治サイドの指示で米海軍がリヨンにはブロンズスター、分隊のメンバーには海軍表彰メダルに格下げされたたと聞いている。
任務中にサイゴンを離れることのなかった事務員のような兵士が、タイピングやファイリングの能力を評価されて銅星をもらったという話を聞いたことがあるが、このような形でリヨンと第二分隊の隊員を表彰することは、米海軍の最高の伝統に沿ったものであったと、今でも私は信じています。

我々のチームメイトは26人の捕虜を解放したが、シールズ、PRU、PBRの水兵、航空隊員、捕虜に死傷者はなかった。
敵の方では、2名が戦死し、2名が捕虜となった。VCの徴税人1名とその蓄えていた現金を無傷で奪い取り、敵の主要基地は完全に破壊された。
個人的には、チームメイトのプロフェッショナリズムと根性は、最終的に認められた以上の価値があると感じた。
ここで、次のSEALsの戦闘員の勇気と英雄主義についての本当の話が知られるようになる時です。
完璧な作戦を計画し実行したスコット・R・リヨン
ポイントマン ジョン・ウォー
ストナーマシンガン射手 ラリー・ハバード
無選手 ストーナーマシンガン射手 ドナルド・クロフォード
M60機関銃手 デビッド・"バッド "ガードナー
ストナーマシンガン射手 レナード・ホルスター
副隊長 ストナーマシンガン射手 ハーレン・ファンクハウザー
もしこの 1968 年の捕虜奪還任務が1970 年以降に実施されていたら、それは「ブライトライト」作戦と呼ばれていただろうし、授与される勲章は重要性やメリットが減るのではなく、むしろアップグレードされていた可能性が高い。
捕虜の奪還は成功したものもあれば、そうでないものもあった。
1970年11月22日、陸軍グリーンベレーの大部隊が北ベトナムの奥深くにあるソンタイ収容所を攻撃した。囚人たちは救出されなかったが、多くの中国軍顧問たちは襲撃部隊によって殺されたが、味方の犠牲者は出なかった。同じ夜にNAVY SEALsのディック・カウチはデルタの捕虜収容所に対する襲撃で彼の小隊を率いて、19人の捕虜を解放することに成功した。この襲撃は、NAVY SEALsによって解放された南ベトナム軍の捕虜の数を48人に上げた。
これで世界は、最初の26人の捕虜を解放した人物とその名前を知る事となった。スコット・リヨンと6人のNAVY SEALsの功績です。
よくやった仲間たち!

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