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NAVY SEALs関連記事のまとめ

昨年から、ベトナム戦争時代のシールチームの歴史や色々な考察を書いてきました。
今まで日本ではほとんど知られていなかった、NAVY SEALsの初期の歴史や作戦行動などを色々書けて、僕自身も大変勉強になりました。
ただその該当記事に行くのに、このブログのデザインだとえらく面倒だというのに気が付きましてw,改めてこの記事から各ページに飛べるようにしようかと思います。

インターネット見て人の装備マネする前に資料買えよ、という記事w

ベト戦SEALS入門


NAVY SEALsの創設~ベトナム戦争終結までの歴史

NAVY SEALs の歴史 序章
NAVY SEALs の歴史 1 誕生~ベトナム戦争への道
NAVY SEALs の歴史 2 戦火の中へ(1966~)
NAVY SEALs の歴史 3 転換点 テト攻勢(1968~)
NAVY SEALs の歴史 4 ベトナムからの撤退


1965-1966年、ベトナムへ派兵されたUDT/SEALチームについてまとめたお話。

1965-1966 Part1
1965-1966 Part2
1965-1966 Part3

1968年、テト攻勢下でのNAVY SEALs/UDTの作戦行動についてまとめたお話。

テト(1968) part1
テト(1968) part2
テト(1968) part3
テト(1968) part4
テト(1968) part5
テト(1968) part6

ベトナム戦争下、案外と知られていないUDTチームの事を書いた一編。


UDT in Action

現用勢のリクエストにお応えして書いた、グレナダ侵攻時のNAVY SEALsの行動について。
(もうこの後の時代は自分で翻訳汁wwww)

Seals in action グレナダ侵攻作戦


ベトナム戦争中、暗殺作戦として知られたフェニックス計画とPRU(省偵察隊)についてまとめたお話。

フェニックス 1967-1971

ベトナム戦中、シールチームが使用した武器に関しての記事。

Navy SEALs Weapons
Navy SEALs Weapons 2

SEALチームで使われた有名なシステム23 M60デスマシーンに関しての記事。

死の咆哮 DEATH MACHINE

戦術的、装備的な考察。

1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その1
1967年 SEALチーム2の作戦行動より抜粋 その2


ベトナムSEALsが使用した、有名な装備であるSEALベストとコートに関してまとめた記事。

SEALベストとSEALコートのお話
SEALベストとSEALコートのお話 2


NAVY SEALsのトレードマーク、UDTライフプリザーバーの紹介記事。

UDTライフプリザーバー雑記

同じくベトナム戦SEALsの代名詞となった、シールチームとジーンズに関する記事。

Navy SEALSはジーパンの夢を見るか


とりあえずこのようにまとめてみました。
これからも時間が許す限り、ベトナム戦中のNAVY SEALsの事を書いてみようと思っております。



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お知らせ

お知らせです。
2012年から始めたこのブログですが、長い間にわたりよくもまあこのような駄文を垂れ流してきたと、それと読んでくださった方々に感謝致します。
ここ最近個人的に忙しくなり、更新が滞りがちになり、大変申し訳ございません。
決してこのブログを閉鎖する事はございませんが、これから更新が遅れてしまうのを大目に見てねと、大変虫のいいお願いですw

では、また頑張ってネタを探しますので、次回更新までごゆるりとお待ちくださいませ。

管理人 物欲
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1965-1966 part3

Part1はこちら
Part2はこちら

1965~1966 Part3 拡大する戦火


1966年8月19日、SEALチームはベトナムで初めての戦死者を出します。
Nha Beの南東13km付近を偵察中、パトロールは敵の掩蔽壕と武器の集積地を発見しました。彼らは引き揚げられさらに別の場所に潜入し、ヘリコプターによって発見された敵兵を特定しました。
そこの場所でまだ新しい敵の痕跡を発見し、そこから500m離れたところにサンパン(小舟)が複数発見されました。
下士官兵ビリー・W・マケインは、パトロールチームのポイントマンをしてました。
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ジャングルの切れ目に来た時、彼は部隊を停止させ、偵察エリアの入り口に前進しました。
マケインが止まりその地域をゆっくりと偵察した時、彼はVCが伏せて待ち伏せているのを発見し、そこが待ち伏せ地帯だった事に気が付きました。
彼は、来た道を引き返してチームに待ち伏せゾーンの正確な位置を知らせるより、マケインは単独で攻撃を開始、敵待ち伏せ部隊の砲火を誘引させました。
マケインが発砲してすぐ後、川の両側から火山の噴火のように敵の自動小銃が発砲されました。
SEALチーム本体は危険を察知し、援護を得ながら応戦、VCの攻撃を抑える事に成功しました。
マケインは、最初の一斉射撃の時に戦死しました。後に彼はシルバースター勲章を死後に授与されました。


UDT11の潜水夫達は、Binh Thuy省にて行われたDeckhouse Ⅲ作戦にて、8月15日~21日にかけて重要な役割を果たしました。
1966年8月20日に、USS Perchはこの作戦のために呼ばれました。
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Deckhouse Ⅲ作戦の目的は、2つの部隊でクイニヨン北部のベトコン拠点を攻撃する事でした。
UDT-11 14名で編成されたD分遣隊は、USS Perchに乗船し、極秘で海岸線の調査をする任務を与えられました。
ベトナム戦争を通して多くの内通者がいましたが、敵は事前に警告を受けていました。
このような共産主義者の部隊が待ち伏せをしている可能性がありましたが、結局任務はキャンセルされませんでした。
8月20日の夜、潜水夫達が乗った3艘のゴムボートは海岸から陸地への偵察を行い、無事任務を行う事ができました。
翌晩、別のUDT偵察チームが送り込まれましたが、今度は敵兵が待ち構えていました。
敵VCはUDTが陸上調査を行っている事を把握してましたが、夜の暗闇の中で潜水夫達の位置を特定する事はできませんでした。
戦闘が始りましたが、敵の砲火はこの小隊には効果がありませんでした。
この時、2人のUDT隊員が銃撃戦の混乱で行方不明となり、まもなくPerchからの回収チームが編成され、行方不明者の捜索にあたりました。
この後、UDTの偵察チームが沖合2000ヤードの地点で待機していた海軍艦艇に回収されましたが、行方不明者は帰ってきませんでした。

UDTチームの隊長は、2名の行方不明者の捜索のため、別のゴムボートを用意して行動を開始しました。海岸に接近する途中でUDTの将校が、暗闇の中危険を冒しながらも目印として発煙筒に点火しました。
行方不明者はすぐに捜索されましたが、海岸沿いに隠れていたVCは、この小さな灯りに向けて発砲を開始しました。
Perchはすぐに火力支援として、甲板の50cal機関銃と40mm砲で敵兵力を抑えました。
幸いに、すべての隊員は無事帰還する事ができました。
Deck house Ⅲ作戦開始当初の2つの偵察部隊には、部隊の支援のために目標海岸から内陸部に、南ベトナム陸軍兵85名が待機していました。
だが、8月21日の夜間戦闘は、この小部隊の行動を妨害するものでした。
ベトナム軍は、日が暮れる前に自分たちの基地に戻る事が不可能となり、安全なPerchに乗船して休む事を要請してきました。
元々狭い潜水艦で収納するのが不可能のため、Perchの艦長は許可を出しませんでした。
翌日、艦長は3回目の偵察のため南ベトナム軍をフェリーで強制的に連れて移動させました。艦長はまた、海岸でキャンプをしている南ベトナム軍への支援を行うため、船を海岸から500ヤード外洋に待機させました。
日が落ちると、VCが海岸へ待機する味方部隊の周囲へ移動するのが確認されました。
Perchは敵に向けて砲火を開き、海岸線で数次の爆発を引き起こしました。
翌朝、ベトコンに脅かされて無理やり協力者にさせられた地元の村人と共に、南ベトナム軍の兵士達は避難しました。
海軍のスイフトボートで避難しましたが、後にこの民間人たちは米国に移されました。
一方潜水艦 Prechは海岸に接近し、火力支援を続行しました。
UDT指揮官はゴムボートに乗り、襲撃行動を取りながら南ベトナム軍と潜水夫のグループを導きました。
海岸線を確保し、2名の敵兵を捕虜にした後、彼らは計画通りにこの地域の調査を完了しました。

1966年9月、改装されたレギュラスⅠミサイル潜水艦は、太平洋艦隊が所有する特殊作戦用の船舶として、今まで使われていたPerchの代わりとして就役しました。
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*浮上してから発射する核搭載ミサイルで、ICBMが登場するまでアメリカの核戦略の一翼を担った

この船はフィリピンに到着し、Perchの乗組員の80%を搭乗させました。
この潜水艦の後部甲板にあるミサイルデッキは、6つのIBS(膨らませて使うゴムボートなど)を含むすべての戦闘装備を持った70名までの水兵を運搬できるよう改造されました。

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*USS Tunnyからレギュラスミサイルが発射される瞬間。このミサイル格納庫がそのまま兵員室へ転用された。

USS Tunny(APSS 282)は、水中作戦で行う甲板での複雑な操作を支援するよう訓練された乗組員を搭乗させていたため、UDTの隊員は戦闘任務のみを行う事が可能となりました。
また乗組員の中には、海岸線で危機に瀕したUDTチームの支援を行う、もしくは敵の舟艇を撃退するための無反動砲を操作する訓練を受けた者もいました。

Perchがベトナムから離れる寸前、Deckhouse Ⅳ作戦の支援のために活動しました。9月の最初の二週間に、UDT12の2個小隊が甲板から出撃しました。
他の一個小隊は、支援艦であるUSS Diachenkoから行動しました。
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この三個小隊は、水陸両用作戦のため極秘の偵察任務を行いました。
1966年後半と1967年初頭に、Tunnyとチーム11とチーム12からなるUDTグループは、ベトナムの海岸添いの調査の為にリハーサルを行いました。
これらの任務のほとんどは、国家情報調査に情報を提供する秘密の調査でした。
作成された分類データは、合同参謀本部の特別補佐官(SACSA)によって利用されました。

ダナン基地の米海軍顧問団によって訓練された南ベトナムのフロッグマンチームは、北ベトナム沿岸へのボートの襲撃を続けていました。
1966年には、このような攻撃を行った船舶のうち、5隻が敵の砲火で失われました。
米本国では、SEALなどが作戦行動で使うための新型パトロールボートが生産される事となりました。オスプレーと呼ばれるこの新しいボートは、95フィートのアルミニウム製の船体を持っていました。
Nastysボートと同じDelticエンジンを搭載し、最大40ノットでの航行を可能とするものでした。
このオスプレイボートは、1968年に実戦投入されます。
*高速モーターボートは、この後各種タイプが実戦投入され、SEALにとって無くてはならないものとなります。詳しくはこちらを参照。

SEALチームは、RSSZへの小規模なコマンドウ作戦を続行していました。
9月1日と13日に2個SEALチームが、それぞれTac Bai Tien川で接敵し、2名のVC兵士を殺害しました。
66年7月に発見して破壊した敵のキャンプが、再建されたとの情報を得ました。9月18日に、SEALのパトロールチームが再び基地を破壊しました。
10月3日、分隊規模のSEALパトロールチームは、Go Gia川とNga Bay川の間にて敵のサンパンの待ち伏せ作戦を行いました。
2人一組でSEALは待ち伏せをしましたが、VCの小舟が8ヤードの近くの至近距離まで引き付けてから発砲しました。この待ち伏せ攻撃で、小舟に乗っていた3名の敵兵を射殺しました。
10月6日南ベトナム軍の掃海艇が、Nha Beから6マイルの地点で敵から攻撃を受けました。この連絡を受け、SEALチームを含む小規模な支援チームが現場に派遣され、敵兵力の撃退に成功します。

1966年10月7日、SEALチーム2個分隊(7名の隊員からなる)は、中型の上陸用舟艇(LCM)で、RSSZへ侵入しようとしていました。
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敵VC大隊はその移動を待っていました。LCMがスピードを落とし、隊員を降ろして待ち伏せの態勢に入った時に敵は発砲を開始、1発の迫撃砲弾が船を直撃しました。
19名の乗員のうち16名がその直撃で負傷しました。
SEAL隊員達は即座に、飛び乗るように船に戻りました。2名の隊員がLCMの50口径機関銃に取り付き、銃身が白く白熱するまで敵へ猛烈な射撃を行いました。その後、負傷した乗員が敵の砲火の下後退できるように、猛烈な攻撃が行われました。
この米軍への攻撃はSEALの反撃により、敵VC大隊が壊滅(40名以上の損害を与えた)して終りました。
VC大隊は夜間に活動していましたが、SEALチームとの戦いで自由な行動が取れずに苦しんでいました。
この戦いから2週間、VCはRSSZでの活動を低下させました。
SEAL隊員には死亡者が出ませんでしたが、3名の隊員が負傷し入院する事となります。
米海軍は、SEALチーム1の少人数のグループでの作戦行動の結果が、非常に良好な事を留意しました。
SEALチームは7名の将校が追加され、10月には増援として30名が送り込まれました。
ベトナム戦争のこの時期、ホワイトハウスは共産主義者の反乱と、それに対する米軍への強力な支援を続けました。
10月下旬、ジョンソン大統領は米軍の派兵への支持表明として、ベトナムへ訪問をしました。
この後米軍の増強は続けられます。

1966年11月メコンデルタ地帯にて、UDT12はRSSZからカンボジア国境までの調査を実施しました。
UDT12司令官、ロバート・E・コンドン中佐と8名の隊員がベトナムに派遣されました。
彼らは、Deckhouse Ⅴ作戦で行われる上陸のために、Co Chien川とHam Luong川にチームを派遣しました。
加えてフロッグマン達は、Thanh Phongの敵支配地域にて情報を収集するために偵察任務を行います。
Deckhouse Ⅴ作戦における上陸作戦は、1967年1月6日に行われました。

アメリカ東海岸では9月、SEALチーム2のベトナム派遣のため5名の士官が選抜され、20名の下士官兵が準備されました。
一方、SEALチーム1の作戦行動中に集められた敵の情報は、非常に貴重なものである事が分かりました。
SEALの待ち伏せチームはある任務にて、RSSZで活動していたVCの徴収係を殺害し、その所持品から敵の給与から生活パターンまで把握する事ができました。
SEALによる軍事顧問活動も成功をおさめます。
南ベトナム政府要人のボディガードが、SEALによって教育されたL.D.N.N(南ベトナム海軍特殊部隊)から選ばれました。

大規模な敵集積地の鹵獲の典型的なものは、1966年12月3日にNha Be南東11kmで発見された、敵の巨大な
武器庫でした。
この武器庫には57mm無反動砲、ドイツや米国製の自動小銃や短機関銃、1万発の弾薬が含まれていました。
発見に携わった男たちは、チャールストン作戦にも参加し、RSSZにて偵察パトロールもおこなっています。
SEALチームは、これらの作戦での侵入と離脱の双方にヘリコプターを使用しました。これはベトナム戦争初期の頃にはまだ一般的な手法ではありませんでした。

1966年、SEALチーム1の最終的な統計は、RSSZでの153回に及ぶ戦闘から得られました。
 
VC殺害(確認済) 86名
VC殺害(未確認) 15名
サンパン    21艘破壊
ジャンク船    2艘撃沈
敵施設破壊    33か所
敵の米備蓄    521,600ポンドを爆破

上記の統計は、1966年の終わりまでベトナムに40名に満たぬ人数しかいなかった、SEALチーム1の力によって得られたものでした。
UDT11と12から構成されたD分遣隊は、1966年8月16日から12月15日までの行動を称えられ、海軍から表彰を受けました。

南ベトナムを統治するための戦争は始まったばかりであり、海軍特殊作戦部隊のメンバーは、ゲリラと戦っている貴重な戦訓を、彼らの厳しい環境で学んでいました。
UDTの水陸両用偵察は安定したペースで継続され、上陸作戦の任務成功に非常に価値があると証明されました。
初期のSEALチームによる攻撃の結果は戦争のこの段階で、従来型の作戦計画者の注目を集めました。
海軍はすぐにこのメコンデルタ地域でSEALを活用する事は、巨大で強力な艦隊を必要としない地域にて、型にはまらない方法であると理解しました。
UDTチームとSEALチームは損害を受けましたが、彼らは具体的な戦果をあげました。
ベトナム戦争のこの年、米軍の増強に合わせて、SEALとUDTの増強は始まったばかりにすぎませんでした。

1965-1966 終

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聖地巡礼 旧上岡小学校行ってきました

年末年始家に引きこもりがちだったワイら夫婦でしたが、一発奮起して行ってきました。
ガルパン絡みになりますが、いつも行く大洗を飛び越えて、茨城県の端にある大子町に行ってきました!
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朝4時に出発し、連休の最終日という事で少し警戒しておりましたが、順調に運転し朝8時30分に太子町に到着しました。
太子町は、日本三大名瀑の1つに数えられる袋田の滝がある所で知られます。
やはりここはこちらも見物しないといけませんね。
駐車場から滝まで少しだけ歩きます。
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この日の気温-2度くらいでしょうか。それでもえらい寒くてつらかったですね~
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滝までは、トンネルを数百メートルばかり歩いて行きます。
トンネルを越えると、そこは凍った滝があった。
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完全に凍ってはおりませんでしたが、それでも自然の圧倒的な情景に感動してしまいました。
袋田の滝は、その季節ごとに風景を変え、何回も見にこないと滝の美しさが分からないという事なのですが、冬でこれだから、春や紅葉の季節はどうなる事でしょうか。
また機会を捕えて是非とも訪れてみたいものです。
散策を終え、滝の近くにあるお土産屋さんで腹ごしらえです。
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天然物の鮎の塩焼き~
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奥久慈軍鶏のぼんじり串~
ビール出そうか?という売り子のおじさんの声を無視しました(笑)
今回行く旧上岡小学校は、この袋田の滝から約5km離れた所にあります。
ナビで楽々行こうと思ったのですが、入力で間違えてしまいえらい難儀をしました。
僕は
きゅうかみおかしょうがっこう
で入れて、場所が出てこなかったのですが、正解は
きゅううわおかしょうがっこう
となります。
案外と見落としがちですが、これから行かれる方は注意された方がいいかもしれませんね。
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来ちゃった!
昨年の今ごろ、劇場版のガールズ&パンツァーを繰り返し見に行き、大洗やこの学校に行きたいねーと言っておりました。
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風情のある木造の小学校ですが、卒業生が残してくれた展示物などが飾られ、すごい懐かしい感じがしました。
旧上岡小学校は、地元の有志が保存管理をしておりますが、基本入場料は御座いません。
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一個500円の手ぬぐいを販売しており、この収入で校舎の維持をしております。
あとは募金箱が置かれておりますので、この学校に行かれた方は手ぬぐいの購入をお願いします(一個買っておつりを募金してきました)
校舎の中を散策します。
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もう映画の中で使われたシーンまんまですよ。
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色々と見学していたら、受付の方からそば茶を振る舞ってもらいました。
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暖房も無いので、冷えた体にはとても嬉しかったです。
色々と学校を維持するための苦労を聞かせてもらいましたが、TVの撮影のたびに学校内の展示物を移動させたり、廃校になってから久しいのですが、現在ある残された展示物の老朽化問題など、色々聞かせて頂きました。
確かにこれを維持するのは大変です。ですが地元の有志がボランティアで草むしりをしたり、色々な努力をされているのを聞き、感動してしまいました。
さてまた移動です。
移動した先を見て、本当に思わず声が出てしまいました。
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劇場版で、大洗の生徒が集まったあのホールです。
もうまんまやん!
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会長ごっこをやるワイ
なんか感無量です。。。。
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1年生が走りぬけた廊下。ギシギシいってますので、訪れた方は走らない方がいいと思います(笑)
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そど子達風紀委員が寝ていた放送室。とっても狭いです。
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旧上岡小学校は、TVや映画の撮影でよく使われておりますが、NHKの朝の連続ドラマ「おひさま」や「花子とアン」の舞台にもなりました。
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朝の連ドラを見ているワイら夫婦、ああ、あの場面だー!と会話も弾みます。
外に出て散策すると、秋山殿が野営してソーセージ茹でていた所とか
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風紀委員3人組がやさぐれていた飼育小屋
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なんだかんだとゆっくりと見学させてもらいました。
今度は桜の時期に来たいものです。

この旧上岡小学校と大洗の風景を、アニメの場面と上手にまとめて編集されている動画がありました。
掲載の許可を頂きましたので、貼らせて頂きます。


SchattenNull様、ありがとうございました!

ここから大洗に移動です。今回の旅はこの小学校を見学するだけでなく、今がシーズンのあんこう鍋、それもどぶ汁を食べるという目的もありました。
約50kmの移動ですが、妻と交代しながら田舎道をのんびりドライブです。
大洗到着が昼過ぎぐらいでしたので、飛び込みで割烹料理屋さんにお邪魔しました。
味ごのみ 宮田
潮騒の湯の近くにあるお店ですが、あまりにも洒落乙な建物で一回通り過ぎてしまいました(笑)
飛び込みだったので、あんこう鍋以外は無理と言われてしまいましたが、こちらとしては願っても無い事です。
あんこう鍋セットをお願いしました。
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共酢が旨いんじゃぁ!
湯引きした鮟鱇を肝を刷り込んだ酢味噌に付けて食べるのですが、最後味噌だけを舐めたのは内緒です。
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鮟鱇のから揚げ最高!
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鍋キター!
このお鍋ですが、火をかける前に生の鮟肝をフライパンで炒ったのを入れています。お店の方が、鮟鱇の部位を説明してくれたり、色々なうんちくを教えてくれましたが、知らん事が多い魚ですねぇ。
完成した鍋は生臭くなく、味に深みが出てなんともいえない味となっております。
野菜も地元の美味い野菜が入っており、鮟鱇の出汁と絡まり味に深みが出ています。
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〆は雑炊!
もう何も言う事はない.....
今度は予約して来る事を誓い、大洗散策に出かけます。
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約束のみつだんご食べてー
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優季ちゃんのお店でお買いものしてー
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大洗磯前神社で参拝です。
そんなこんなで、聖地巡礼の旅は終わりました。
行くたびに感じる茨城県の魅力。
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加瀬あつし先生のヤンキー漫画「くろアゲハ」からですけど、先生のさらっと最新ネタぶっこむ所が「カメレオン」の時からのフアンなんですwwwwww
茨城は大洗だけでないのです。
巡礼者の方々も、少し足を延ばして散策されてみてはいかがでしょうか?
パンツァーフォー!ww
おまけ
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優季ちゃんのお店で購入した揚げもち。初めて購入しましたが、これ本当に美味い!
ドラマCDでうさぎさんチームが違うものを揚げていましたが、これが売ってましたら購入をお勧めします。
無論米屋さんなので、米もとても美味しいです。お勧めです。
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まいわい市場で購入しました、これも今回初めてのカワシマの桃ちゃんキムチ。
少し甘めですけど、コクのあるキムチで後を引きます。これもお勧めですよー!
今度ニラキムチも買おう(メモ)
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1965-1966 part2

Part1はこちらから

1965~1966 Part2 SEALチームベトナムへの派兵

1966年2月に、第一海兵師団第一海兵連隊がベトナムに配備されました。その作戦行動には、UDTなどのフロッグマンによって支援された数多くの上陸作戦任務が含まれました。
また同月、米海軍司令部直轄の作戦のためにサンディエゴのSEAL TEAM 1(3名の将校と15名の下士官兵)の小さなグループが、南ベトナムに送られました。
当初、海軍の作戦立案者はこの小グループを、どうすべきかについてまったく分からず、それに運用する作戦計画もありませんでした。
1964年、歴戦の海軍士官Bucklewによって書かれたレポートにより、メコンデルタ地域でSEALを活用するように勧告されましたが、実際にSEALが派遣されるまでに2年の月日がかかりました。
Captain Phil H Bucklew
Cpt Bucklew

SEALsは、Saigon近郊のランサット特別地区(Rung Sat Special Zone [RSS])で活動するベトコンゲリラを標的としました。
この泥だらけのマングローブ沼の広さは約400平方マイル、そして1mちょっとの水深で4ノットの速い潮流が流れていました。
野生生物の棲家だったこの湿地帯は、Saigon近くで行うゲリラ作戦の避難所として、VCが長い間使用してきました。Saigonに向かう航路はこのVCの巣ともいえる隠れ家を経由するので、一般の商船への頻繁な襲撃や砲撃を可能にしてきました。
*RSSZ(ランサット特別区域)は、以前より共産ゲリラの聖域として知られていた。
別名「暗殺者の森」とも言われている。
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このSEALの小さなグループは、Nha Beの海軍基地から出撃し、最初はD分遣隊という名目で配属されました。
これらの初期のSEALによって蓄積された経験と実績は、ベトナム各地への他の小隊の配備を推し進めました。
彼らの登場は、ベトコンの活動を阻害しました。これは今まで実質的に不可能とされてきた事でした。
VCはもはや、航路の妨害を行う事も逃走することもできなくなりました。
SEALの待ち伏せポイントは、偵察用航空機に設置された「赤いもや」と呼ばれる赤外線装置によって得られた敵の移動を参考にして、それに情報を加味して決定されました。
ベトコンはすぐに、この新しい脅威が彼らの領域で活動を始めた事を察知しましたが、未知の敵の正体が明らかになるまで対抗する事ができませんでした。
この間、RSSZにおけるVCの活動は低下しました。

現時点では、SEALの作戦上の役割は依然として定まっておらず、それによって一般命令の拡大解釈によって大きな柔軟性を得る事ができました。
あるSEAL隊員は、下された作戦の例をこう話しました。
「敵と接触が行われるまでのパトロール。できるだけ多くの敵兵を殺害する事。任務完了後に敵地から脱出する」
SEAL小隊内で、作戦展開地域(AO)や標準的な作戦手順(SOP)を確立する際に問題が発生しましたが、SEALはこれを部隊で実行するために最善を尽くしました。
後に海軍関係者は「SEALパック」と呼ばれるものをまとめました。
このグループは、ボートサポートユニット(Boat Support Units)、機動サポートチーム(Mobile Support Teams)、海軍のシーウルフ武装ヘリコプターなどの支援部隊などで構成されていました。
SEALの典型的な作戦では、これらの支援部隊により敵地に侵入し、そして戻ってくるまで待機する。敵との接触が行われた後、これらの支援部隊はSEALの指示により火力支援を行い、優れた火力で部隊を抽出することがありました。
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そのような任務は、7名の隊員がVCの野営地がある島に潜入した作戦で見る事ができました。SEALは夜明け前、ボートで潜入しましたが、潜入後ボートは約500mほど沖合で待機していました。
SEALは海岸に上陸しましたが、足が深くはまってしまう泥に遭遇しました。彼らは完全に上陸するのに4時間以上かかりました。そこでSEALは安全を確保し、汚れてしまった武器をクリーニングしました。
それからSEALの男達は、8時間にわたり島をパトロールしましたが、何も発見できませんでした。彼らは川に隠してあったボートで合流地点に戻ったが、その時島の乾いた土地に川と並行して新しい小道を発見しました。
SEALは川に沿って潜入、静かに水の流れに沿って移動し川沿いの草木にカモフラージュして隠れました。

SEALのポイントマンは、チームをそこに留め偵察をしました。彼は2つの小屋を発見し、6人のベトナム人が集まり始めました。その近くに積まれたのは6丁のライフルで、そのうちいくつかは共産国製の武器でした。
この発見を報告するために、ポイントマンは密かに後退しました。チームの隊長は、逃走を図るであろうVCを分断するために、隊を2つに分割しました。1つの隊が小屋の方に展開していたので、もう一つの分隊はVCと反対側の運河にある小舟(サンパン)の中に潜みました。

突然、運河方向に展開していた分隊がベトナム人に発見されました。彼が警報を発する前に、SEALは火ぶたを切りました。5名のVCが射殺され、1人が小屋の中に逃げ込みましたが、その後を追うように手榴弾が投げ込まれました。

その地域を確保しながら、SEALは確保した書類をプラスチック製のバックに入れました。その書類は防水が施されたバッグに入れられ、VCのサンパンに載せられました。大柄なアメリカ人が一緒に乗るにはサンパンは小さすぎたので、SEAL隊員は運河を泳ぎサンパンを誘導しました。
彼らが沖合の支援艦艇と接触する前に、チームはVCの大規模な攻撃を受けました。川沿いにいたボートが丁度到着して火力支援を行い、チームを脱出させました。
捕獲された書類は、ほとんどの場合情報担当者にとって重要な収穫物でした。
このようなSEALパトロールは、現場の生の最新情報を安定して提供しました。

典型的なミッションでは、Seawolfヘリコプター隊の武装ヘリコプター(ガンシップ)や、固定翼の飛行機、陸上からの砲撃、軍艦による砲撃などが火力支援に使われました。
SEALは自分達に有利な環境の中でゲリラと戦い、ゲリラ活動地域の裏庭で激しい戦いを起こそうとしておりました。
小隊単位の戦いは、共産主義者の戦術の裏をかく有効な方法である事が判明しました。予期しない場所での待ち伏せや攻撃は、共産ゲリラに心理的なストレスと圧力をかけました。
SEALは反乱軍にとり戦争が高くつくように、色々な革新的な方法を取り入れ利用しました。
伝えられる所によると、SEALsはある任務で、共産党の上級幹部を暗殺したと言われています。
後に情報部は、その殺害した将校の葬儀の場所、日付、時刻を正確に特定する事ができました。
SEALはガンシップ武装ヘリコプターでその場所に強襲をかけ、仲間の葬儀に出席するために来ていた共産党の高級幹部数名を殺害しました。

1966年3月26日から4月7日まで、UDT2とSEALチーム1からの分遣隊がJackstay作戦に参加していました。
この作戦は、海兵隊がサイゴン川河口への上陸作戦も含まれていました。
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*ジャックステイ作戦に参加する、海兵隊Recon

UDTチームC分遣隊とD分遣隊の11名の隊員は、危険な河の浅瀬を迂回して上陸用舟艇を誘導するために、払暁から雨の降る朝8時に目標地点に到着した。彼らはその後監視作業を行い、上陸地点の500~800mに渡る地域の地雷などを処理し掃討しました。
SEALsと海兵隊が地域を徹底的に捜索して待ち伏せ準備をする間、UDTも敵軍の逃亡を阻止する4人組の阻止チームを編成しました。これらの部隊は、18時間にわたり該当地域に留まりました。
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1つのUDT阻止チームが、待ち伏せポイントでベトコンが乗ったジャンク船を攻撃、6名の乗員との激しい戦闘に巻き込まれました。ベトコンは戦闘で5名が戦死し、1名が捕虜となりました。
その後、部隊はベトコンの待機所を破壊するように命令を受けました。
Jackstay作戦は、UDT,SEALs,海兵隊Recon、および海軍からの部隊が参加したベトナムにおける最初の大規模な作戦として記録されました。
更にベトナム軍海兵隊支援のため、L.D.N.N(ベトナム海軍特殊部隊)とその顧問がRSSZに送られました。彼らには、3つの河川偵察作戦が与えられました。
その作戦は、参加部隊の優れた連携により、かなりの数のゲリラ活動を抑止し成功を収めました。

これまでSEALの待ち伏せチームは、NhaBeの基地から地元の民衆から見られやすい時間に、川を舟艇で行動し作戦を行わなければなりませんでした。
このような作戦行動をとるとベトコンに素早く警報が行き、初期の段階の待ち伏せ作戦は上手くいきませんでした。
ベトコンの情報網に対抗するためにとられた方法の1つが、NhaBe基地から武装したボートのみを出撃させ、チームメンバーをサイゴンまで車で送りだして移動させたやり方でした。この欺瞞作戦が4月18日と19日に初めて行われた時、SEALパトロールチームはRSSZ内で移動していたサンパンで、3名のベトコン兵士を射殺しました。
しかしながら、初期のこのような問題は以前として続いていました。
南ベトナム情報機関は情報源を厳重に秘匿していたが、4月13日RSSZにて、その情報提供者が夜間単独で灯りをつけずにサンパンで行動していたのを、SEAL部隊が待ち伏せ攻撃で殺害してしまいました。
米海軍はSEALの待ち伏せ作戦も厳重に秘匿していましたが、その後このような間違いを防ぐために、両国の連絡を強化する必要があるとみなされました。

4月27日に行われたOsage作戦にて、UDT11D分遣隊がDanangから北へ20マイルのPhuの偵察を行いました。そこで完全な水中破壊工作部隊の分遣隊がベトナムで最初に活動した事を祝して、UDT11はD分遣隊とともにC分遣隊を増援しました。
Osage作戦は、驚くべき事に敵兵力の捕獲を計画した、敵支配地域への水陸両用作戦の1つでした。この作戦の後に、夏に始まったDeckhouse作戦が続きました。
6月16日~18日まで行われたDeckhouse作戦の間、UDT11はSongCai川の岸にて、USSクックから出撃し極秘の偵察を行いました。
ベトコンの逃走を阻止するJunk Foce21にもUDTは参加しました。7月16日~18日まで、DeckhouseⅡ作戦の一部隊として行動し、その後Hastings作戦を支援するための作戦行動にも参加しました。
この作戦はDMZ(非武装地帯)から浸透してくる敵兵力の阻止の為に行われたが、北ベトナムは南部の反乱の支援を止めるつもりはありませんでした。
その結果6月にジョンソン大統領は、政治的圧力を高めるため北ベトナムのHanoiとHaiphongの石油基地の爆撃を行い、
戦いは拡大していきました。そして北ベトナムは、和平会談の提案を拒否し続けました。

6月15日早朝、SEALのパトロールはRSSZの東端にあるCo Gia川にて、サンパンを待ち伏せしました。1名のベトコン兵が死亡1名が負傷し、最後乗っていた1名が逃げ出しました。
ベトナムに派遣されたSEALチーム1は増強され、士官と20名の水兵がRSSZへ派遣されました。

7月27日正午、Can Gio村西側の川を、6名単位のSEALチーム3ケ分隊が行動していました。各分隊が静かに巡回していたら、1つの分隊が新しい足跡のついた小道を発見しました。
15時30分、SEALのポイントマンは3名の敵兵と接触しました。彼はM79グレネードランチャーを発射し、1名のベトコン兵を殺害しました。この地域を掃討している間、フロッグマン達は敵小隊を収容していた基地を発見しました。
最大で80名の兵士を収容できる規模の基地でした。
武器、装備品、米200ポンド、書類と共に大量の弾薬が鹵獲されました。
これらの鹵獲品と基地は、この後破壊されました。ここで鹵獲された文章は、Long Thanh半島のベトコンによって設置された防衛網と基地の位置を明らかにしました。

人的資源の増加に伴い、Nha BeからRSSZで行動しているSEAL分遣隊がG分遣隊として任命されました。
G分遣隊のパトロールは、RSSZのベトコンを苦しめ続けました。
8月5日Nha Beの南東16マイルの地点にて、払暁の待ち伏せで3艘のサンパンを鹵獲し(そのうち2艘はモーターを搭載していた)、積まれていた6000ポンドの米も捕獲しました。
サンパンを先導していた敵兵士は危険を察知し、仲間へ警告するために発砲しました。その後3人の敵兵が水に飛び込み、マングローブ沼地に向かって逃走しました。SEALは追跡しましたが、共産主義者は逃げおおせました。
8月7日、6名のSEAL隊員がジャンク船とサンパンを襲撃し、7名のベトコンを殺害しました。
18日の朝、パトロールチームは、306,000ポンド以上の米の備蓄を含む2つの巨大なサイロを発見しました。この地域へ空軍と海軍の砲撃支援要請され、そのサイロを破壊しました。
後にSEALは損害を評価し、徹底的に破壊するために再度派遣されました。
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